何が懸念なのか
「…申し訳ありませぬ。」恵鈴は、言った。「あの…はい。大丈夫です。」
明日香が言った。
「大丈夫ではありませぬでしょう。ここは、皆で考えて解決するべきなのですわ。幸い、維月様もこう仰ってくださるのですから。不安に思うことを、ここで全て出しておしまいになっては。」
紅蘭は、頷いた。
「そう思いますよ、恵鈴様。この歳になるまで長く学んでいた我でも、初めて己で采配する時には緊張しましたもの。お若いのですから、不安に思われても仕方がないのです。その懸念を、払拭するお手伝いをさせてもらいたいのです。」
維月も、言った。
「我とて、碌な教育も受けられぬままに宮へ上がったので、臣下も王もどれほどに我にお教えくださったものか。それでも、こうしてやっております。恵鈴様、皆で考えましょう。」
恵鈴は、ため息をついた。
「…我は、ただ不安なのです。宮へ上がってから、始めはやり方が違ってとても不安でした。それに気付いて王が七槻をつけてくださってからは、ずっと七槻が側で控えて、いちいち全てを指導してくれました。それからは何とかそれでやって来れましたが、ここで七槻がいなくなると思うと…それだけでもう、不安で。」
綾が、言った。
「ですが侍女長がついてくれるのでしょう。これからは、そちらを頼れば良いのですよ。」
恵鈴は、下を向いた。
「はい…。」
…七槻と離れるのが嫌なのね。
維月は、思って言った。
「…七槻にとり、これは必要なことなのですよ。」恵鈴が顔を上げると、維月は続けた。「臣下の地位は世襲ではありませぬから。筆頭の子が筆頭になるとは限らないのです。それでも筆頭の子が跡を継ぐのが多いのは、それだけ親の側でいろいろな事に当たり、それを処理して実績を上げる機が多いからなのです。恐らく七槻は、この一年何も実績は上げられておりませぬ。あなた様をご立派に独り立ちさせられていたならこの限りではありませぬが、それも成せぬままに次に譲る事になり、あの子の一年は無為になりました。このままご教育係に留め置いたら、あの子の出世は見込めなくなります。故に、炎嘉様にもあのように仰ったのだと我は思います。七槻のためを思うなら、ここで解放してやり、あなた様は独り立ちできるように励まれるのが肝要かと。」
厳しいかもしれないが、それが真実だ。
恵鈴が七槻を想うなら、恐らくこれで納得するのではないか。
しかし、恵鈴は言った。
「でも…!七槻は、臣下は王の為にその命に従うのだと。我を補佐するのは、王の御為ではないのですか。」
…そうか、まだ若いから、自分の気持ちが大切なのね。
維月が思っていると、綾が言った。
「なりませぬよ、恵鈴様。仕えてくれている臣下、一人一人の気持ちに寄り添えぬようでは、本当の意味での妃にはなれませぬ。七槻が仕えるのは、あくまでも王である高彰様なのです。あなたがご立派に妃として認められてこそ、高彰様の臣下もあなたを認めてくれるというもの。褥のお世話だけではないのです。」
恵鈴は、言った。
「…褥のお世話は…まだ、一度も。」え、と皆が驚いた顔をするのに、恵鈴は続けた。「我が今少し育つまでは待つと仰って。お呼びになられたことはありませぬ。」
皆は、絶句する。
なるほど高彰は、それだけ配慮のできる王なのだ。
百少しで嫁いで来た恵鈴の負担を、少しでも減らすために、慣れてからと思ってのことなのだろう。
明日香が、言った。
「まあ…なんと高彰様はお気遣いのできる王であられることか。恵鈴様、ならば尚更に早う独り立ちして、高彰様のお気遣いに報いるように励まねば。七槻は自分の業務に戻ります。侍女長から、残りを教わってできる限り励むのがよろしいわ。実質まだ妃ではないのですから、足元を固めるためにも、一刻も早く。」
手を付けていないとは、配慮されていると思われる反面、いつなり里へ返せる理由も与えてしまっていることになる。
早く一人前になって、妃として王に受け入れてもらわないことには、その地位は盤石ではない。
紅蘭も、我が事のように焦って言った。
