第9話(2)
橘美月の名前は確かに聞いたことがあった。事件直後、俺と藤井さんとでここを訪れた時だから、もう4ヶ月も前の話になる。校長や教頭、第一発見者の主任以下、30人もいる教師たちから一人ずつ聴取したのだ。かなり骨が折れた。
教師からは、素行の悪い生徒や森崎と仲が良かった、あるいは悪かった生徒についても聞かせてもらった。そのなかに、橘の名前があった。
「別に森崎先生となんかあったわけじゃないですが、わが校には特別な生徒がおりまして……」
話してくれたのは教頭だった。教頭が言うのだから、学校レベルで『特別』なわけだ。俺と班長は身を乗り出した。
「橘ルールというのがあるんです」
「たちばなルール? なんですか、それは」
「橘美月という三年生の女子生徒のルールです。彼女は、わが校切っての秀才で県内トップはおろか、全国模試でもトップを争うほどなんです」
「はあ……」
なんだか学園ものの漫画みたいになってきた。それがどこそこのお嬢様で、我が物顔で学園を取り仕切ってるっていうわけじゃないだろうな。俺と藤井さんは今度は顔を見合わす。
「教師も彼女には教えることがなくて。外国ならさっさと飛び級してるところでしょうが、日本にはそういう制度がないもので」
「持て余してるというわけですか?」
それが殺人に結びつくとは到底考えられないが、森崎とは何かあったのかもしれない。
「いえいえ、とんでもない。彼女のような生徒がいることは、わが校にとって誇らしいですよ。体育も音楽も得意ですしね。地方紙に取り上げられたこともある」
教頭は嬉しそうに語り始めた。藤井さんは既に興味を失っている。大企業のサラリーマン家庭のようだし、学校や教師はもちろん生徒を牛耳っているわけでもない。ただ、細かい校則について従わなくても誰も何も言わない。所謂『橘ルール』の元に快適に学校生活を送っているようだった。
「森崎先生と親しかったとか、あるんですか?」
話し終わらない教頭に業を煮やした藤井さんが単刀直入に聞いた。大体自分の子供でもないのに、なんでこう自慢できるのか。学校は何もしていない。いや、むしろ何もしないことが彼女の才能を伸ばすのだと信じているのか。
「いえ、まさか。森崎は数学教師ですが、担当教諭でもないです。第一、橘に教師なんて必要ないですから」
学校も必要ないのに登校してくれるだけでもありがたい。とでも言い出しそうだ。いや、実際そういうことなんだろう。
「わかりました。じゃあ、もう彼女の話はいいです」
あからさまに憮然として見せた藤井班長に、教頭は咳払いを一つする。改めて学内の様子を話し出した。
――――橘ルールの子か……。確かに、他の生徒とは進化の具合が違うかも。
「進化の具合ってどういう意味ですかあ? 祖先は猿じゃなかったとか?」
こじゃれた店であっても大衆酒場であっても酔っ払うと同じだ。あまり行儀はよくないが、三条はいつの間にか俺の隣に座って肩をポンポン叩いてる。俺も固いことを言う気もないし、酒と肴の美味さが勝って気分がいい。新鮮なカルパッチョ仕立ての刺身も卵焼きも絶品だ。
「そうだな。宇宙人みたいっつーか。肌なんかこう、透明でさ。光に透けるようだった」
「マジすかっ。それはもう女神様ですやん」
言葉遣いが怪しくなってきた。関西出身だとは思わなかったが、まあどうでもいいや。俺も脳みそがアルコールに溶けてきた。
「教頭に聞いた時は、何でも出来る子だってのは理解したんだけど、まさかあれほどの美少女とは思わなかったんだよな。ま、偏見だよ」
ミス東大がテレビで活躍している時代なのに、この固い発想が事件の解決を遅らせたのかもしれない。そんな感想が脳裏によぎったけれど、酔いが勝つ俺はそのまま上機嫌で話し続けた。




