第一話
酒に酔って失敗した経験など、もはや語るにも値しないと思っている。そんなくだらない経験はこの世全ての人間が通った道であり、先輩や上司のつまらない話で腐るほど聞いているだろうからだ。
好いた女子の眼前で嘔吐を披露するなり、アパート横の排水溝で冬の朝日を拝むなり。今晩に催された酒宴だけでも、おおよそ数万回は語られた武勇伝のことであろう。
よって、いくら昨晩に阿呆な飲み方をしたからといって、今更人に話せるようなエピソードが産まれるわけもあるまいと思っていた。服は着ているし、最初に目に入った天井も馴染み深い物だ。が、しかし。
「これは一体全体、何なのだろうか」
六畳一間の賃貸に鎮座するは、複雑に絡み合った枝を何重と携た、全長五、六米はある巨大な流木であった。波に洗われたか真白い表面は絹のような手触りで人肌くらいには温かい。
徒歩圏内に海岸があるとはいえ、漂着物を持ち帰ったことは初めてである。チキン屋の老人、ハンバーガー屋のピエロ、ケーキ屋の少女と夜を共にしたことは一度や二度ではない。持ち帰ってきた道端のコンクリートブロックも山となり、数年の内に我が部屋にはモン・サン・ミシェルが完成するところだ。
そもそもこの巨大さ。どこをどう考えても玄関の扉からは入らない。我が賃貸の小さなベランダからも入らない。どう運び入れたのかがわからないということは、どうやっても外に出すことができないということだ。どうしたものかと数分悩むが、大学生活も終盤に差し掛かり、真面目に出席する講義も殆どなくなった私の脳である。もはや長時間の思考に耐えられる作りはしておらず、早々に現実を受け入れるに至る。
「処分できないのならば仕方がない。このまま暮らすとするか」
独りぼっちの生活に同居人ができたとでも思えばよい。この枝振りは洗濯物だって掛けられるし、暇な時には話しかけることだってできる。返事がないのは寂しいが、何もないよりはマシというものだろう。
こうして私と流木の奇妙な同居生活は始まった。私はこの流木に『リュウ』と名付けた。
リュウは私が話す取り留めもオチもない話を文句一つなく耳を傾けてくれる。人肌寂しく抱きしめると、その抱き心地は年ごろの少女であり、癒しである。
不思議なことに、洗濯物をかけると数分で乾いてしまう。全くもって原理は分からないが、ジメジメと陽当たりの悪いこの部屋には大変にありがたい機能である。
まさに、リュウさまさまであった。
危機的状況もあった。固定費の支出が重なり、残金が底をついた日である。冷蔵庫を開けば固形化した牛乳が悪臭を放つばかりで、健康的なカロリーが私の部屋に無くなってしまった。
床の畳からイグサを収穫し煮て食べるかと思い始めたその時、私はリュウと目が合った。存在しないはずの目であるが私は感じたのだ。リュウの慈愛に満ちたその瞳を。
私は足取りおぼつかなく夢遊病患者のようだった。ふらふらとリュウに近付き、ペティナイフを枝先に通した。鉄のように硬く、檜のようにしなやかなリュウだったが、抵抗一つなく、ナイフは重力に逆らうことなく刃は進んだ。
飴玉大に切り落とされたリュウを、私は口に含んだ。
舌で転がすと最初は無味であったが、段々と複雑怪奇な妙味を醸す。スナック菓子のようにジャンクでフランス料理の用に完成されている。その味は一秒ごとに印象を変え、私は既にリュウの虜であった。しかし親友ともいえる同居人を口にした罪の意識も事実であり、私がリュウを食するのは週に一度ほどに落ち着いた。
枝の先端をスライスしてクッキーのように食していたところ、果実のように実った丸い突起を発見したりもあった。ぼんやりと光を放っていたが、もちろんそれも食べた。その突起はえもいわれぬ複雑怪奇さで繰り返し食べたくも思ったが、残念ながら二度目にすることはなかった。
リュウを取り入れてからというもの私の身体は少しばかりの変化が起きていた。私の浸かる風呂の湯が、一向に冷めないのである。冷めないばかりでなく、翌日のぬるま湯に浸かれば適温まで勝手に温まる。さらには我が部屋の古く水圧が弱いシャワーが、全盛期の勢いを取り戻すまであった。
私の身体の変化ではないようにも思えるが来客が風呂を使っても同様の現象は起こらず、我が身体のことは私が一番よくわかるのだった。
