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「だい・う・か?・がはな・す・?」
真上から女性の声がする。けれども脳の前頭葉辺りに重しがのしかかっているように頭が働かず、誰かから発せられた音は認識されないまま途切れ途切れに頭を通り抜けていく。思考の境界があいまいになっているまま今度は目を開けようとするが、頭の芯が全く動かないような眠気に似た感覚で目を開けることが出来ない。這うようにして体を動かす。右頬が少しひんやり冷たく感じた。この硬さは石?右頬に砂がじゃりじゃりと擦れる。時間の経過と右頬に感じた少量の刺激に、ボーっとしていた頭が少しづつクリアになっていく。今自分は地面に突っ伏して寝ている。何故?今日は確か大学が終わって神社へと向かっていたはず…
その瞬間膜のようなものが被さってきたかのように、全身を凄い速さで寒気が覆った。停滞していた体の感覚が反射の様に活発になっていく。自分の体より何倍も大きい背丈の怪物、走るというよりは身をもがくようにして木々をなぎ倒しコンクリートを削るあの姿が、絶望と恐怖を伴って実体験として意識に打ち付けられる。
「うわあぁ!」驚きと悲鳴が合わさったような声を上げながら、うつ伏せになっていた体を強張った腕で半ば強引に反るようにして起こす。心臓は少し早くバクバクと波打っていて、一定の感覚で上の方へ内臓を持ち上げていた。
「あ、起きましたね。大丈夫ですか?怪我はないですか?」
「・・・」女性の心配の声を無視するようにして、身体を引きずって後ろ向きに数歩下がる。手のひらの擦り傷が砂と擦れて血と混ざって痛い。
さっき声をかけていたのは多分この人だろう。軽く口元に笑みを浮かべながら自分を見ている。年齢は20代前半から半ばぐらいか。全体的に顔のパーツが澄んでいるからか、笑う女性の顔からは威圧感ではないが氷が張り付いているような冷たい雰囲気を感じた。眼はまん丸い形ではなくスーッと続いて流線形の様な線を描きながら目尻まで綺麗に縁取っている。瞳は少し紫色の混じった黒色で黒曜石のように透き通って昏く、月から差し込む光を飲み込んでいた。服装は和服、着物?なのか現代に似つかわしくない服を着ているが、少し薄目な赤色と紫がグラデーションの様になっている生地に色とりどりの花があしらわれていて華やかで美しい。後ろで結っている長髪は風で揺れており、名前は分からない大きい花の髪飾りが暗い夜でも真っ赤に燃えていた。
「すいません助けてください!!道歩いてたらいきなり何かの大きい化け物に襲われてやっとの思いでここまで来たんです」縋るように声を上げる。もう限界だ。足はさっき追いかけられて走った時の疲労が影響して微塵も動かなくなってしまった。服装はおかしいけれど、怪我の心配をしてくれたし少なくとも自分に害を与えることはないと信じたい。
「ええと、はい。いいですよ」口元に笑みを浮かべ表情を変えないまま女性はあっさりと承諾する。自分でも現実味の無い話を話していると思っていたのだが、驚くほど何も質問すること無く二つ返事だった。
助かった。服装はやっぱりおかしいけど、助けてくれるならそれも些細なことに過ぎない。それとどこか神秘的な雰囲気を纏っているのでもしかしたら自分を助けてくれる神様ではないか。きっとそうだそうに違いない。強張った筋肉が弛緩していくのを感じる。これで家に帰ったらもう二度とここには来ないようにしよう。お清めにも行かないといけないかもしれ…
「けど、その代わり毎週同じ時間にここにきて下さい。約束です破ったら呪いますから」
・・・・え? 何を言っているんだこの人…
正直女性が何を言っているのか理解できない。呪いとか訳が分からない。気味の悪い冗談かもしれない。それぐらい急だった。でもその女性が冗談を言っているとも思えない。さっき自分は嘘みたいな出来事に既に遭遇していた。冗談だと笑い飛ばせる立場に自分はいなかった。この女性ももしかしたらさっき会った奴と同じ感じのやつなんじゃないか。断ったら殺されるんじゃないか。
「聞こえませんでしたか?」
「毎週同じ時間にここに来てください。」念押しするように繰り返す。真っ赤な髪飾りがゆらゆらと風に揺られていた。
「…はい」
女性の後ろの地面は抉られてぼこぼこになって、道沿いに木々がぐちゃぐちゃに散乱している。
その日は取り敢えず夜が明けるまでは本殿の階段に腰掛けて寝て、朝の五時ぐらいの日が昇ってきた辺りの時間帯になってから帰らされた。帰りの道はぐちゃぐちゃで足場が悪く、いつもより帰るまで二時間ぐらい時間がかかった。ニュースやテレビはこの一週間絶対に見なかった。




