月の宮で
それぞれの宮へと結果を無事に送付して、蒼はホッとしていた。
十六夜が空から見張ってくれていたので、とりあえずは誰かに中身を見られることもなく、それぞれの宮へと結果の入った厨子は引き渡された。
送付にあたって、維明がこれでは恐らく、先に中身を見た臣下が勝手に改ざんしよるやも知れぬと言い出して、厳重に持って行く必要があると判断し、そこから態勢を整えたりしていたので、すっかり遅い時間になってしまった。
もう夕刻だったが、十六夜から全部配達し終えたぞーっと報告が来た時にはホッとしたものだった。
蒼が居間で落ち着いていると、そこへ杏子が入ってきて頭を下げた。
「お父様。」
蒼は、顔を上げた。
「杏子か。どうした、今戻ったのか?」
杏子は、ため息をついて頷いた。
「はい。このまま帰ったらお母様に何時だと思うておるのと叱られるので、しばらくこちらでお話しさせてくださいませ。」
蒼は、苦笑した。
「紡と気が会うようだな。連日茶会だと出て行って終日戻らぬと、杏奈が愚痴っておった。」
杏子は、頷いて目をキラキラさせた。
「はい、紡殿はとても気立ての良いかたで。いつなりこちらを気遣ってくださるし、とても淑やかで乱暴な言葉を使ったりなさらないし。落ち着いていらして、和みますの。あれこそ王族の女神だなあと、見倣おうと思うております。」
綾の娘だし、紡はとても模範的でおとなしいのだと聞いている。
蒼は、頷いた。
「歳も近いし、良いのではないかな。他の皇子は?」
杏子は、それには不満げに頬を膨らませた。
「お兄様ったら、訓練場にばかりいらして。お茶会はどうですかと申し上げても、全く頷いてはくれませぬの。」
蒼は、笑った。
「納弥には納弥の付き合いがあるしな。そもそも今回は維明と維斗も居るし、あれらは女神と同席などしないし。そちらに気を遣っているのかもしれない。」
杏子は、息をついた。
「それはもう、諦めておりまする。あ、そうですわ。」と、蒼を見つめた。「お父様、明日は湖に出掛けて良いですか?あちらに遊歩道があると申したら、行きたいと仰っておりましたの。そろそろ宮の中ばかりでは退屈になって参りました。」
蒼は、頷いた。
「行って参るといい。十六夜に、見ておいてもらうのを忘れずにな。一応、結界内とはいえ何があるかわからないから。」
杏子は、嬉しげに頷いた。
「はい、お父様!」
そこへ、杏奈がむっつりとした顔で入って来たが、杏子が居るのを見て、ハッとした顔になった。
「まあ、杏子?遅いと思うて父上に申し上げようと来たのですよ。」
蒼が、言った。
「杏子はオレとここで話していたんだ。特に問題はないだろう。」
杏奈は、息をついた。
「紡殿が来られてから、毎日遅くまで話し込んで戻らぬのです。御母君の綾様からも、くれぐれもよろしくと御文を戴いておりますのに。夕刻までには戻らねば。」
蒼は、頷いた。
「だから戻っておった。普段から訪ねる友も少ない宮なのだから、少しは仕方ないであろうが。」と、杏子を見た。「もう休む支度をするが良い。」
杏子は、立ち上がって頭を下げた。
「はい、お父様。御前失礼致します。」
杏子は、逃げるように杏奈の横を通り抜けてそこを出て行った。
杏奈は、慌てて呼び止めた。
「杏子!」杏子は、聴こえないフリをして去って行く。杏奈は、息をついた。「…甘やかせ過ぎですわ、王。あの子には、良いご縁をと思うておりますし、できたらコンドルの…良い神があちらにおりまして。淑やかに育てて、円滑にご縁が結ばれるのを期待しておるのに。」
蒼は、眉を上げた。
「縁?婚姻か?まだ百年そこそこなのに?」
杏奈は、頷いた。
「皇女の嫁ぎ先は、なかなかに決まらぬもの。まだ幼いと思うておっても、気が付くと成神を過ぎてということになります。毎年、正月にあちらへお里帰りさせていただくのは、あちらで良い神が居たらと思うておるからで。納弥は遂にコンドル城を選びませんでしたが、杏子はと思っております。」
杏子にコンドルの相手…。