私はアパート近くの海岸沿いを散歩していた。リュウと出会った日のことは酒の所為で詳しくは覚えていないか、恐らくこの海岸での出来事だろう。ここは私の定番散歩道であり、第二第三のリュウはいないものかと目を光らせていたが、終ぞ出会うことはなかった。
新たな出会いといえば、今しがた発見した少女くらいなものである。彼女は砂浜に倒れており、全身を海水で濡らして服装は薄布一枚で素肌が透けていた。歳のころは十四、五だろうか。枯れ枝のように細い手足、起伏の少ない身体つきは未発達の果実を思わせる。
放って帰るわけにもいかないだろうと私は少女を部屋に連れて帰ることとした。決してやましい気持ちなどではない。人としての矜持である。
私は彼女を布団に寝かし、リュウに干しておいた毛布をかける。彼女を運んだときに気付いたが、驚くほどに、紙のように軽かった。まともな食事をとっていないのかもしれない。目を覚ました時に温かい食事でもあるといいだろう。私は彼女のためにラーメンを作りはじめた。
「……ぅん」
少女が意識を取り戻したのと、ラーメンが完成したのは殆ど同時だった。
「目が覚めたかい。腹が減っているのだろう、まずは食べなさい」
私が丼を置くと、彼女は寝ぼけているのか焦点の合わない目を見せたが、合点がいったのか恐る恐ると食べ始めた。食べ始めてからは早いものでほんの数口で丼いっぱいのラーメンをスープまで飲み干してしまった。よっぽどお腹が空いていたことであろう。
腹が膨れて落ち着いたのか、彼女は周囲を見回している。見回すと言っても私の部屋の殆どはリュウに覆われているのだが。彼女の視線も、やはりリュウに夢中であった。
少女の目を見ると、うっすら涙が滲んでいる。立ち上がりリュウに手を添えて、言った。
「父さん……こんなところに……」
堰を切ったように彼女は声を上げて泣き始めた。リュウの娘を自称した少女が何者なのか。その逆に、少女の父というリュウとは一体何物なのか。私は訳もわからず、リュウを抱きしめている彼女を見るしかできなかった。
十分は経っただろうか。少女は泣き疲れたのか顔を上げ、しゃがれた声で私に話しかけた。
「これは父の遺骨なのです。私はこれを半年間ずっと探していました」
リュウは流木ではなかったのか。しかも遺骨だと言う。いや待て。リュウは五、六米はあるのだ。いくらなんでもお父さん大きすぎはしないか。
「父は海の覇者。海王と呼ばれて海底の国を治めていたのです。それが寿命を悟ったのか国を離れ、その消息を断ちました。寿命で亡くなったことは間違いないでしょうが、遺体は弔わなければならないでしょう。そこで私が一人娘として捜索をしていた訳なのです」
「海王? 海底の国? 話が見えてこない」
「そうでしょうとも。我々、海の民は地上の人間から隠れて生きてきました。地上人は野蛮と聞くです。私とてできるならば関わりたくはなかったのです」
行き倒れを介抱されてラーメンをご馳走になった人間とは思えぬ物言いに、私は何処か可笑しくて笑ってしまった。
「それで、私が海で拾ったこのリュウ、流木がお父さんの遺骨だって? 取り返して弔うということか?」
「その通りです。保護してくださっていたことはお礼をいいましょう。傷一つないようで……え?」
ああ、そうか。私はリュウを食べていたではないか。所々が欠けているし、切るのが面倒で直接齧った後もある。
「ない……ないじゃねえですか! 王のシルシが!」
少女はカサカサと蜘蛛のようにリュウを這い回る。シルシとはなんであろうか。
少女は私を睨みつけ、叫ぶように言った。
「シルシはどうしたのですか! 脊椎の中心にあったはず! うっすらと光る球状のシルシが!」
「ああ、それなら多分食べちゃった」
「食べ……!?」
「美味しかったよ。遺骨も定期的に食べてる。それにーー」
少女の表情はみるみると変わる。
「君が食べたラーメンの出汁も遺骨でとったんだよ」
驚愕から絶望、そして今、少女は憤怒を見せる。
「子に親を食わせるなど! やはり地上人は野蛮な民族じゃねえですか! 私の水流撃で粛清してやるのです!」
少女が私へ指を向けると、収縮した空気中の水蒸気が螺旋を描きながら私の頬を掠めて飛んでいった。背後では壁に穴が穿たれていた。その勢いはよく知る水鉄砲の比ではなく、当たりどころが悪ければ死を覚悟する破壊力であった。しかし。
「最近さあ、身体の調子がいいんだよ」
