節四 塔の深淵
その夜、雫は眠れなかった。塔の外では、風が鳴っていた。部屋の中は静かで、理灯の光がゆらゆらと揺れる。
机の上には、黒曜石。それが、ときおり微かに光を放っていた。
(……また、光ってる)
仮面の男との対局のことが、何度も頭をよぎる。あの時、封じ手を打った瞬間、黒曜石が震えた。教わったわけでも、考えたわけでもなかった。あの手は――自分の意思ではなく、誰かの記憶で動かされたような感覚だった。
(いったい、私は……誰の記憶で、戦っているの?)
最近、戦棋で勝っても、心から喜べない。盤を見つめていると、知らない景色が浮かぶ。塔でもない、村でもない……赤く燃える空の下で、石を打つ誰かの手。
(あれは、私じゃない。……でも、確かに私の中にいる。)
黒曜石を握ると、ほんのり温かい。院生たちにこの石の事を聞いてみても、だれも知る者はいなかった。
「そんな石、蒼牙では見たことはない」と言われる。では、いったいこれは――どこから来たのか?
(この石と私には、どんな関係があるのだろう?)
ある日、雫は、黒曜石のこと知る人がいないか、塔内を散策していた。講義も終わり、人影はまばら。理脈測定室の前を通り過ぎ、奥へ奥へと進むと、いつのまにか、見覚えのない通路に出ていた。
壁は黒く、冷たい。理灯の色も淡い青から、白に変わっている。どこか、学院の雰囲気とは違っていた。
「……ここは?」
雫は、小さく呟く。
返事はなく、ただ低い機械音のような響きが耳に入る。通路の突き当たりに、鋼鉄の扉がかすかに開いていた。中を覗くと、広い部屋に奇妙な装置が並んでいる。
理晶管が壁一面に伸び、青白い光が脈を打ち、部屋の中央には、透明な円筒。人が一人、立ったまま入れるほどの大きさ。中には、水のような液体で満たされていた。
(……何の部屋なんだろう。)
理の研究施設、と言われればそうかもしれないが、空気が違う。冷たく、どこか“生きていない”感じがした。
雫が近づこうとしたとき――背後から声がした。
「ダレ?」
振り返ると、少女が立っていた。年は雫より少し幼く、その瞳は不思議な明度だった。無邪気さと、何も映していない虚無が同居している。
「アナタ……院の人?」
「うん……あなたは?」
「わたし? ……わからない。ハンからは“第九被験体”って呼ばれてる。」
声に感情がない。
(ハン?……ハン・リン?第九被験体?)
雫は息を呑む。
少女の額には、赤い刻印がある。腕には、淡く光る金属の腕輪がはめられている。理晶回路――だが、通常の位置ではない。皮膚の下では、何かが動いているようにも見えた。
(この子……なんだか周りの院生とは違う。)
「この部屋は、何の部屋?」
「ここは……“理をつくる”ところ。みんな、理の形を試されるの。」
「理を……つくる?試す?」
「うん。でもその後、ミンナ、いなくなっちゃうの。」
「今残っているのは、ワタシだけ。ちょっとサミシイ。」
彼女は、淡々と話すし、声に感情の起伏がない。その笑顔も、どこか“作られた”ように見えた。そのとき、後方の扉が開いた。
「おや、雫さんじゃないか。こんなところで何をしているのですか?」
ハン・リンだった。研究の技術主任で、時折、理論講義で前に立つ人。いつも穏やかに微笑んでいるが、その笑みは目の奥には届いていない。
「ここは立入禁止区域ですよ。迷ったのですか?」
「えぇ……その、黒曜石について知りたくて……」
「黒曜石? ああ、あなたの持っているその石ですか? 玲秀の宝玉に似ていますね。……もっとも、実物は見たことがありませんが。」
「玲秀……?」
「気にすることは、ありません。」
「その石、少し欠けていますね。放っておくと、余計に欠けてしまいますよ。」
「それより、ここは研究棟。危ない装置が多い。怪我をすると危ないから、早く戻りなさい。」
ハン・リンの視線が一瞬、少女――“第九被験体”へと向いた。その眼差しには、管理者のような冷たいものが宿っていた。
「持ち場に戻りなさい。」
「……はい。」
「……アナタの理、キレイだね。」
そう言うと、少女は俯いたまま、奥の扉へと消えた。雫も、何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。
「あなたも休みなさい。何も気にすることはありません。」
彼の声は柔らかい。しかし、雫はその中に“何かを隠す音”を感じた。
雫は自室の窓辺に立っていた。月が高く、塔の影が長く伸びている。
(“理をつくるところ”……あの子、何を言いたかったのだろう?)
(玲秀の宝玉?……どういうこと?)
解らないことばかりで、胸の奥がざわつく。ハン・リンに補強してもらった黒曜石を手に取ると、補強した部分が赤く光った。じわり、と熱が伝わる。塔の壁が風に鳴り、遠くの鐘が三度響く。
「……熱い……」
その瞬間、再び光が視界を覆った。
――炎。
――叫び声。
――赤い旗に描かれた異国の紋章。
村が燃えている。幼い自分が泣きながら走っている。
「誰も、逃がすな!」
戦棋士たちの叫ぶ声――
戦盤を手にし、それに対抗する蒼牙の戦棋士。寛蓮が、抵抗している様子が見えた!
(これは私の里……?)
一手が打たれるたび、理の粒子が炸裂し、世界の縫い目が軋む。空が裂け、赤い閃光が閃く。それはもはや“戦い”ではなく、“浄化”という名の破壊だった。
胸元に、紅の紋章──玲秀の印。白い衣に散った血が、まるで儀式の朱印のように映える。
(玲秀……!)
雫は息を呑んだ。崩れ落ちる家屋の影で、小さな子どもが泣いている。煤にまみれた頬、かすれた声。その瞳だけが、澄んだまま、雫を見ていた。──助けを求めて。
雫の足が震える。燃える空の下、世界がゆっくりと軋みながら沈んでいく音が聞こえた。理が崩れ、祈りが焼かれていく。
「やめてっ!」
雫は叫んで目を開けた。
息が荒い。額には汗が滲んでいる。黒曜石は、まだ赤く脈打っていた。
(あれは……幻想? それとも、誰かの記憶……?)
胸の鼓動が速くなる。だが、恐怖はすぐに消え、代わりに、心の奥で、何かが燃え始めていた。
(玲秀の戦棋士たちが、私の里を焼き、里の人、友達、家族の命を奪う。)
「……だとしたら、私は絶対許せない!」
雫は黒曜石のペンダントを握りしめた。その光が、まるで血のように赤く滲む。
(私が生まれ落ちた使命は、……玲秀から、あの炎から……蒼牙を守ること……!玲秀を、倒すこと……!)
理の風が、静かに彼女の髪を撫でた。そして風は、どこか遠くの地へと流れていった。それは、誰かの記憶と、雫の想いが交わる音だった。しかしその想いは……
その夜、研究棟の地下――
地下の理記録端末が、無人のまま微かに点滅を繰り返していた。あのカプセルに、人の形をした“理の影”が、静かに呼吸を始め、淡い光が宿っている。そこに刻まれた文字は、やがて消えゆく光とともにこう告げていた。
――【玲秀理、更新完了。無我、覚醒の予兆アリ】
理記録端末の光が消えた瞬間、塔の外で風が鳴った。
まるで、新たな理がこの世界に産声を上げたかのように――




