紡
蒼は、そのまま居間へと取って返した。
…あの視線の意味はなんだろう。
蒼には、月になってから、相手の感情が手に取るように伝わって来る。
紡からは、あの瞬間確かに深い愛情を感じた。
が、紡が自分を愛しているということはない。
何しろ、正月も神威の宮で顔を合わせたが、そんなことは欠片も無かったのだ。
まだ、納弥の方が親しげにしていた。
…気の所為か。
蒼は思ったが、胸騒ぎがして収まらない。
蒼は、月へ帰った十六夜を見上げた。
「…十六夜。紡は何か言ってたか?」
十六夜は答えた。
《お前が元気かって。何回も顔見てるのに、今更だって答えた。あいつ、オレの顔を見てあからさまに驚いた顔をしやがってさあ。その後なんか知らんが泣き出して、で、倒れた。そういえば、洪がどうのと言いかけてたな。》
「え、洪?」
面識はあったろうか。
いや、紡は百そこそこだし、面識などなかったはすだ。
が、転生した誠なら、同じく神威の宮で顔を合わせているはずだった。
が、誠とも特に会話など交わしてもいなかったように思う。
「…誠と話してたっけ。というか、誠が洪だって、紡は知ってたか?」
十六夜は、答えた。
《いいや、洪って名前自体を知ってるのは、極僅かだろ。龍の宮ならみんな知ってるだろうが、まだ誠が洪だって公表してねぇ。何百年前に死んだ神だと思う。》
そうだよな。
蒼は、眉を寄せた。
「…だったら、なんで洪?紡が…」と、ハッとした。「待て、十六夜、確か洪が、華鈴に記憶を留める術を教えたって言ってなかったか。」
十六夜は、頷いた。
《そりゃ華鈴は将維の許婚だったから、洪とは面識が…》そこまで言って、十六夜も驚いた声を出した。《…華鈴か!紡が華鈴なのか!》
そうとしか考えられない。
蒼は、居間を飛び出した。
そして、必死に紡の控えの間へと走ったのだった。
控えの間へと飛び込むと、紡の侍女達が驚いた顔をした。
「そ、蒼様?いかがなさいましたか?」
蒼は、なりふり構っていられずに、言った。
「華鈴は?!」
侍女達は、顔をしかめた。
「蒼様、こちらは紡様と翠玲様、白翠様の控えの間でございまして…」蒼は、侍女を押し退けて奥へと駆け込んだ。「え、蒼様!」
未婚の皇女の寝室に押し入るなど、絶対にあってはならない事だ。
が、今の蒼にはそんな余裕は全くなかった。
「蒼様!蒼様、どうか!」
後ろから、紡の侍女達が必死に叫んでいるのが聴こえた。
が、蒼は構わず寝ている紡の手を握って、呼び掛けた。
「華鈴!華鈴なんだろう?!華鈴!」
紡は、薄っすらと目を開いた。
「…蒼様…。」
蒼は、その目を見つめた。
華鈴とは違う色だが、しかし紫の瞳の向こうに、薄っすらと赤い色が透けて見えた。
「華鈴…?」
蒼が再びそう呼び掛けると、紡は涙を流しながら、蒼の手を握りしめて、答えた。
「はい、蒼様。」
それを聞いて、蒼も涙を流した。
「華鈴…!華鈴、会いたかった…!」
紡は、蒼の手をもう片方の手で撫でた。
「お待たせしてしまいました…洪に教えてもろうて、我は蒼様を思い出すために、十六夜様のお姿を鍵に転生致しましたの。絶対に存在して、必ず世にあるもの。やっと…やっと思い出しましてございます。」
蒼は、うんうんと頷いて、紡を抱きしめた。
「もう、ここに居るが良い。帰る必要はない、華鈴。また共に生きよう。」
紡は、蒼を抱きしめ返した。
「はい…!ああ蒼様、お会いしとうございました…!」
何やら侍女達が、オロオロと外で右往左往しているのを感じる。
だが、蒼は華鈴と知った紡をもう、離すつもりはなかった。
納弥は、夕刻も近くなって来て、言った。
「そろそろ戻るか。」と、維明を見た。「維明殿に相手をしてもらえるのを逃してはと、こんな時間まで。申し訳なく。」
維明は、笑った。
「良い、我とてたまには皆と戯れたいと思うておった。皇子の立ち合いも、出てはならぬと父上に言われるしで、主らと手合わせしようにもできぬ状況であったしな。久方ぶりに楽しく過ごしておる。」
