第0話 プロローグ
ー貴方は、世界に居場所がない人を受け入れる居場所になれますか?ー
「浅井くん、ミーティングスペースまで来てくれる?」
定時を過ぎ、退社の準備をしていたところに課長から声をかけられ、俺は自分のデスクを離れ、窓際にあるミーティングスペースへと腰掛ける。
俺の会社では、1対1でミーティングスペースに呼ばれるのは、悪い知らせを上司から伝えられる場合である事がほとんどだ。
仕事で大きなミスをした覚えはないが、若干の不安に駆られつつ、課長の言葉に静かに耳を貸した。
「浅井くん、この部署に配属されてから4年経ってるでしょ?それで、この間の役員会で、君の異動が決まってね。これを受け取って欲しい。」
確かに、大学を卒業した後、この会社に入社し、この部署、総務課に配属されてからは、既に4年が経っている。
そのため、異動のタイミングとしては、驚くべき事は何もなかった。
しかし、課長からA4の紙が一枚渡され、その書面を確認すると、その紙には、容易に飲み込むことが出来ない字面が記載されていた。
『人事・総務部 総務課 浅井 蓮 2019年4月1日付を以て、株式会社ユウガオへの出向を命ずる。』
株式会社ユウガオ、そのような名称の関連会社はうちの会社には存在しない。それに、ユウガオという得体の知れない会社に社員が出向した話は聞いた事がない。
「課長、急な話で飲み込めない部分も少しあるのですが、大前提として、ユウガオという会社を存じ上げていなくてですね…。こちらは…?」
そう言うと、課長は少し決まりの悪い顔をして、口を開いた。
「この会社の事は、実は私も詳しくは知らないんだ。部長にも聞いてみたんだけれど、頑なに教えてくれなくてね…。役員会で決まった事だから、この異動は決定事項であるとしか、おっしゃらなくてね。」
そう言うと、課長は新たに一枚の紙を取り出し、僕に渡した。
「これが、会社の所在地だそうだ。あとは、今回の異動は特例として、着任日である4月1日まで、明日から二週間の特別休暇が付与されるとのことだ。また、この異動は社内には公表されない。公にはただの休職扱いとさせていただく、との事だ。」
課長の言葉の意味が理解出来ず、疑問が頭の中で交錯している。
特別休暇を貰えるのは嬉しいが、社内に非公開の意味が全く分からなかった。
「それでは、話は以上だ。なお、社内にこの異動は公表しないため、決して異動の事を他言しないように。」
そう言うと、バツの悪そうな顔をしながら、課長は足早にミーティングスペースを離れ、自分のデスクへと戻っていった。
突然の出来事に呆然としつつも、課長から渡された所在地が記載されている紙に目を移す。
「慈恵村…?」
会社名に飽き足らず、土地の名前すら聞いた事がないと言う事実に頭を抱えそうになる。
そもそも、お世辞にも頭の良い大学を出ていない俺は、この村の名前の読み仮名すら分からなかった。
特に愛着があるわけではないが、4年間着続けているスーツのポケットからスマートフォンを取り出し、調べてみると、「じけい」と読むらしい。
「慈恵村…調べても情報がほとんど出てこないな…。」
調べても情報が何もない事から、考えても拉致があかないと判断し、僕は大きなため息をつき、重い腰を上げて、自分のデスクへ戻った。
何事もなく終わると思っていた1日が、突然に人生の分岐点になった様に感じながら、荷物をまとめ、俺は足早に会社を出る事にした。
「お先に失礼します。」
挨拶に誰も反応しないことは、うちの会社では日常茶飯事だが、今日は、課長が重い空気の中、軽く会釈をしてくれた。
「俺、これからどうなっちゃうんだろうな。」
小さな声でそう呟き、今日という1日に幕を下ろす事にした。
「遠いな…。」
辞令が通知されてから、あっという間に二週間が経ち、俺は4月1日を迎えていた。
東京から電車で1時間半ほど乗り、最寄駅とされている所で下車をし、かれこれ40分は歩いているが、一向にユウガオという会社に着く気配はない。
二週間前まで働いていた会社は、都心の真ん中にあり、高い建物に囲まれていたが、今歩いている道は対照的である。
周囲は、見渡す限り人気のない僻地でしかなかった。
今はもう手入れのされていないであろう畑や、空き家がぽつぽつと散見される。
