第3話
「覚えたか? 連鍋、泡油、椀献。どれも中華料理を作るにあたって基本となる技術だ」
「鍋に油をコーティングする連鍋、低温の油で食材に旨味を閉じ込める泡油、混合調味料の椀献……ですね。中華料理の技術は奥が深いです」
「中華には多くの技法がある。それは即ち、材料に加える手を惜しまないことで旨味を重ねて最高の料理を作るためのものだ。」
教本代わりに開いていた漫画本を閉じる。我が家の手狭なキッチンで本格的な中華を作ることは多少の無理があったようにも思える。何故ならば周囲が油に塗れた上に、シャララが鍋をお玉で掻き回す金属音と隣人が壁を殴る鈍い音がセッションを始めていたからだ。
おそらくは換気扇から漏れる臭いも油臭いだろう。天を見上げると、ヘドロに汚染された海を渡った船のスクリューがあったので目を逸らす。部屋に越してから数年、換気扇の掃除など一度たりともしたことはないし、引っ越しをするその日まで掃除するつもりもない。
「中華料理は炎と油の芸術とも言う。つまり油の温度を正確に把握する必要があるということだ。温度の目安は菜箸を……」
「まどろこしい方法を使ってんじゃねえですよ。私たち海底の人は、液体の温度であれば視覚で簡単に判断ができるです」
「なんと。ではこの鍋の油は何度だ」
「百八十。高温ですよ」
私は菜箸を油に突っ込み確認する。激しい気泡。高温だ。
「や、やるじゃあないか」
「ノリヲ。シルシを取り入れて海底人に身体が近付いたあなたにも出来るはずです。視覚の回路をスイッチ、王たる資格を持つあなたなら簡単なことです」
視覚の回路をスイッチとは訳のわからないことを簡単に言う娘っ子だ。しかし言われてみれば、風呂の温度を適温に保ったり、古いシャワーの水圧を強くしたりと、液体に関する不思議な力が身についていることも事実であり、私はそれらを無意識に使いこなしている。
私は目を見開いて油を注視してみた。かと思えば焦点をずらしてみたり、顔を背けてみたり。するとどうしたことか、透明だった油はみるみる赤く染まっていった。そして脳裏には確かに百八十という数字が浮かんできたのだ。
「なるほどこういうことか」
「海底人の基本技能の一つです。ちゃんと慣れておくですよ。さあ、そろそろ私は今日の晩御飯を作るです。ノリヲはいつものように居間で惰眠で貪るなりしてればいいです」
失敬なやつだ。私に惰眠など存在はしない。日々一所懸命に生き抜いている私には無駄な睡眠など一分たりとも無いのである。
とはいえすることもない。書きかけのエントリーシートや履歴書も全て捨ててしまった。王たる私には就活など必要ないのだから仕方がない。
私は居間に戻ると、相変わらず存在感が歪なリュウに背中を預けて彼と会話を始めた。
「なあ。娘が料理をしているぞ。海底には料理の文化がなかったそうだから、あんたは娘の手料理を食べたこともなかったんだろうな。同情するよ」
「骨に話しかけると何を不気味なことしてるですか……ちょっと貰っていくですよ」
シャララに聞かれていたか。彼女はリュウを無造作に手でへし折ってキッチンに戻っていった。今日の料理で使うのだろう。
だが、シャララが来るまではリュウと私は友人だったのだ。私の友人関係に口を出す権利など彼女にはないはずである。私は寝転びながらリュウの表面を手で撫でて慈しみながら料理の完成を待った。
手持ち無沙汰も極まってリュウを直接ガジガジと私が齧り始めたのと、シャララが阿呆を見る目で完成した料理を持ってきたのは殆ど同時であった。
運ばれてきた料理は、細かく砕いたリュウに餡をかけたものだった。
「一つの皿に左右で別々の餡がかけられているのか。白い餡と黒い餡で分けるとは、斬新なビジュアルをしているな」
「白い方は貝、黒い方は海藻がベースです。どちらも私が直接海から採ってきた特別なものなのです」
細かく砕いたリュウはまさに米。中華風の餡かけご飯、つまりは中華丼である。素材の旨味を存分に吸った餡をリュウに絡めて食べるのだから、不味くなりようもないというものだ。
私が黒い海藻側に手をつけようとすると、シャララはそれを諌めた。
「先に白い方から食べるのですよ。そうしなければこの料理は真髄を発揮できねえのです」
食べる順番が味に何か影響でもするのであろうか。しかし高級な寿司屋では淡白な味のネタから食べ進めるなど、美味しく食べるための作法があると聞く。地上に来て数週間のシャララがそこまでの知識を得るまでに成長しているとは到底思えもしないが、ここは彼女立てて従うとしよう。
なお、私は回る寿司屋しか訪ねたことはない。食す順番は飽きるまでサーモン、以上だ。もし高級な寿司屋など行けば会計時には私の目が回ることだろう。寿司は回らず目は回る、もう一つ言えば首も回らなくなることだろう。
