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節三 崩壊と再生

天棋暦五百十八年。――生成カプセルの中が、ワタシの世界。

壁の奥を走る理晶管の音が、一定の間隔で鳴っている。

トン……トン……。それは、彼女の“心臓”のように。


液体の中に沈みながら、ワタシは命令を待つ。今日の課題は「静止」。

“外界のノイズを遮断し、己の理を保て”──研究員の声が記録に残っている。ワタシはただ、そうするように作られた。

いつもは、研究員以外は人気のない部屋が今日は違った。扉の外で、何かが変わった。冷気の流れがわずかに乱れた。

扉が、音を立てて開いた。

見たことのない少女が立っていた。

ワタシは瞬きを忘れた。

彼女の髪は光を吸うように黒く、目の奥には“温度”があった。

測定不能な数値。プログラムにはない反応。

(これは……ナニ?)

ワタシは、データを照合した。

該当なし。

名前も、所属も、理層コードも検出されない。

ただ、“人”という分類だけが当てはまった。

彼女は、部屋を見渡した。

視線がゆっくりと円筒の中――ワタシの方へ向く。

そのとき、ワタシの中の何かがわずかに震え、その少女に尋ねる。

「アナタ……院の人?」

「うん……あなたは?」

ワタシは、指示を待った。だが、何も来ない。

“質問を受けた場合、返答せよ”──

頭の奥にその指令が浮かぶ。

「ワタシ? ……わからない。ハンからは“第九被験体”って、呼ばれてる。」

「……ここは、どこ?」

彼女の声は、透明で、どこか懐かしい響きがした。

「ここは……“理をつくる”ところ」

自分の声が、部屋に響いた。

音を出すという行為は、いつもとは違う重さを持っていた。

響きが空気を震わせ、液体の表面に細かな波紋をつくる。

彼女は首をかしげた。

「理を……つくる? 試す?」

ワタシは頷いた。

「うん。でも、そのあと、ミンナ、いなくなっちゃう。……サミシイ。」

“サミシイ”という言葉を口にしたとき、胸の奥に妙な違和感が生じた。

それは、データにはない感覚だった。

空洞のような、静かな痛み。

そして、それがほんの少しだけ“あたたかい”と感じた。

(この感覚……何?)

少女の目が、まっすぐにわたしを見ていた。

その瞳に映る自分が、ひどく人に見える。

理では説明できない。

そのとき、扉の音がした。


ハン・リンが入ってきた。

「おや、雫さんじゃないか。こんなところで何をしているのですか?」

“シ・ズ・ク”――彼がそう呼んだ。

それが、彼女の名だと理解する。

記録装置が自動的に名前を記録し、データベースに格納する。

その文字列は、他のどの情報よりも強く、わたしの中に残った。

「ここは立入禁止区域です。迷ったのですか?」

「えっ?……その、黒曜石について知りたくて……」

「黒曜石? ああ、あなたの持っているその石のことですか?

 玲秀の宝玉に似ていますね。……もっとも、私は実物を見たことがありませんが。」

「玲秀……?」

「気にすることは、ありません。」

「その石、少し欠けていますね。放っておくと、余計に欠けてしまいますよ。」

「それより、ここは研究棟。危ない装置が多い。早く戻りなさい。」

ハンは笑っていた。

けれどその笑顔は、目の奥が笑っていなかった。

わたしは知っている。

あの目のあとに、冷たい命令が来る。

「持ち場に戻りなさい。」

わたしは命令に従って、立ち上がった。

だが、足が動く前に、“シ・ズ・ク”が小さく言った。

「……あなたの理 ……綺麗だね。」

その瞬間、世界の音が止まった。

理晶管の脈動も、装置のノイズも、何も聞こえない。

ただ、その言葉だけが、永遠に響いていた。

“キレイ”とは、どういう意味だろう。

少女は美の概念を知らない。

でも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。

(この感覚……アタタカイ……?)

