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湖の散策

出掛けにそんな事があって、杏子は暗い気持ちになっていたが、紡に会うとそれは霧散して行った。

紡は、立ち姿からそれは美しく、綾に良く似た紫色の瞳に、黒髪の姿は美術品のようで、こちらの気持ちを癒してしまう。

そんな風に思っているのを知らない紡は、ベールの中で扇を下げて、微笑んだ。

「杏子殿。」

杏子は、ハッとして紡に歩み寄った。

「紡殿。お待たせ致しました。参りましょうか。」

紡は、杏子に合わせて歩き出しながら、微笑んで言った。

「こちらへ参ってから、毎日が心が沸くようですの。ここへ立って居てすら、美しい調度に目を奪われて…お待ちするのも楽しかったですわ。」

スラスラと出て来る言葉はとても自然で、本当にそう思っているのが分かる。

それなのに品が良く、嫌味もないのだ。

やはり上位の宮の皇女は、こうでなければならないのだろう。

「紡殿のお姿を見るだけで、我は癒される心地でございますわ。紡殿に倣って、模範的な振る舞いができるようになりたいと思うておりますの。」

紡は、フフと笑った。

「まあ。杏子殿はとてもお優しいし、親しみやすいかたですわ。我など、誰と接するのも緊張してしまいがちで…いつも庇ってくれておりました、紅蘭も嫁いでしもうて、己がしっかりせねばとこうして思い切って出て参りました。誠に来て良かったと思うております。」

箱入り娘なのだと聞いている。

あまりにも美しいので、あちこちで見初められて大変だから、宮の奥に隠されていたのだという。

杏子は、美しいのも大変だなと思った。


二人で遊歩道を歩いて湖へと向かうと、そこは湖面がキラキラと輝いて、それは美しかった。

「まあ…!」紡が、歓声を上げた。「なんと美しいのかしら…!このように開放的な場所に参るのは、初めてですわ。」

自分は、幼い頃から十六夜に抱かれてあちこち出ていた。

もっと見せてあげたい、と、杏子は足を進めた。

「あちらなら、湖面に手が届いて水に触れられますわ。皆がよく釣りをする場ですのよ。参りましょう。」

紡はまだ、湖面に見とれながら、頷いた。

二人は、湖の縁に沿って、回り込むようにして歩いて行った。


そちら側は、雑草も刈ってあり、湖がとても近かった。

杏子は、慣れたように足を進めて膝をつき、水に触れた。

「…まあ、冷たい!まだ弥生ですものね。」

紡も、思い切ったように杏子に倣って膝をつく。

そして、身を乗り出して湖面に触れた。

「まあ、本当。氷のようですわね。こんなにお天気がよろしいのに。」と、慣れない体勢にバランスを崩した。「あ…!」

「紡殿!」

杏子が慌てて手を出すと、それより先に何かがガッツリと紡を抱えた。

「おおっと、危ねえなあ。」十六夜の声が間近に聴こえる。「気を付けろ、もしかしたらって降りて来てて良かった。」

十六夜は、紡を引っ張って湖から離す。

紡は、バクバクと鳴る胸に力を失くして、そこに座り込んだ。

「ありがとう、十六夜!」と、杏子は紡を見た。「大丈夫ですか、紡殿?」

紡は、頷いた。

「あ、ありがとうございます、十六夜様。」と、十六夜を見上げた。「誠にお手間を…。」

そこで、十六夜の顔を見て、固まった。

十六夜は、宙に少し浮いたまま、苦笑した。

「気を付けろよ。」と、十六夜を見上げて固まっている紡に続けた。「あ、そうか初めて会うもんな。オレが陽の月の十六夜だ。」

紡は、まだ固まっている。

「い、十六夜様…?」

十六夜は、怪訝な顔をした。

「十六夜でいい。ってか、大丈夫か?なんか顔色が悪いぞ?」

紡は、見る見る涙目になる。

杏子も、慌てて言った。

「まあ、紡殿?ショックでしたのね、無理もありませぬ。水になど落ちたらと思うと、我でも肝が冷えますもの。さあ、宮へ戻りましょう。いきなりに無理なことをおかけしてしまいました。」