それは、蒼もあれだけ幼い頃からあちらに頻繁に連れて行かれていたら、あちらで相手を見つけるかもしれないとは思っていた。
が、絶対にあちらでなければならないとは思ってはいなかった。
「…急ぎ過ぎだ。別に、オレはあちらでもこちらでも、杏子が良いと思う所に嫁げば良いと思っている。杏子は杏子なりに、紡が模範的な皇女なのでそれに倣おうとしているし、コツコツ励んでいるだろう。強制するものではないぞ。」
杏奈は、しかし言った。
「ですが王、納弥とてコンドル城に来なくなり、杏子まで他に嫁ぐとなると、我一人しかあちらと繋がりがなくなりますわ。それでは、なんのためにこちらへ嫁ぐことになったのか…。」
蒼は、息をついた。
「あの頃、レオニートは若すぎて、ドラゴンの脅威に立ち向かえる力がなかったゆえ、こうして主をこちらへ娶ってあちらを守った。が、今はレオニートも良い歳になり、ドラゴンも落ち着いてヴァルラム殿が治めていて問題ない。そこまでこちらの力を必要としていないし、別に繋がりがそこまで強固でなくても問題ないんだ。杏子のことは、杏子の意思に任せようと思っている。そこには口出しするでない。分かったな。」
杏奈は、まだ何か言いたそうだったが、グッと黙って下を向いた。
「…仰る通りに。」
そうして、その場を離れて行った。
蒼は、そんな杏奈の様子に、ため息をついたのだった。
次の日、杏子は朝から湖に行くのだと準備を始めた。
「十六夜?お父様が十六夜に見ていてもらえって。紡殿と湖に参るの。」
十六夜は答えた。
《そうか。見てるから心配すんな。今日は暖かいからなあ。散歩日和りだな。》
しかし、杏奈が言った。
「杏子、紡殿からいろいろ学ぶのですよ。ただの散策ではなりませぬ。綾様がしっかりお育てになっているから、歳が近いとは思えないほどあちらは落ち着いていらして。あなたもそろそろ、どこへ嫁いでも問題ないようにならねば。」
杏子は、頬を膨らませた。
「お母様ったら、我はまだそんなことは考えておりませぬ。ここに居たいのです、十六夜やお父様が居られるから安心だし。もし誰かに嫁がねばならないのなら、月の宮の軍神達が良いです。」
杏奈は、え、と顔色を変えた。
「何を申すの?レオニートに懐いて、コンドル達と仲良うやっておるのではないのですか。軍神なら、あちらにもたくさん居たでしょう。よう遊んでもろうておるのに。」
杏子は、息をついた。
「お母様、それは子供の頃なら、遊び相手が多いコンドル城はとても楽しい場所でしたわ。でも、終生過ごすのなら、我はこの月の宮の結界の中だと決めております。だって、とても清々しいもの。あちらはここまで気が清浄でも濃くもないし…ずっと暮らすのは無理ですわ。」
十六夜の声が言った。
《まあなあ、月の結界のせいで、中は全部浄化されてるからなあ。そこで育ったら、他は遊びに行くならいいが、住むのは無理とか思うかもな。》
そもそも、島の気は濃い。
碧黎が居るからだ。
大陸は気が荒い気がすると、こちらの神は皆言う。
かつてヴィランがこちらへ攻めて来たのも、その気のせいで長生きな神が多いと考えてのことだった。
月の宮は、更にその濃い気を浄化しているので、更に居心地の良い場所で、神には桃源郷と呼ばれている。
そこで生まれ育った杏子が、ここから出たくないと言うのも理解はできた。
が、杏奈は納得がいかないようだ。
「我の生まれ故郷なのですよ。それを、あなたは否と申すのですか?ならばもう、レオニートにも会いに参らぬで良いわ。」
杏子が、驚いた顔をした。
「お母様…。」
十六夜が、言った。
《落ち着け杏奈。蒼だって杏子の意思を尊重するって言ってただろうが。ここに居たいと言ってるんだから、それで良いだろ。将来気持ちが変わるかもしれねぇし。強制すんな。》と、杏子に言った。《杏子、紡が待ってるぞ。行って来い。》
杏子は、頷いた。
「うん、分かった。」と、杏奈を見た。「参ります。」
そして、杏奈の答えを聞かずに、さっさと出て行った。
何やら不穏な気配はしたが、月の結界の中なので、それは綺麗に消えて行ったのだった。