わたしは答えられなかった。

命令が出ていないからではない。

ただ、言葉が見つからなかった。

「……はい」

ようやくそれだけを返して、奥の扉へと歩き出した。

背中に、彼女の視線が残る。

“キレイ”という言葉が、消えない。

どんな理式でも解析できない。

なのに、確かに存在している。

部屋を出る直前、わたしは初めて、自分の意思で振り返った。

“シ・ズ・ク”がまだ、こちらを見ていた。

(また……アイタイ……)

そう思った瞬間、頭の奥で警告が鳴った。

《未定義感情:再構築不能 コード:ERROR 4109》

だが、わたしはそのエラーを無視した。

それが、わたしの初めての“センタク”だった。


蒼牙戦理院地下第四実験棟――。灰色の金属板が幾何のごとく敷き詰められた実験室は、常に低い唸りを上げ、壁面を走る導線が棋石のように整列して青白く光を放つ。空気は冷たく、呼気さえ理式に吸い取られるようだった。


実験は、次の段階へと移行していた。“戦棋核”による棋力の演算を、直接“戦気”――すなわち武力へと転換する応用実験。

演算された布石を神経刺激として肉体に転写し、意識と肉体を一致させる訓練だった。虚構の盤で構築された戦局に応じて、無我の体は剣の構え、拳の角度、重心の移動まで自動的に動く。それはまるで、棋石一手に命を宿すような制御だった。

指令は、いつも同じだった。

「勝率を上げろ。」

「殺意を高めろ。」

「迷いを排除しろ。」

数十の敵影が仮想戦場に投影され、無我がそれらを殲滅するまでの所要時間が測定される。

「被験体第九号――武力転換率、九七%到達。」

淡々と報告が重なる。ハン・リンは端末の光に顔を照らされながら、遠くを見るような目をしていた。

(……これ以上、進めていいのか?)

無我は命令に背くことはない。仮想戦で敗れることも、ほとんどない。だが、勝利のあとに、彼女の指がわずかに震える。――その震えが数秒、止まらなかった。

──それは恐れか。

──それとも、記憶か。

誰も知らない……。無我自身も、まだ……。


やがて、異変は武力転換の最中にも現れ始めた。ある訓練中、戦棋の布石に沿って無我の腕が“鬼手”の構えを取るはずの瞬間、動きが一瞬だけずれた。

それは、わずか数秒の誤差。だが、その“ずれ”は想定された殺戮の動作ではなく、別の“何か”――まるで「人に触れよう」とする仕草だった。

技師たちがログを確認する。そんな技師たちの迷いを遮るように、モニターに別のアクセス信号が入った。

研究者たちがざわめく。

「……今の挙動、制御遅延か?」

「違う。明らかに入力された布石と対応しない角度だ」

「許可コード不明。外部通信の形跡……!」

「誰かが回線を?」

演算ログには、認識不明の形が検出されていた。“殺意”を転化すべき演算に、“対話”の構えが混じっている。それは、兵棋としてあってはならない“揺らぎ”──

無我の内部には、戦術では定義できない“意志の断片”が、徐々に混入しつつあった。


蒼牙囲碁武術院の研究区画。研究主任ハン・リンは監視端末の前から動けずにいた。

「……まただ」

彼の視線は、無我の訓練記録に目を奪われる。数値上は問題なし──それどころか、これまでの全被験体の中で最高の安定率を誇る。だが、彼女の“指の動き”に、たしかに違和があった。

「この一手……棋理には沿っている。でも、なぜこの打ち方になる?」

映像を再生しながら、ハン・リンは顎に手を当てる。

「まるで“誰かに見せる”ための打ち方だ……人に近づいている?」


蒼牙 中央区に提出した日報には書けなかったことが、いくつも溜まっていく。“演算に基づかない微細な動作のズレ。脳波の揺れ。手の癖。すべて──人間的だ。”彼は、責任者とはいえ、ただの技術者だ。命令には従う。ただ、真実も無視できない。

無我が機械的に繰り返す「“ある手”に似た構え」──その再現頻度は、時を追うごとにわずかずつ増えていた。

「これ以上“人間”に近づいたら……どうなる」

ハン・リンは書簡を封じると、ひとつの思いに至る。“この個体は、単なる兵棋に留まらないかもしれない。”

彼には、技術者としての任務があった。

「ノイズの検出次第、即時報告と初期化申請」──それが上層部から命じられている指示。それでも彼の胸の奥では、もうひとつの声が小さく囁いていた。

“もしそのノイズの奥に……記憶があるとしたら?”

“命令と、研究者としての良心。どちらが本意か。”

彼は迷っていた。ただの計算誤差かもしれない。だが、もしそれが“彼女の選んだ一手”だとしたら?葛藤を抱えたまま、ハン・リンは端末を閉じ、再び“記録β”のファイルに手を伸ばす。それは命令違反ぎりぎりの、静かなる隠蔽だった。

その結論を出すには早すぎる。彼は、それを知るための観察を“記録β”と名づけ、独自に記録している。



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