「そうですよ、恵鈴様。お里のご両親の御為にも、早く正式に妃として認められねば…このままでは…。」
皆の頭の中には、離縁の二文字が思い浮かぶ。
高彰は薄情ではないはずなので、簡単にはそんなことにはならないだろうが、恐らくその選択肢も高彰の頭の中にあるはずなのだ。
恵鈴は、言った。
「はい…。つまりはどうしても、七槻は戻らないのですね。側に置く知恵を頂けたらと思っていたのですが…。」
明日香が、怪訝な顔をした。
「…そもそも、何故にそれほど七槻に拘るのですか?」
…ダメ、気付いてしまう。
維月は、立ち上がった。
「…茹だってしまいますわ。まずは一度上がりましょうか。」
皆は、会話の続きが気になるようだったが、維月に言われたら仕方がない。
もうかなり長湯していて、確かに茹だりそうだったのだ。
皆は立ち上がって、脱衣場の方へと移動して行ったのだった。
…どこまで誤魔化せるだろう。
維月がため息をつきながら着物を着ていると、綾が心配そうに恵鈴に言った。
「恵鈴様…先ほどの。明日香様に問われたことです。あなたは、まさか七槻に懸想でも?」
え、と維月が振り返ると、皆がそちらをガン見しているのに気付いた。
恐らく、皆同じことを思ったのだろう。
しかし、恵鈴は言った。
「分からないのです。」恵鈴は、泣きそうな顔で言う。「でも、七槻が側を離れると思うと、最初は不安が、次は寂しさが胸に迫って…我は、七槻に側にあってほしいと願っているのだと気付いたのです。」
あ、これダメなヤツだわ。
維月は、もうみんなに気取られたと確信した。
そして本神も、自覚し始めてしまった。
引き離そうと思ったことが、自覚を促すことになる可能性は考えてはいた。
が、まさかそこまで恵鈴が拒否反応を示すとは思っていなかったのだ。
仕方がない、と納得すると思っていたのだ。
が、恐らく一年は長過ぎたのだろう。
思ったより深く、恵鈴は想いを育てていたのだ。
「あの…」杏子が、割り込んだ。「恵鈴様には…その七槻という神のお話をなさる時、懸想した者特有の気を放たれます。我は月の眷属の血を半分持つので、その…分かるのですが。」
…言っちゃうのね。
維月は、杏子に口止めしなかったことを後悔した。
とはいえ、そんな間もなかったのだが。
「月の眷属…ということは、維月様も…?」
明日香が、言う。
…そうなるわよね。
維月は、観念して頷いた。
「…はい。茶会の席から、気取っておりましたわ。とはいえそれは、恵鈴様の御為にはならない。ご本神も気取られていない状況なのは分かっておりましたし。ですので炎嘉様があのように仰って、安堵しておりましたの。その方がよろしいかと。ですが…気付いてしまわれましたのね。」
そうだったのか。
皆は、気の毒そうな顔で恵鈴を見る。
まだ正式には妃ではないとはいえ、宮同士の取り決めで嫁いで、妃と決められている立場で、臣下に恋するなど不幸でしかないからだ。
いっそ高彰が娶ってくれていたのなら、高彰を恋慕う気持ちも湧いたかも知れず、こんなことにはならなかったかもしれない。
が、もう起こってしまったことなのだ。
今何を言っても、どうにもならなかった。
「…とにかく、着物を着て。」綾が、言った。「そのお気持ちは、忘れてしまわれた方がよろしいわ。維月様が仰るように、何も良いことなどありませぬ。ここは、高彰様にお仕えすることだけを考えて。」
恵鈴は、悲壮な顔で綾を見た。
「忘れねばならないのですか?」
紅蘭が、心を鬼にして言った。
「それは罪。七槻とて、仮に許されたとしても宮でどんな目で見られて過ごすことになるものか。そもそも王の命でお側に居ただけで、あちらはあなた様をそのような目で見てはおりますまい。七槻にとっても良いことにはなりませぬ。さあ、忘れて。戻りましょう。」
恵鈴はショックを受けた顔をしたが、誰も紅蘭を咎めることはなかった。
全くその通りだったからだ。
維月は、密かにため息をついて、維心にこのことを話しておかねばと思っていたのだった。