杏子は後悔していたが、紡は涙を流して首を振った。

「…違いますの。」と、十六夜を見上げた。「十六夜様…王は。蒼様はお元気であられますか。」

十六夜は、怪訝な顔をしたが、頷いた。

「蒼は元気だよ。ってか何回か見てるだろ。今更なんだ?」

紡は、答えた。

「我は…洪、に…」

そこまで言ってから、紡はフッと意識を失って、その場に倒れた。

「紡!」

「紡殿!」

十六夜と杏子が叫んだが、紡はその時には、もう何も聴こえていなかった。


「え、紡が?!」

翠玲が、訓練場で言う。

嘉韻が、頷いた。

「は。十六夜が湖の側から連れて戻りましたが、気を失っておられて。お命には別状なく、ただお疲れのようであると。只今治癒の対に、王も向かわれております。」

納弥が、言った。

「ならばすぐに行って参れ。主の妹であろう。」

翠玲は、頷いた。

「疲れただけなら大丈夫だろうが、行って参る。母上から何をしておったと叱責されてしまうわ。」と、白翠を見た。「主はここで。我だけ様子を見て参ろう。」

白翠は、頷いた。

「これほど長く宮を離れておるのは初めてであるからの。また様子を教えて欲しい。」

翠玲は頷いて、嘉韻に案内されて急いで治癒の対へと向かった。

…客間で昨夜会った時には、疲れも見せずに楽しげにしておったのに。

翠玲は、箱入り娘の妹が、心配でならなかった。


治癒の対では、杏子と十六夜が倒れた紡の枕元に居た。

治癒の神は、お疲れのようでよく眠っておられるだけですと言って、他の患者の方へと行ってしまい、ここには居ない。

杏子は、項垂れて言った。

「…お疲れなのに、湖などまで歩いてしまったから。そんな様子はお見せにならないし。」

十六夜は、杏子をなだめた。

「お前が悪いんじゃねぇ。寝てるだけだって治癒の神も言ってただろう。寝たいだけ寝かせてやったら、ケロッとして目が覚めるよ。お前は気にせず、もう部屋に帰ってろ。」

杏子は、首を振った。

「いいえ、ここに。目覚めた時に知った顔が居ないと心細いでしょう。」

そこへ、蒼が駆け込んで来た。

「紡が倒れたって?!」

十六夜は、振り返った。

「ああ、大丈夫だ。治癒の神が言うには、疲れただけだろうって。今は寝てるだけで、どこも悪かねぇ。」

蒼は、ホッとした。

「そうか。だったらいい。訓練場にも今、嘉韻をやって翠玲と白翠に知らせてる。翠明に申し訳が立たないと慌てたよ。くれぐれもって文が来てたのに。」

その声に、紡はハッと目を開いた。

「…蒼様…?」

蒼は、急いで顔を覗き込んだ。

「紡?大丈夫か、疲れたんだな。いくらでも休むと良い。体に異常はない。」

紡は、蒼を見た。

そして、また涙を流して、確かに愛情深く蒼を見た。

「蒼様…。」

そして、また眠りに落ちて行った。

「…え?」蒼は、戸惑う顔をした。「なんか、翠明とでも間違えたのかな。」

十六夜は、眉を寄せた。

「…どうかな。」と、急いで入って来る、嘉韻と翠玲を見た。「ああ、寝てるだけ。寝たら治るってさ。水に落ちかけてオレが助けたんだが、それが引き金になったのかも知れねぇ。休ませてやりな。」

翠玲は、肩の力を抜いた。

「…申し訳ない。十六夜殿、感謝し申す。これは外出などしなかったのに、正月に三日ほど父上について出てから、自信をつけたようで。月の宮と聞いて、どうしても行きたいと申してな。父上は渋々我らがついて参るならと、特別にお赦しくだされて。いきなりに遠出したので、疲れが溜まったのだろう。とりあえず、何でもないなら良かった。」

蒼は、頷いた。

「控えの間に連れて行ってやってくれないか、翠玲。そこでゆっくり休ませた方が良いだろう。」と、杏子を見た。「主も、もう本日は部屋へ戻るといい。また明日にでも、図書館にでも行って話して参ればどうか?」

杏子は、図書館なら静かだし問題ないだろうと、頷いた。

「はい、お父様。」

そうして、また眠りについた紡を、翠玲が抱き上げて、そうして控えの間へと運ばれて行ったのだった。

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