最終話
寝転んだ布団から天井を見上げると、古びた白熱灯で蛾が羽を休めていた。辺りの木目は奇妙に入り組み、まるで人外の顔から睨みを効かされているようにも思える。
隣の布団ではシャララが寝息を立てており、その顔は安らかだ。
私も眠りにつく為、延々と努力を続けているが一向功を成さない。何故ならば腹が減っているからだ。理由があるとはいえ、今日の夕食を控えめに済ませたことが良くなかった。
ダイエットを始めた訳でもなく、明日に健康診断を控えた宮仕えの身である訳でもない。
リュウの残りは最早一欠片。
それに気付いたのは晩飯を作り始めたその矢先。どうせなら最後はとびきりの料理を作ろうと画策した私たちは、本日を粗食で済ませ、材料を買い出す明日に胸を膨らませることとしたのである。
「期待に膨らむのは胸だけか。膨らめよ、腹も」
などと独りごちても腹は膨れず、のそのそとキッチンへと這い出すが、食材は皆無であった。炊飯器も空であり、冷蔵庫は空気を冷やしている。塩や砂糖を舐める程度では私の空腹は収まらない。餌を求めて彷徨う姿はさながらルンバ。いや、もはや私は餓鬼であった。
結果ーー。
「さらば、我が初めての同居人よ」
私は友人を失った。
人恋しい日には彼に沢山話しかけた。リュウは何も言わず、側にいてくれた。
人肌恋しい夜には彼を抱いて寝た。リュウは何も言わず、側にいてくれた。
就活がスムーズでない時には彼を殴ってしまうこともあった。リュウは何も言わず、側にいてくれた。
洗濯物が多い時に、彼は何時間でもその腕にタオルを掛けさせてくれた。
そして、腹が減った時にはその身を私に差し出した。
「ありがとう。君は私の親友だった」
「素直にそう言われちゃうと流石に照れるね」
背後からくぐもった声。しかし聞き覚えが確実にある、懐かしい声を聞いた。
振り返れば、居間より頭と首をキッチンへと覗き込ませた巨大な生物が顔を出していた。その姿は幼少の頃に図鑑で見た首長竜、プレシオサウルスによく似ていた。そしてまた、半透明に透けているのは何事であろうか。
「な、なんだ、何が起きている。貴様は、何者だ」
「ノリちゃん。やっぱり僕のことは何も覚えていないのね」
私を親しげにあだ名で呼ぶこれは何だ。私の知り合いなのか? しかし生憎、私は人外の友人など……それはいた。シャララは海底の住人であり人間とはいえないのだろう。
我が賃貸にはとてもではないが窮屈そうな彼は何者か。そもそもどうやって部屋に入ったのか。戸締まりは抜かりなく、サイズを省みても奴が私の部屋に入ることは不可能だろう。ここまで巨大なものが我が部屋に侵入してきたことなど今までに一度も……あった。我が親友、リュウである。彼の存在もまた、我が部屋の大きさには異質であった。そういえばこの者は、出会った当時のリュウのシルエットを思い出させる。
「まさかとは思うが、貴様は……リュウなのか」
「そうだよー。幽霊とか魂的な登場だけれど、君の親友、遺骨だったリュウちゃんです。因みに本名はリュウグウ・ジョウノート二十八世!」
王位と共に継ぐ由緒正しい名前だとケラケラと笑いながら話すリュウ、いやリュウグウ。軽い。軽すぎる。彼がリュウであるならばそれ即ちシャララの父。つまりは海底国の前王である。威厳が足りないのではないかと私は訝しむ。それよりも幽霊だとか魂だとか、話は相も変わらず見えてこない。
「して、リュウグウとやら。何故に私の前へと現れた」
「前王は後継者に王の力を教える為に夢枕に立てるんだ。ノリちゃんの身体がようやく完全に海底王として作り変え終わったから僕が見えるようになったわけ。結構イレギュラーな存在なんだよ君は」
リュウを食べ尽くしたから、か。そういえばシャララも言っていた。遺骨を食べ尽くして身体を作り替えなさいと。しかし夢枕というに私は起きているのだが。やはり私の存在がイレギュラーということか。
「折角再会出来たんだから、まずはノリちゃんに僕のことを思い出して欲しいな。あと、リュウでいいよ」
「我々は初対面ではないのか?」
「一晩だけどね、僕と君は二人で酒を飲み明かしたんだ。あんなに楽しい夜はなかった」
