【『齢37』の視点から『石川啄木』を読む】(俣彦『短編ぼくのまち』)
26年
と言う短い生涯の中で
『一握の砂』『悲しき玩具』など
数多くの作品を遺されました
石川啄木。
彼の人生はどのようなものであったのか?
を『齢37』になった今。
見直してみますと
(・・・正直『無謀』)
と感じる場面が多々ございましたので
この場を使いまして綴ってみようかな?
そのように考えております。
啄木が文学の世界で生きていく決意を固められましたのは
『明星』に1つの短歌が掲載されたことでありました。
掲載されたことを受けまして啄木は
通っていました学校を退学し、
東京へ進出されました。
(・・・自分の身に置き換えてみますと)
野球雑誌や野球にまつわるラジオの投稿コーナーに
20文字程度のネタが一回採用されただけで
全ての収入源を棄て、
野球評論家になることを決意することと
さして変わりないように感じるのは私だけなのでありましょうか・・・。
当然、私はそんなことはせず
普段は仕事をしながら
あくまで趣味の範疇で
野球にまつわる感じたことを綴っているのでありますが
啄木は東京へ進出されてしまいました。
案の定、失敗に終わりまして
郷里に戻ることになりました
啄木が東京で遺しましたツケを支払うべく
住職でありましたお父さんは
檀家の持つ山を処分し清算したのでありまして・・・
それが
のちに大きな問題となりまして・・・
そのあたりのことにつきまして
啄木の視点から遺されたモノはございますが
私が興味を持ちますのは
一家と別れ
野辺地へ去りました啄木のお父さんの気持ちでありますし、
啄木に対して思うことなのでありますが
(別に東京に出なくても創作活動は出来たと思う・・・)
(『明星』に掲載されたのも渋民村に暮らしていた時でありますし、)
(文書の面白いお寺の住職さんで充分だったと感じるのでありますが・・・)
啄木。恵まれているのにな・・・
(・・・だからなのかな?東京へ行ってしまったのは・・・)
その後も
(せっかく仕事貰っているのに・・・)
と感じる啄木の人生なのでありましたが
『26年で』
であるから
これだけ濃い作品を遺されたのかな?
と思うのでありますが
個人的には
この26年を持って
もう干支を1回り2回りされた
(落ち着いては居ないかな?の)
啄木が
この26年をどう感じ取られるのか?
の作品があったら面白いのにな・・・。
(叶わぬ希望でありますが)