節一 断ち切られた盤面
天棋暦五百十九年。蒼牙独立四十周年を祝った祭典から、二年の歳月が流れていた。
友好対局の努力もむなしく、蒼牙と玲秀の国交は悪化し断絶した。蒼牙は玲秀を「理の腐敗」と責め、玲秀は蒼牙の“人体改造”を「理の暴挙」と断じる。かつて並び立った二つの塔は、互いを照らすことをやめていた。
蒼牙の諜報網は、玲秀が密かに新たな“戦棋士”を擁していることを察知し、その情報をもって戒厳体制を強化する。一方、玲秀では、蒼牙が行う“人体改造”の研究を非難し、「理の神聖を汚す暴挙」として、全土に布告を出した。
国境に設けられた関所は閉ざされ、交易の馬車も途絶える。国と国の“口”が閉ざされたとき、人々の暮らしは、一夜にして“武装”へと姿を変える。理は兵器となり、戦棋盤は砲台へと変貌した。
蒼牙では、戦棋院の下に「軍棋課」が新設され、玲秀では王命により、戦棋士を軍列に組み込む「理士団」が創設される。互いにけん制しあいながらも、外へ向けては「他国への武力派生はなし」と声明を発し、虚偽の平静を装った。
だが、両国ともに――
すでに「自国の理念」を国家の中枢に据え、理の力が人の意思を超えて、ひとり歩きを始めていた。
──いつの世も、戦の引き金は都ではなく、最も小さな境界から始まる。
人の往来が禁じられる中、蒼牙からの脱国者を保護した玲秀の部隊と、それを追う蒼牙の徴収課が衝突した。
互いに警告を発した直後――理気が交錯し、戦気が暴発。
一人の戦棋士の暴走が引き金となり、最初の死者が出る。
乾いた風が吹く国境の塹壕で、ひとりの兵の早まった「一手」から、世界は崩れ始めた。
――その出来事が、開戦の合図となる。戦宣は、暁の空を裂くように響いた。
「蒼牙、理の名において宣す――敵は理を汚す者、討つべし。」
そして玲秀も呼応する。
「理は人に非ず。人こそ理を正すものなり。」
誰もが己の正義を信じ、盤を血で染める覚悟を固めた。
夜。月は赤く染まり、冷たい喇叭の音が風を裂く。雫は蒼牙先遣部隊の士官として、玲秀との国境地帯に立っていた。初めての戦場。だが、その瞳には怯えの色はなかった。
雫は天幕の中で一人、寛蓮から渡された黒曜石のペンダントを握りしめる。
「……闇に触れたとき、己を見失わぬよう、これを持て。」
「これからは、この石が、お前の歩む道を照らしてくれる。」
手にするは、戦棋士専用の思考兵装――神棋・天冥。
長尺刀身の形を取りながらも、内部には戦気増幅回路が組み込まれ、持ち主の神経を通じて戦気を物理演算で武力増幅変換する。武力変換は通常の数倍に跳ね上がるが、戦棋士に対する精神への負担は相当なものとなる。雫の戦気は、他の戦棋士と比べ突出していた。
彼女は静かに刀身を立てる。空気が鳴る。戦気が流れ、視界に複数の未来が重なっていく。雫が生来持つ“多手読み”の異能が戦気によって拡張され――
五手、十手、三十手先――敵の布陣が、未来の棋譜として彼女の脳裏に並び始めた。
(……右、三列先、斜め。来る。)
刹那、敵陣から放たれた理弾が光線のように飛来する。雫はわずかに身を捻り、その軌跡を断ち切るように刀を振るった。爆風が起こり、周囲の兵がたじろぐ中、雫は微動だにしてない。彼女の周囲だけが、まるで時間が遅く流れているかのようだった。
──その姿は、まさしく月夜の戦局を纏う者。「月下の戦棋士」の称号にふさわしい、盤上と戦場の融合だった。
戦の合間、雫は幾度となく胸の奥に微かな「風」を感じる。呼吸の風ではない。もっと深いところ――記憶の底を撫でるような風だ。
瓦礫に倒れ伏す人々。その中に、白い衣を纏った戦棋士の影。手に握る黒曜石のペンダントが、微かに震える。その振動は、まるで“何かを伝える”ように温かく脈打っていた。
「……これは……誰の記憶?」
雫は脳裏に浮かぶ不確かな絵を追う。そこには、自分が守るべき“国”が燃える姿。幾度となく光に包まれ、垣間見た光景。
――炎。
――叫び声。
――赤い旗に描かれた玲秀の紋章。
村が燃え、幼い自分が泣きながら走っている。伸ばした手は届かず、記憶の断片が音を立てて軋む。戦場の轟音の中で、遠い誰かの声が重なった。
「――打て。」
しかし今、私はその戦場に立っている。手を伸ばせば届く距離に、背に青い紋章を刻んだ玲秀の戦棋士が立っていた。
(……青い……?)
月明かりの下、その色が、雫の記憶の奥で静かに疼く――。