目を細めてその夜とやらを懐かしんでいる様子のリュウ。私といえば身に覚えもなく、何と答えれば良いかが分からない。
「僕は死に場所を求めて王国から立ち去った。最後に地上を見てみたいと思ったから、最寄りの海岸にやってきたんだ。ひとっ子一人いない静かな冬の海岸、僕は海底よりも近付いた星々でも見ながら死を迎えようとしていた。そんな時だ、ノリちゃんが僕の前に現れたのは」
何だそのロマンチックなシチュエーションは。夜の海岸、死を覚悟した国王の前に合わせた現れた私だと。格好が良いではないか。記憶こそ無いが、きっとロマンチックな言葉をロマンチックに浴びせたに違いない。
「ノリちゃんはベロベロに酔っ払ってゲロを吐きに海へ来たんだよね」
「海を汚す愚か者ではないか」
ああ、その夜も酒に酔って失敗していたのか。それよりも嘔吐をした後にまでリュウと酒を飲んでいたとは、海を汚していなくても愚かなことは変わりないではないか。
「僕に気付いたノリちゃんは、落ちてた貝殻に一升瓶からお酒を注いでくれたんだ。嬉しかったなあ、地上人は野蛮だっていうのが海での常識だったから、君のように優しい人間の存在は奇跡なんだと思ったよ」
「ま、まあ結果としてはロマンチックな展開だ。そうやって私たちは二人、海岸で酒を酌み交わしたのか」
「いや、ノリちゃんは部屋に招待してくれたから部屋飲みだったよ。身体を折り畳んで無理矢理入るのは大変だった。ワリカンにしてコンビニでツマミを買ったねー」
ロマンチックは斯くも遠いものか。私は自らのロマンチック指数の低さに目眩までしてくるほどである。
「そこで僕は寿命が来て骨になったんだよね」
どのようにしてリュウを部屋に運び込んでいたか問題が解決した瞬間だった。まさにコロンブスの卵的発想。生きたまま部屋に来てそのまま骨になったのならば、巨大なリュウを運び入れる必要はなかったのである。
「あの夜の約束も、君は覚えていないんだよね」
「……すまない」
「僕の一人娘。シャララのことさ」
リュウは居間に目線を向ける。暗闇で顔こそ見えないが、彼女の寝息だけは耳にできた。
「僕の跡を継ぐにあたってシャララは、その、ちょっとお馬鹿……なんだよね」
「よくわかる」
「僕がそれを不安に思っているった言ったらさ、ノリちゃんは言ってくれたんだ。『私に任せろ。私が貴様の娘を立派な王に導いてやろう』って」
何と無責任な発言か。酔っているのは酒だけの話ではなく、シチュエーションにも酔っていたに違いないぞ、その時の私は。
しかしいくら何でも私の記憶がなさ過ぎて不安にもなる。リュウには不思議な力がある。もしや私の記憶を操作でもしているのではなかろうか。
「私が記憶を失っている理由が気になるのだが、貴様が何かをしたのか?」
「え? いや、何もしてないよ。ノリちゃんはシコタマお酒を飲んでたから記憶を飛ばしたんでしょ、僕のせいにしないでよ酷いなあ」
私という人間は酒に酔うとこうもなるものか。間が抜けた愚かな阿呆。私などもっと慎ましく生きるべき存在であったようだ。
「王族の血は惹きつけ合うものだから、僕の遺骨があれば必ず、ノリちゃんとシャララは出会う筈ということはわかっていたよ」
「なるほど、その為に我が部屋で死んだのか」
「でもさあ、ノリちゃんてば僕の骨食べ始めるんだもんびっくりしたよー。王のシルシまで食べちゃうし……全くもう!」
どうやら予想外の展開だったようだ。しかしそれもそうだ。腹が空いて友人の遺骨を食べ始めるなど、どうやって予想すれば良いものか。間が抜けた愚かな阿呆で申し訳がない。
「でもさ、ノリちゃんはシャララに良くしてくれたよね。介抱して、ご飯を食べさせて、文化を教えて、遊びにも連れて行ってくれて。僕を見えるようになるまで、ずっと遺骨から君たちを見ていた。何も覚えてないのに、それでもノリちゃんは僕との約束を守ってくれたんだ」
リュウはごろごろと喉を鳴らして私に擦り寄る。しかし幽霊よろしく、彼の頭は私の身体をすり抜ける。残念がりながら首を引くリュウの表情は、出会いの夜を私に思い起こさせるような気もした。