維斗が、息をついた。
「兄上に敵うはずもありませぬのに。宮でもご政務ばかりでなかなかにお相手してもらえずで。父上も訓練場ではついぞ見掛けておりませぬ。」
維明は、答えた。
「父上は滅多に来られぬし、我とて参りたいが父上のお気持ちが分かるのよ。そんな時が空かぬのだ。」
龍の宮の政務は多い。
それを維心と維明で担っていてそれなのだから、今維心一人で困ってはいないだろうか。
納弥が、言った。
「では、維心殿は今たったお一人で励んでおられるのですね。大変だ。」
維明は、ため息をついた。
「父上がお一人でできぬことなどないわ。今頃軽々こなしておられるであろうぞ。父上の能力は、底がないゆえな。」
桐矢が、刀を仕舞いながら言った。
「ところで、紡殿は大丈夫なのか?部屋で寝ておるのだろう。疲れが出たとかで。」
翠玲は、頷いた。
「何も問題はないようぞ。眠って治るのならそれで良い。」と、慌てた様子の侍女達が、訓練場の入り口付近でこちらを見ているのに気付いた。「…ん?うちの侍女ぞ。いつから居った。」
維明が答えた。
「主が戻って、しばらくした辺りかの。」
え、と翠玲は、目を丸くした。
「ということは、もう数時間ではありませぬか。」翠玲は、慌てて入り口の扉を開いた。「どうした、何かあったか。」
よく見ると、これは紡の侍女だ。
侍女達は、憔悴し切った顔で、項垂れて言った。
「申し訳ありませぬ…。我らはお止めしたのですが、蒼様が…。」
皆が、首をかしげる。
蒼?
維明が言う。
「蒼?蒼がどうしたのだ。」
侍女は、目を真っ赤に泣きはらした状態で、維明を見た。
「はい…。蒼様が、紡様のお部屋へ突然にお入りになって…。もう日も暮れて参りますのに、未だ出て参られませず…。」
全員が、仰天した顔をした。
まさか、あの蒼が、疲れて寝ている皇女の寝室へ無理やり押し入ったというのか?!
維斗が言った。
「そのような!蒼は我らも驚くほどに穏やかで理不尽なことなどせぬ王ぞ!蒼がそんなことをしでかすなど、考えられぬ!」
ここに居る、皆が同じ意見だった。
が、紡の侍女は泣きはらした目でこちらを見上げて項垂れている。
維明が、言った。
「…それが真実だとしても、文句は言えぬ。」皆が、維明を見る。維明は続けた。「皇女が他の宮の王の所へ父王から離れて訪ねて参って、その宮の王が手を出したとしても、父王は文句が言えぬのよ。そういう世の中ぞ。皆分かっておろう。蒼がどういうつもりで、いったい何があってそんなことをしでかしたのかは知らぬ。が、何かわけがある。とはいえ、我は未だ信じられぬがの。あの蒼が。そも月の宮は、そういった欲とは無縁であるのよ。それなのに、そこの王が突然に…関心も無さげな様子であったのに。」
侍女達は、必死に言った。
「ですが…!維明様、誠に昼からずっとお出ましがないのでございます…!紡様を、しっかりと見ておけと王より命じられて参りましたのに、我ら、どうしたら良いのか…!」
納弥も、茫然としている。
あの父が、そんなことをしでかすなど、考えられないのだ。
維明が、息をついた。
「…仕方ない。では、翠玲と白翠には、他の控えの間を準備させようぞ。月の宮の侍女は、呼ばねば来ぬからの。我が呼ぶ。主らは今夜は、そちらで過ごすが良い。全ては明日ぞ。もし、誠に何かあったなら、蒼が明日翠明に知らせを送ろう。ゆえ、それまでは騒ぐでない。侍女、主らも取り乱すでないぞ。仮に主らが申す通りであったとしても、ここ月の宮は皆が喉から手が出るほどに嫁ぎたがる筆頭宮ぞ。紡にとって、悪い事にはならぬ。そう弁えて、明日に備えるが良い。」
侍女達は、項垂れながらも頭を下げた。
「はい…。」
翠玲と白翠は、こんなことは初めてのことで、どうしたら良いのか分からなかったので、維明の指示は有難かった。
が、明日になって本当に紡が蒼に娶られていたなら、いったいどういう顔で蒼に会い、どういう風に話したら良いのか、二人には分からなかった。