こんな所に会社があるのかという一抹の不安を抱えながら、歩みを進めていると、目の前に、この田舎の風景には不釣り合いな建物が見えてきた。
少し古く見えるが、立派な門を構えた大きな洋館である。
ようやく人の気配がある建物を見つけた事に、少しの安堵を覚え、足早に門の近くまで寄ってみると、門の表札には『慈恵村 株式会社ユウガオ』と記載があった。
人っ子一人いない先程までの道が、既に村であった事はあまりに意外であるが、その事実を飲み込み、門に付いているインターホンをゆっくりと押す。
インターホンとは思えない鈍い音が鳴ると、インターホン越しに比較的若めの女性の声が聞こえた。
「はい、どちら様ですか?」
「お世話になります。本日付で御社に出向させていただきます浅井と申します。本日より、何卒よろしくお願いいたします。」
「浅井さんですね。お待ちしておりました。こちらこそ、お世話になります。門を開きますので、どうぞお入りください。」
女性の声が途切れると、ギギギと音を立てながら門がゆっくりと開いていく。
ごくりと唾を飲み込み、一歩ずつ歩を進め、俺は建物の中へと入った。
「こんにちは!お兄さんが今日から新しく私たちと生活してくれる人??」
建物に入り、ロビーと思われる所に進むと、突然、うなじが見え隠れするくらいのショートカットの髪型をしている10歳くらいの小さな女の子が、そのしっとりとした黒髪を風になびかせ、前方から駆けてきて声をかけてきたのである。
突然の出来事に困惑していると、更にその奥から、ゆっくりと歩いてくる女性が腰まで伸びた藍色の長い髪の毛を揺らしながら、声をかけてきた。
「アザミ、初対面の人を驚かせたら駄目よ。浅井さん、びっくりさせてしまって、ごめんなさい。この子、新しい人が来るって知ってから、夜も寝られないほど楽しみにしててたのよ。」
突然の出来事に唖然としていたが、徐々に落ち着きを取り戻す。
「そうなんですね。突然、可愛らしい女の子が声をかけてきたので、驚いてしまいました。初めまして。浅井と申します。本日から何卒よろしくお願い致します。」
「こちらこそよろしくお願いします。私は、桔梗 菫と申します。こちらこそよろしくお願いします。」
定型的な挨拶を交わした後、かねてからの疑問を女性に伺ってみる。
「ちなみに、非常に失礼な質問になるかと思うですが、こちらの会社では何をなさっているのでしょうか…。前の会社では、こちらの事業について何も聞かされてなくてですね…。」
言葉を選びながら、疑問をぶつける。近くにいるアザミと呼ばれた少女が会話に混ざれず、退屈そうにしていたため、少し頭を撫でようとすると、
「「いやぁぁっ!」」
ーー少女の甲高い悲鳴が部屋中に響き渡った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。独りで良い子にしてるから痛い事しないで。独りで良い子にしてるから。」
突然の少女の豹変ぶりに言葉を失う。笑顔で俺を迎えてくれた少女は、何処にもいなくなり、目の前には、頭を抱え、震えながらうずくまる少女がいた。
「……。アザミ、一旦お部屋に戻りましょう。ここには貴方に痛い事をする人は誰もいないから安心して。」
自身の事を桔梗と言った、目の前の女性が少女と同じ目線に座り込み、声をかける。しかし、少女の震えは一向に止まらない。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…。アザミが悪いの…。アザミがいっつも余計な事するから…。」
少女はほとんど声とは言えない、聞こえるか聞こえないほどの声で呟き続ける。
少女の悲痛な声を呆然と聞き、立ち尽くしている俺に、少女をなだめている桔梗と言った女性が、顔を上げて、語りかけてくる。
「ごめんなさい。さっきの質問に答えてなかったわね。ここがどういう事業をしているか、だったかしら。ここはね、この子みたいに、心に穴が空いてしまった子や、本来、法で裁かれなければいけない事をしてしまった子、あるいは、本当に死の寸前の子。そういう子達が、何とかして、人並みの『普通』の生活を掴むための場所。」
ーー「私たちはその子達のための居場所になってあげるの。」ーー
プロローグ 完