「さて! 最初に言ったよね? 僕は君に、王の力について教えに来たんだ」
「ああ。愚鈍な私であるが、覚えているぞ」
「伝える力は二つだけ。まず、王様は海底人の力を奪うことができる。ノリちゃんもシャララの力を奪っていたよね」
そういえばそんなこともあったがすっかり頭から抜け落ちていた。反逆の恐れがある賊を無力化する力なのだろう。
「そしてもう一つ。力を奪えるということは逆もまた然り。力を与えることもできる。この二つだシャララにも能力をちゃんと返してあげてね」
これだけか。そのたった二つを伝える為だけに前王とは現れるのか。もしそうでなるならば、何ともご苦労なことである。少しばかり拍子抜けしてしまう。すると、雰囲気を察したか、リュウは続けて言った。
「与えられる力とは、王の力も含まれる」
先ほどまでのおちゃらけたリュウとは違う。低く、重い声だ。無理矢理に力を継承させようとする悪漢対策として、王しか知り得ない情報だともリュウは言う。
しかし、彼が本当に伝えたいことは、この言葉の裏だろう。
「シャララに王の力を返してやれと言いに来たのか。シャララを立派な王にしてやるという約束を果たせ、と」
リュウは目を細めて首を左右に振る。狭いキッチンにその挙動は大きすぎて不安になる。
「いいや、王になるのがノリちゃんでも、シャララでもどちらでも構わない。そもそも、もはや死人の僕には強制する力もない。本当に力のことを伝えに来ただけさ。ノリちゃんとまたお話もしたかったしね」
「……そうか」
気が付けば、カーテンの隙間からは微かな光が漏れていた。私はまた、彼と一夜を語り明かしてしまったようだ。酒もないというのに。
「さて。夜も明けるし、伝えたいことも話し終えた。これで本当にお別れだよ」
「最後に、最後にシャララと会ってはいかないのか」
「言ったろ? これは前王が新王に力を説明する儀式みたいなものなんだ。関係が無いから、シャララとは会えないんだ」
最後だというのに娘にも会えないものか。リュウの声は一抹の淋しさを感じさせる。リュウとの別れが近く、私の声も同様ではあろうが。
「じゃあね! ノリちゃんの選択を僕は尊重する。何を選んだとしても、シャララとは仲良くしてあげてね! あの子はきっと……」
言い終える間もなく、リュウは消えた。遺骨も、もう無い。
私は寝室へ向かい、シャララを見た。その頭を軽く撫でつけ、言った。
「任せたぞ。三十世」
ーー
リュウと別れた後、徹夜が身体に染み入る年が近付いている私は布団に潜り泥のように眠った。多くの情報に疲れてしまったのだ。
現代社会は脳労働に溢れている。酷使に酷使を重ねている私の脳に、大量の情報を流し込まれては溜まったものではないのだ。つまり朝日と共に床についた私が夕陽と共に目覚めたことも必然と言える。リズムを取り返すことに苦労することになりそうだ。
いや、そんなことはどうでもよい。
「シャララ。帰ってしまったか」
きゃあきゃあと地上に浮かれるシャララを煩く思うこともあった。炬燵に寝転んでばかりで掃除の邪魔だったし、何故か私が彼女の飯を作ることも多かった。彼女の存在は余分な金もかかるし、気疲れも多い。シャララは、私の静かで安らかな暮らしを破壊する侵略者であった。
朝焼けの頃、王の力を継承したシャララの夢枕に夢見心地の私は立った。殆ど二人とも眠っていたようなものだったが、シキタリの説明は伝わったと思われる。
王となったシャララに、地上での用事はない。海へ帰ることには何の不思議もない。
「なのに、ここまで淋しいと思うものか」
シャララも、リュウもいない。数ヶ月前の生活に戻っただけなのだろうが、彼女たちはもはや私の日常となっていたのだ。たった六畳の居間はこんなに広かったのか。何処か穴が空いたように空虚な部屋は、私は落ち着かない気分だ。
「別れの挨拶一つなしか」
我が家を去るのであれば、一言あってもよいではないか。少なくとも私にはある、あるはずだ。それは、なんだ。
「さようなら? また会おう?」
別れを告げる挨拶ではなない。
「貴様との生活、悪くはなかった」
