節一 落下した未来
時の狭間を越え、玄凛が降り立ったのは、過去の“玲秀”
耳の奥で鈍い響きが弾け、空気の密が変わった。風が渡り、香があり、禽の声がある。それは、彼の知る戦場とはまるで異なる、柔らかな世界の息吹だった。
――ここが、“玲秀”か。
転送の衝撃で膝をつく。掌には湿った土。地を掴んだ感触が、夢のように確かな現実を伝える。顔を上げれば、蒼嶺が幾重にも連なり、靄に沈んでいた。その連なりの奥に、古都の幻を見たような錯覚を覚える。
――戦棋院の計算では、天紀暦五百十年
――“玲秀”辺境の関所地にあたる。
だが玄凛の胸に湧いたのは、既視感ではなく、深い“違和感”だった。
(空が……広い)
蒼牙の空は常に灰色の防御膜に覆われていた。風は監視網を避けて流れ、太陽は人工照射にすぎない。だがここでは、風が生きている。雲が流れ、陽が射し、世界が呼吸していた。
「……これが、“玲秀”の景色か。想像していたものとはずいぶん違うな。」
思わず呟いた声が、どこまでも澄んだ空に吸い込まれていく。胸の奥で、冷えた金属のような心臓が、わずかに脈を打った。
任務の内容は単純だ。玲秀王の娘――“未来に蒼牙にとって災いとなる少女”を、芽が息吹く前に葬り去る。それが兵棋計画の最終段階、“蒼牙”が覇者を目指す第一歩となる。
(感傷は不要だ。私は、蒼牙の理の刃だ。)
白曜石による転送は成功したように見えたが、保証はない。時間座標は理論上の推定にすぎず、誤差ひとつで全く異なる“世界”へ落ちる可能性もある――そう、ハン・リンは警告していた。
(ハン・リン……あなたの言う“理”は、ここで証明されるのか。)
胸の奥で、彼の声が蘇る。
「理を超える理を求めるなら、過去へ行け」――
あの笑みとともに残された言葉。だが今、その意味は知ることができる世界に俺は来た。
やがて、玄凛は木々の合間に、かすかな煙を見つけた。山間の集落だ。小川を挟んで数軒の民家が並び、畑には人影がある。遠くから子どもの笑い声が聞こえた。それだけで、この“玲秀”がまだ“平和”であることを悟る。
(本当に……ここは戦の時代か?)
玄凛は、目にする光景に“違和感”を抱きつつ、それとは別に妙な思考が駆け巡った。
──俺は、この地に生まれ変わったのではなく、転移してきた。
──そうなると、蒼牙には、この時代の“俺”が、いることになる。
──しかし今、俺は玲秀領内。確かめるすべはないが、いずれ機会もできるか……?
玄凛は、警戒を緩めぬまま、ゆっくりと集落へ向かった。土道を歩く足裏に、草の湿りが絡みつく。戦地の冷却床では決して感じることのなかった、生の温度。奇妙なことに、それが不快ではなかった。
集落の入り口で、ひとりの老人が薪を背負っていた。玄凛の姿に気づくと、驚くでもなく、穏やかな笑みを向ける。
「どうかなさいましたか、戦棋士様。道にでも迷われましたか?」
玄凛は思わず眉をひそめた。
“戦棋士”――やはりこの時代、この国でも、その名は根付いている。
「どうして、私が戦棋士だと?」
「理の気が、体からにじみ出ております。この里では修めた者には、見えぬものではありません。」
玲秀の民は、理を畏れ、またそれを身近に感じていたという。蒼牙では理は兵器であり、管理されるべきもの。だが、ここでは人の暮らしに溶けている――
(……理を“感じる”者たちの国、それが玲秀か。)
その差異が、彼の胸に微かな動揺を残した。
「老人、ひとつ問う。いまは歴でいえば何年になる?」
「おかしなことを聞かれますなぁ。今は“天棋暦”五百十五年の夢見月でございます。」
(“天紀暦”五百十五年? ……チッ。石が欠けた影響か、計算よりも数年ズレた場所に落ちたようだな。だが、任務の遂行には支障はないだろう……。)
玄凛は軽く礼をして、村を後にした。背後では、薪を割る音、川のせせらぎ、鳥の声。それらすべてが、ひとつの旋律のように耳に残る。
頬をなでる風が、冷却液よりも柔らかい。懐の中で、白曜石が微かにうずいた。その震えが、過去と未来を繋ぐ唯一の証のように思えた。
村を離れると、玄凛は街道の方角を見定めた。都――玲秀の中心。その地に、王の娘がいるはず。任務を遂行するには、まずそこへ至らねばならない。だが歩を進めるごとに、胸の奥で何かが軋んでいた。それは理の乱れではなく、記憶の奥に沈んだ“人の匂い”のようなもの。
小高い丘にある休み処で足を止めた。旅人や行商が往来する驛亭。炉鼎の上では香湯が湯気を立て、亭主の女が笑みを添えて椀を差し出した。
「お疲れでございましょう、戦棋士殿。峠道は険しゅうございます。」
その言葉に、玄凛は眉を動かした。“心配”という感情を向けられたのは、いつ以来だっただろう。
茶湯を口に含む。苦味の奥に、ほんのりと甘さ。蒼牙の合成液とは違い、舌の上で味が“生きている”。その感覚が、彼の中の理をかすかに揺らした。
店の隅にいた老旅人が、ふと話しかけてきた。
「戦棋士様、もしかして蒼牙のご出身で?」
玄凛は、反射的に表情を制した。
「……なぜ、そう思う。」
「いや、あの地の話を最近よく耳にしますでなぁ。玲秀とも縁が深い土地ゆえ。」
「私は、黒嶺の生まれだ。……そなたの知るところ、蒼牙はどんな国なのだ?」
玄凛は、話を誤魔化しながらも老旅人に問いた。
男は静かに答えた。
「もとは玲秀の辺境の里“五ノ里”でのう……。多くの優れた戦棋士を輩出した地ですじゃ。――四十年前の独立対戦では、玲秀も他国からの攻めに苦しんでいて、やむなく独立を認めたとか。」
「その後は国交を断ち、外からの理を拒み、何やら“歪んだ理”を育てていると聞きます。わしらは、いつかまた理を交わせる日が来ると信じておるのですがなぁ。」
男の語り口に、敵意はなかった。むしろ、失われた兄弟を想うような柔らかさがあった。玄凛は黙って聞きながら、胸の奥に、冷たい刃のような痛みを覚えた。
(蒼牙が……理を歪めている?)
彼の教わり知る蒼牙は、完璧な理の国家。感情を排し、戦を最適化するために生まれた理想社会。だが、この世界では、それが“歪み”として語られている。
(歪めているのは“玲秀”の方ではなかったのか?)
一瞬、玲秀王の娘を討つという命令が霞む。なんの為に理があるのか――わからなくなりそうになる。
玄凛は、茶湯を飲み干し、深く息を吐いた。
「……すまぬ。話をありがとう。私は、都へ向かう。」
老旅人は穏やかにうなずいた。
「どうか道中、お気をつけなされ。玲秀の風は、心の理を映すものにございます。」
その言葉を背に、玄凛は立ち上がった。風が頬を撫でる。その温もりが、いつしか心の奥まで入り込んでいた。
(理のために来た。だが――“玲秀”の理は、あまりにも、民に近い。)
彼は再び歩き出した。霞の向こうに、玲秀の都がかすかに光っていた。玄凛は、まだ知らなかった。この世界で出会う“理の少女”が、彼の運命を反転させる存在となることを。