私は少女に向けて歩を進める。水流撃とやらで私が怯むと考えていたのか、動揺を見せ始めた。
「リュウを食べてから、いや、そのシルシってやつを食べてからは顕著でね」
「と、止まるです!」
二度、三度と水流撃を放つが当たらない。動揺からか、当てる気がないのかはわからない。
「不思議な力に目覚めた感じなのかな。それが最近は特に馴染んできたよ」
「来ないでええええ!」
水流撃は私の額に向かって一直線に走る、が。
「それも効かない」
水流は解かれ、重力に従って地面に落ちた。私は少女に向けて手を伸ばす。顔面を掴むと彼女は力なく膝を突く。
「ああ、そうか。君の力も奪えるのか。危険だから預かっておこう」
彼女の頭部から力が流れ込んでくるように感じる。その感覚は、至高の酒を飲み干している時のような清涼感を感じさせた。
手を離すと、私の目の前には力無きただの少女が体力を失って眠ってしまっているのだった。
ーー
目を覚ました少女は落ち着きを取り戻し、私に色々と事情を話してくれた。
曰く、海王の遺骨には『王のシルシ』なるものが存在し、それは代々海底の国に伝わる大事なものらしい。それは歴代の王族が継承し、次はこの少女の番であると。
そのはずが、シルシは私が飲み込んでしまった。それ故に私は不安定ながらも王の力を手に入れた。これを少女に継承するには、私を殺してその脊椎からシルシを取り出す以外に方法はないらしい。本当だろうか。
「だけど私は死ぬつもりもないし、力を無くした君じゃあ私を殺すこともできない」
「……」
「リュウは返しても構わないから、諦めて帰ってくれないか」
「……決めたです!」
俯いていた少女は突然に立ち上がり、大きな声で宣言を始めた。
「あなたには私の国で王様になっていただきます!」
高らかに、私を指差して少女は続ける。
「別に私は王になりたいわけじゃあありません。指導者のいない海底の国が分解することを防ぎたいだけなのです。だから、あなたを私の国に連れて帰ることとしましょう」
「そんなことを言われてもなあ。困る」
そう、困るのだ。酒に溺れてばかりの不良大学生といえど、そろそろ卒業、就活の時期であり忙しくなるのだ。将来の為にも、良い就職先を探す必要がある。いや待て。
「その、王ってやつの初任給はいくらだ」
「初任給……? 好きなだけ国民から税金を吸い上げればいいでしょう。それだけの武力と暴力と権力があるのです」
「有休消化率と月平均残業時間は?」
「好きなだけ休んで仕事は下々にやらせればいいです」
「福利厚生」
「宮殿を好きに使えるし、公共機関は無料です」
「育休取得率はどうだ」
「女性は百パーセント。男性も八割は取得しているですよ」
「私が王になろう」
とんだところから内定とは出るものだ。エントリーシートを一つも書くことなく職場が決まるとは何たる僥倖か。
「では今すぐに海底の国へ……と言いたいところですが、こちらも条件があるです」
なんだ、話が変わるぞ。上手い話などないということであろうか。
「見たところ、あなたはまだ王の力が完璧には馴染んでねえです。身体が海底人とは違うので仕方がねえですが。それを解決してから我が国へと招待するのです」
「どうすれば馴染む」
「海底産のものを食べ続ければ馴染むはずです。つまりーー」
少女はリュウを指差し。
「父さんの遺骨を食べ尽くしてもらうです」
待て待て。多少食べたとはいえ、目測だがまだ数百キロはある。元来食が細い私には大変な荒業だ。何よりも可能な限りできれば自炊をしたくはない。自炊とは気まぐれにやるものだ。今日のラーメンを作ったのもそう。一年に一度やるかやらないかの頻度であるのだ。
「仕方がありません。私がこの部屋に住み込んでご飯を作るですよ」
酒に酔って流木を持ち帰ったら海底王の力を手に入れて手料理を作ってくれる小さな女の子と同棲することになった件。
海千山千、何処ぞのライトノベルのような展開である。しかし酒由来のトラブルとしてはきっと珍しいものであり、きっと酒席で話のネタにはなること請け合いであろう。
腐れ学生が王になる立身出世ストーリーだ。酒のツマミにくらいはなるだろう。乞うご期待。
「して、娘っ子よ。貴様の名は何という」
「私はシャララ。自分が名乗る前に聞くなんて、やはり地上人は蛮族です」
「ノリヲだ。覚えておけ」
「私は別に聞いてねえですよ」