斜に構えるな。
「私は、貴様と一緒に暮らして楽しかった」
そうだ。私はシャララとの日常に幸せを見出していたり
「私は、シャララ、が」
独りごちた言葉にしてどうする。
私は駆け出した。裸足で、サンダルで、グレーの部屋着で。こんな格好で海底になど行けるものか、どんな格好でも行けるものか。頭では分かっていても駆け出さずには、シャララに近付かずにはいられない。
私の足は海へ向かう。西陽が沈み、その山吹色が溶け出し始めた海へ、その海岸へ。堤防をかけ、砂浜に沈み、膝まで海水に浸かって。
「好きだぁー! シャララ! 愛しているんだ! 私の飯を食べる貴様が好きだ! 美味いものを食べた時の、驚き、笑う、赤子のような表情が大好きだ!」
ああ。冬と言えど人目は多い。注目を感じる。私の咆哮は何処まで届くものか。しかし海岸を歩く衆人に声が届かなくてどうする。私が声を、思いを届けたい相手は海の底だというのに。
「王位なんてどうでもいい! ただ貴様を抱きしめたいんだ! 体温を伝えるくらい、潰れるくらい、シャララが壊れるくらい! 私は既に壊れているから! 私の叫びを聞け! シャララ! 大好きだ、愛しているんだぁ!」
背中に走る衝撃。不良に絡まれた中学時代を思い出す衝撃。背後に穿たれたのはそう、ドロップキックだった。
私は頭から海に着水し、咽せ、咳き込みながら振り返る。眼前にあるのは、バランスを崩して大の字に浅瀬へ浮かぶ我が想い人シャララであった。
彼女は起き上がり、言った。
「何を小っ恥ずかしいことをしているのですか! ああもう、私まで恥ずかしい!」
頬を染める朱色は夕陽だけではない。上気した彼女は体温も上がっているようで、バシャバシャと海水で顔を洗っている。
「シャララ? 海に帰ったのではなかったのか?」
「帰るですよ。でも手ぶらで帰るのも勿体ねえです。お土産を沢山買ってきました」
彼女が指差した先は海岸。底には大量の紙袋にリュックサック。服屋や銘菓の名前が読める。
「美味しかったお菓子に、可愛いお洋服。海底に持ち帰りたいものは沢山です」
荷物を指差し、満足そうな顔のシャララ。
なんだ、まだ帰っていなかったのか。安心すると同時に、羞恥心が嵐のようにやってくる。あの恥ずかしい告白はおそらく、全てシャララに聞かれてしまったのであろう。それに対する返答が無いことも気になるが、それよりもやはり気恥ずかしさは大きく勝る。
シャララは荷物を指差し数え終えると、私に人差し指を向け、止まる。
「そして、好きな人も持ち帰るのです」
視線をシャララの顔に向けると、目を伏せ、茹で蛸の様に赤い顔をしていた。彼女は私を好きな人と言った。
「そ、そうか。私は持ち帰られてしまうのか、うん」
「そ、そうです。王の命令は絶対なのです。私の心はとっくの昔、ノリヲに掴まれているのです」
そう、彼女は王様。そして私は就職が決まらずこの春には何者でも何色でもない無色、無職である。
「私など持ち帰っても、ただの無職だ。ヒモだ。本当にいいのか?」
「職なら考えているですよ。宮廷料理人としてノリヲを雇うのです」
「正気か? 私の料理など所詮は素人に生えた毛だ。正統派な料理といえないものも多い」
「それでいいのです。それがいいのです。私はノリヲの料理がいい、私は胃袋も掴まれているのです。ノリヲは私にご飯を作って、料理の文化を海底に広めてほしいです」
酒に酔って流木を持ち帰ったら海底王の力を手に入れて手料理を作ってくれる小さな女の子と同棲することになった件。これで将来は安泰と思っていたら王の力を返還、お別れがやってきたと思いきや宮廷料理人の職を手に入れてやっぱり私の将来は薔薇色に染まる。
海千山千、何処ぞのライトノベルのような展開である。しかし酒由来のトラブルとしてはきっと珍しいものであり、きっと酒席で話のネタにはなることは請け合いであろう。
腐れ学生が王にはなれなかったが、立派な職業を手に入れた立身出世ストーリーだ。酒のツマミにくらいはなるだろう。
私は愛する少女の手を取り、二人で海へと沈み行く。その表情と未来は、きっと明るい。