3、エルフの少女、レミア
「――はっ」
視界が明るくなり、森の音が耳に飛び込んできた。
気を失っていたのは一瞬だったようだ。さっきのは何だったんだ? 立ちくらみでも起こしたのだろうか。
けれど、どこか違和感がある。なんだ? 妙に足の裏がぬかるんでいて、それに冷たい気が……って、あれ? 俺、いつの間に泉の中に移動したんだ?
辺りを見回して、俺は、さっきまで森の端から見ていた泉の中に立っていることに気づいた。
なるほど。なぜ泉の中にいるのか分からないが、足が冷たいのは納得だ。そういえば、足だけじゃなく、腹もすーすーとする。さっきまでは暑いくらいだったんだけどな。水に入っているからかな……と俺はぼんやりと視線を下に向けると、白い二つの膨らみが目に入った。柔らかそうな双丘。先端はかすかに色づいていた。
「――え?」
俺は服を着ていなかった。素っ裸である。
確かに水浴びしようかと思っていた。
けれど、いつの間に脱いだのだろうか……いや、それ以前に。
「……これって……まさか……」
目に映る、この二つの膨らみは一体なんだ? 体は鍛えていたので、胸の筋肉はそれなりにあった。……だが、今俺の視線の先にあるのは、筋肉特有の硬さとは対照的な柔らかさの、いわゆる「おっぱい」だった。
俺だって健全な男である。女の胸に興味がないと言ったらウソになる。さっきまで見ていたし。うむ。小ぶりだが形は悪くないな。
いや、そうじゃなくって。
頭の中が混乱している。問題なのは、なぜ、俺におっぱいがあるのか、というわけで。ていうか、胸があるってことは、もしかすると……
俺は、恐る恐る胸の下を確認した。付いていなかった。
「うわぁぁっ」
俺は訳が分からず、身を抱えるようにして水の中に飛び込んだ。水が冷たい。夢ではない。抱きかかえた自分の身体が想像以上に柔らかい。あぁ、おっぱいってやっぱり柔らかいんだな、と胸を押さえる手で感触を楽しんで……だから、そうじゃなくってっ!
長い髪の毛。華奢な手首。間違いない。これは女の身体だ! ついさっき自分で健全な男であるなんて言っておきながら、女になってるしっ。
俺が水の中で身体を隠すようにしながら戸惑っているときだった。
「あらら。意外と初なんだぁ。もっと見ていいのに。自分の身体なんだから」
泉の外から、女のような口調で話す、男の声が聞こえた。
俺は泉の中から首だけ出して、声の方向に目をやる。そこに、俺、ライアが立っていた。
俺がここにいるのに、なぜ「俺」があそこに立っているのか。
驚きのあまり声も出なかった。
けれど、その一方で、どこか納得している自分もいた。あそこに「俺」がいるのなら、今の俺はきっと……
そっと視線を波立つ水面に移す。そこに映るのは、予想通り、さきほど泉の中で水浴びをしていたエルフの少女だった。
「あんまり驚かないのね。つまんないなぁ」
「こ、これはお前の仕業かっ!」
なんとなく「ライア」に裸体を見られたくなかったので、俺は身体を抱きかかえたまま水の中から叫んで――思わず脱力してしまう。
怒鳴ったつもりの声が、余りにも可愛らしいというか甘いものだったからだ。
自分で出した声とはいえ、迫力のかけらもない。魔物さえも一喝して動きを止めさせるオリオールさんに憧れていたというのに……
「そうよ。肉体を入れ替える魔法。里に伝わる禁呪なんだけどね。上手くいくかどうか不安だったんだけど、成功みたいね」
泉の傍に立つ「ライア」が言う。当然、その声は俺の声なわけで。
「……頼むから。俺の声でその喋り方はやめてくれ……」
耳にするだけで、体中がぞわぞわしてしまう。
相手の目的や状況を確認する以前に、まともに会話できそうにない。
「あら。それを言うなら、お互い様なんだけれど。――とりあえず、泉から出たら? あんまり長く水に浸かっていたら冷えちゃうよ。そこに服がおいてあるから」
「ライア」の指差した方向に目をやる。泉のすぐそばに生えている樹の元に衣服らしきものが置いてあった。
「い、泉から出た途端、変なことするつもりじゃないだろうな……っ」
「……それを言うなら、私のセリフのような気もするんだけれど。すっかり女の子みたいになって、おねーさん、嬉しいわ」
「誰がお姉さんだっ」
「あら、知らないの? エルフは人より長寿なんだから。たぶんあなたよりは長生きしてると思うけれど?」
「そうか。じゃあ『年増』ってわけだな」
「むぅ。失礼ね。いいから着替えなさいよ。襲うわよ」
「言われなくっても着替えるわ!」
俺は勢いよく泉の中から立ち上がった。露わになった裸を隠すことせず、見せつけるようにしながら、衣服が置いてある場所まで移動した。
樹の下には皮のベルトと薄緑色の服、そしてその上に、ぽつんと白いシンプルな下着が置いてあった。
思わずため息が漏れる。
ついこの間まで、一般男性としてパンチラ程度でも興奮していたというのに、まさかそれを身に着けることになるとは……
エルフと言えども、着ている服は人と変わらないようだ。タオルが見当たらなかったので、仕方なく濡れたまま下着を履く。胸当てっぽいものもあったので、たいして大きいと思わないが、それを手さぐりで胸に巻く。
服はシンプルな貫頭衣だった。それを頭からかぶる。っていうか、丈が短いぞ、これ。