「ふむ。見たことがない貝だな。海藻も私が知らないものだ」
「ふふん。地上人からすればあまり見かけないはずです。何故ならばこれらの殆どは海底で消費されてしまうですから。特に最近の若者には人気なのですよ」
ふんすと無い胸を張るシャララは得意気だ。貝も海藻も珍しい食材とは楽しみだ。私も初めての食材に臆することなく、大口を開けて思い切り頰ばった。
「これは……あまり、味がしない?」
「貝を食べたら直ぐに海藻側も食べるです!」
言われるがままに海藻側も咀嚼を始める、と。
「が!? ぐぎ? がば……」
鮮烈な痛みと血の味が口中に広がる。まるで歯が全て抜け落ちてしまったかのようにまで思える。顔面は痺れて硬直を始め、首から下へ、手足の末端にまでその痺れは広がっていく。呼吸も浅くなり、酸素が肺に回らない。意識は薄まり、不快な微睡に堕ちていくかと思われた、が。
「ひっ、ひひひ、ひ、ひひひひひひひ」
体温がみるみるうちに上昇し、笑いが止まらないではないか。先ほどまでの不快感はどこへやら、私の身体はまるでエンドルフィンに沈む。永遠に続く絶頂、どこまでも登る快感、私の脳味噌はもはやどろどろに溶けてなくなるほどだった。
「どうです? 海底ではこの貝と海藻を組み合わせて精神を解放することが流行りなのです。貝の毒素を身体に回して、海藻の薬効で治癒する。私が選んだ貝と海藻の配合はそのトリップ力が最大です!」
からからと笑うシャララ。笑っている場合ではないぞ、この薬効は。
「どれ、私も一口……」
震える手でシャララを止める。これは、駄目だ、絶対ーー。
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「ひひっ、わかったか? この海藻と貝を食べることは禁ずる。危険すぎる、ふひ」
成分が抜け切れず笑いが治らないが、私は真剣である。シャララといえば、ぶうたれた顔で抗議の意を示しているように見える。話を聞くと依存性は無いらしいが、海底の文化レベルから察するに怪しいものである。
「納得はいかねえですよ。確かに十人に一人くらいは仕事も手につかなくなって、日がな一日海藻をシャブる奴も出てきますが、危険は無いのですよ?」
十分すぎるほどに危険ではないか。私はさらに語気を強めて彼女を説得する。しかしこの子生意気な娘っ子には逆効果だったようで、彼女も逆上を始めてしまった。
「なんです、なんです、なんですか! 人の料理に文句ばかり! そんなに難癖を付けるのならば料理勝負でどちらが正しいかを決めるです!」
「いいだろう。今回の勝負、お題は中華だ!」
どうしてこうもなるものか。お互い教本代わりに漫画を読みすぎた結果なのだろう。
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「私の勝負食はこれです!」
「これは……酢豚か」
運ばれた料理を私は注意深く観察する。先ほどのような食材がまた使われていてはたまらない。具材は豚、タケノコ、ニンジン、タマネギ、ピーマンなど平凡ではあるが茶褐色に映える赤と緑が大変に綺麗だ。しっかりと食材は油通しをして野菜の鮮やかさを残す、料理の文化に触れたばかりとは思えない丁寧な仕事ぶりが窺えた。
「どれ、味の方は……」
豚肉の塊を口に含むと、その柔らかさたるは驚くべきほどだった。
「ふふん。パイナップルのペーストに漬け込んだ肉はとても柔らかくなるのです。パインは加熱するとその酵素が消えてしまうから、お肉への下拵えに利用したのですよ」
「さらにこの甘酸っぱさ、タンツウにもパインを入れたるな」
酢豚の肝とはその甘酸っぱさ。つまりはタンツウである。パイン漬けの豚肉とパインベースのタンツウ。二つが喧嘩することなどそれはあり得ないことだろう。
「水溶きリュウでトロミをつけた餡。そして……この海を思わさせる風味は、なんだ?」
「ふふふ、芝エビが入っているのです」
なるほど。殻、尻尾、頭は丁寧に除かれ、色付いた衣で豚肉と区別がつかなくなっていったが、確かにエビも発見できた。メインとしてだけでなく、全体に出汁が広がっているようでえもいわれぬ風味がこの酢豚からは漂っているのであった。
「ふうむ。美味かった。なかなかやるじゃあないか」
「とーぜん、です!」
腕を組み頷くシャララは勝ちを確信しているようだ。その口角はひくひくと痙攣し、今にも端から笑みがこぼれて落ちるほど。ここはこぼれ落ちるその笑みを拾い上げて私の料理で彼女の紅いほっぺを落としてやらなければなるまいて。
真打は後から登場するものだ私の実力を思い知らせてやろうではないか。我が部屋のキッチンは狭く、二人同時には調理ができないために私が後攻なだけではあるのだが。
「あ、後片付けと洗い物はやってないのでそれもお願いするです。ゴミもたくさん出たので捨てておいてください」