裾をできるだけ下に引っ張るようにしながら、最後にベルトを腰に巻く。ベルトには小さな皮袋がくっついていた。靴は網を編んだだけのシンプルなもの。これで荷物はすべてのようだ。
「うんうん。似合ってるよ。ま、もともと私の服なんだから当たり前だけどね」
着替え終わった俺を見て、「ライア」がうなずく。
相変わらず俺の声をしたその喋り方に慣れないが、仕方ない。
「それより、お前は一体、何なんだっ?」
「私? ……あ、そーいえば、この身体の名前、なんていうの? ちなみに、そっちは、レミア、ね」
レミア。それが俺の身体を乗っ取って、今は俺の身体になっているエルフの名前か。
「俺はライアだ。それで、目的は何だっ?」
「へぇ。ライアって言うんだ。いい名前ね。――あ、身分証見っけ。これってギルドってやつだよね?」
「おいっ、人の荷物を荒らすなっ! ていうか、俺の話を聞け」
ライア改めレミアは、俺の質問を無視して、俺の荷物を漁っている。たたっ切ってやりたいが、あいにく、今の俺には武器がない。取っ組み合いになっても逆に押さえつけられそうなので、手も出せず、情けないことに怒鳴るだけだ。
「もー、うるさいなぁ。目的? この森から抜け出すためよ。くそ婆に掛けられた魔法のせいで、森から出られなかったんだもん」
「森? 抜け出す……?」
「エルフの里なんて真っ平よ。いちいちうるさいし。でもこれでようやく、あの人を追って外の世界に出られるわ」
俺はレミアの言葉の意味を考えた。
詳しい事情は分からんが、レミアは森から抜け出したくても出られない魔法を掛けられ、このままだと出れないから、他人の身体を乗っ取った、ということか? ずいぶんぶっ飛んだ思考だ。エルフの考え方としては当たり前なのか、こいつだけが特別なのか……まぁ意味が通らないわけではないが。
「で、あの人、ってのは誰なんだ?」
「ん? えっとね、本名は教えてくれなかったけれど、うちの里に迷い込んできた冒険者よ。背が高くて、とーっても格好良かったんだから」
レミア(ていうか俺)が、恋する視線になっている。正直、見るに堪えない。だが、どうしても確認しなくてはいけないことがある。
「えっと……ひとつ聞くが、その憧れの冒険者って、男か女か?」
「ん? 男の人に決まってるじゃん。ああいうのを、一目ぼれ、っていうのよねー」
俺は頭を抱えた。
俺の声でそういう内容を話されるのも頭が痛いが、それ以前に……
「まぁ、あれだ。お前が誰に惚れようが俺の知っちゃことじゃないが、今のお前が、俺の身体で、その人に会いに行ったら、いろいろ問題があるんじゃないか……?」
「あ、そっか。うーん……ま、別にいいんじゃない? 男同士でも」
「ってこらっ、ちょっと待て!」
さすがに今のは聞き捨てならない。俺の身体で何するつもりだっ。しかも俺は女になって……って、待てよ? こいつ、くそ婆の魔法がどうこうって言ってたけれど、それってつまり……
「まさか、お前の代わりに俺がこの身体になったってことは……俺は、この樹海から出れないのかっ」
「せいかーい。そーなるわね」
「待てこら。ふざけるな!」
「まぁまぁ落ち着いて。エルフの身体になれることなんて普通はないんだから。せっかくだし、いいこと教えてあげるから。とりあえず、腰の袋を開けて。中に緑色の木の実があるでしょ」
「……あるけど」
俺は警戒しつつも、レミアの言うとおり、ベルトに付けられた袋を漁り、緑色の木の実を取り出した。指先でつまめる程度の大きさで、少し柔らかい。
「そう、それ。それを食べてみて」
「……」
俺は疑わしげな視線をレミアに向ける。なにか罠かもしれない。
「やーね。そんなに警戒しなくても。これはエルフに伝わる秘伝の実でね。一口食べるだけで、お腹いっぱいになれるのよ」
「……本当か?」
冒険者にとって、水と食料は死活問題だ。レミアが漁っている俺のリュックにも食料や水が詰め込まれているが、正直かさばるし重い。かといって、楽しようとして水を少なめに持ってきた結果、こんな羽目に遭っているし。
この小さな実一つで食料となるのなら素晴らしいことだが……
俺は疑いつつも慎重にそれを口にした。
うげっ。に、にがい。
っていうか、そ、それ以前に……強烈な痺れが、全身を襲う。
「――というのは嘘で。本当は痺れ薬なの。てへっ」
て、てめぇ。騙したな。
そう言いたくても口が動かず、その場に倒れこんでしまう。くそっ。あいつはこうなることを予想して、荷物に痺れ薬を忍ばせていたのか……
「それじゃ、私はそろそろ行くね。おお。さすが鍛えられてるねー。こんな大きな荷物が軽々だわ」
ま、待て……
「あ、そうそう。もうその身体には未練もないけれど、あなたがあっさり魔物の餌になっちゃうのも目覚め悪いから、身を守るための魔法の使い方を教えてあげるね。詳しくは、その袋の中にあるメモに書いてあるから、回復したら見てね。ちゃんと人間の言葉で書いてあげたんだから感謝してよね」
レミアはそう言い残して、森の中へと消えていった。
くっ、くそ。この……ぉ。
俺はその様子を、寝転んだまま見つめることしか出来なかった。
不定期更新ですので、次回投稿も少し間が開く予定です。ご了承ください。