ええい。早々に私のやる気を削ぐとは奴も頭脳プレーをしかけるものだ。洗い物ほどモチベーションの上がらぬ家事はないというに。後片付けでもしながら勝負食でも考えるか仕方がない。
「まったく汚いキッチンだ。野菜の皮やエビの殻もマナイタに放置しはしではないか」
放置された皮を見るにシャララの包丁使いはまだ未熟なようだった。細々と小さく落ちた皮には野菜の本体も多い。
しかし野菜クズやエビもそうなのだが、我がキッチンにはそれらを凌駕する存在感を放つ大物が鎮座していた。
「これは……豚のすね肉か?」
そういえばシャララの勝負食は酢豚、それも、使われていた部位はおそらくもも肉であった。
「シャララめ。もも肉を使いたいがために豚を足一本買ってきおったな」
まったくもって遺憾である。歩留まりの悪いことこの上ない。食材費は私の財布から出ており、この出費のしかたはとても手痛い。彼女には地上での金遣いというものも教えてやらなければなるまい。
「ああもったいない。固いすね肉にたくさん身のついた皮。これを捨て置けとは奴は阿保なのか」
だがそれならばどうする? これからシャララを打ち負かす勝負食も作らなければならないというにー-
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「随分と遅かったじゃねえですか。私に恐れをなして逃げ出したのかと思いましたよ」
「まさか。もしも貴様に負けたら寺に行って頭を丸めてもいいくらいである」
「御託は聞いてねえのです。さっさと料理を運ぶですよ」
シャララはこんなに口が悪かっただろうか。私が料理をしている間は漫画を読んで待っていたようだが、どうにも悪影響を与えているようにも思えた。私と一緒に海底へ帰るころには彼女はどうなることか。執事とか教育係がいるのならば私は殺されても文句は言えない。不安を覚えながらも私はキッチンより勝負食を運ぶ。
「これは……一皿を二色の餡で分けているですか? 色こそ違いますが、私が最初に作った料理のパクリじゃねえですか、恥を知るですノリヲ」
「御託は聞いていない。さっさと食べてみろ」
シャララはスプーンで一掬い。猜疑心に満ちた目はどこから文句をつけてやろうかという意地悪な気持ちで満ちているようだった。
「どちらの餡も地味ですねえ。醤油色の餡と薄い褐色の餡。大ぶりな具材もないし、エンターテインメントがねえのです。きっと味のほうもたかが知れて……」
講釈をたれつつ一口。シャララは、叫んだ。
「こ、これは! 美味い、美味いです!」
シャララはがつがつと、かきこむようにして料理を食べ始めた。その姿には王女としての品行方正さなど微塵も感じることはできなかった。
「あの硬かったすね肉はよく煮込まれて柔らかい! ゼラチン質な肉は醤油と醬で味付けされて濃厚こってりです!」
続いて、慌てて褐色がかった色の餡もシャララは食べ始める。
「こちらは野菜ベースの餡ですね! さっぱりとしながらも海老のコクが後を引きます! ああもう、交互に食べるとお互いを引き立てあって食欲が無限に増進されるですよ!」
「すね肉はもちろんシャララが使わなかった部位。野菜も貴様が捨て置いた皮やクズ野菜を使わせてもらった」
ぴたりと、シャララは食べる手を止めて私の話に耳を傾け始めた。
「そりゃあ良い食材を適切に調理すれば美味しい料理は作れるだろうさ。だが、中華料理はそれでいいのか? なんて事の無い素材に惜しみなく手を加えて旨味を重ねる。それこそが真髄ではないのか?」
「……なるほど。おや? これは……?」
話を聞きながら餡の発掘を再開したシャララは、皿の底に敷かれた手間にも気が付いたようだ。
「米状に砕いたリュウを一口大にでんぷんで固めて、油で揚げたのだ。食感も良くなったし、衣が餡によく絡むだろう?」
「なるほど、どこまでも手を惜しんでいないーー私の負けですね」
シャララは敗北を認めたが、その目に口惜しさは宿っていないようだった。料理勝負など初めから無かったかのように、ただ私の料理を味わいながら口に運ぶ少女がそこにいるだけであった。
「良い食材の料理は確かに美味いだろう。だが食材にだけ頼りきった料理は如何し難い。トリップする食材を使った料理など論外と私は思う」
「そう、ですね」
ケシの実を料理に混ぜて料理を提供する事件は中国でよく報道されている気もするが、今回は棚に上げておこう。
「そうです。私が目指すのは人をハイにする料理! 手間暇かけて苦労を惜しまず、食べた人をハッピーにする料理を目指すのです! そう、私の料理に依存して、それ無しではいられないほどに……!」
うむ。少々不穏な表現こそ残るが、そこもやはり棚に上げよう。私が王になる頃にはきっと棚の上も大掃除していることだろう。頑張れ、未来の私。