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第1話 悪を殺せ

 夜が深かった。街灯が乏しかった。小さいころ、節電で、真っ暗だった夜の街を思い出した。

 川の流れが聞こえる。大きい川で、けれど穏やかな流れで、それしか聞こえないことが、怖かった。

 暗がりに整然と並ぶ家は、昼間に見たときと同じ、無個性。どの家に行くべきなのか、分からなくなってしまえばいいと願う。願うなんてこと随分と久しぶりで、どう願えばいいかさえはっきりしないのに、願うことの空しさだけは、はっきりしている。

 先頭を歩く大柄な男は、迷いのない足取りで、進んだ。中肉中背の男が続いて、小柄な男が続いて、僕が続いた。僕たちは、一軒家の前で足を止めた。

 門扉に、犬の優しい絵が描かれたステッカーが貼ってあった。ところどころ薄れている。犬がいます、と書いてあるけれど、犬なんてこの家にはいないはずだ。

 門扉がゆっくり開かれた。錆が酷くて、黒板をひっかいたような音が鳴った。空っぽのショルダーバッグを重く感じる。周囲を見回して、どこにも明かりがつかないことを確認して、重さは空っぽに戻った。

 庭の芝が酷く伸びている。対照的に、雑草の見当たらない花壇では、マリーゴールドの色とりどりが暗闇にさえ映えていた。

 「マジだよ、鍵が開いてる」

 中肉中背の男が、玄関ドアを開けて、言った。彼が屋内に入って、僕たちも続いた。

 「金庫って、どこにあるんだ?」と小柄な男が言って、大柄な男が、「仏間とかだろ」と言った。

 仏間がどこにあるのか見当がつかないまま、屋内に入ってすぐ目に付いた階段を、僕は上がろうとした。

 「二階は後でいい、一階からだ」

 大柄な男が言って、僕は玄関そばの部屋に入った。そこは和室で、けれど置いてある家具は全て洋物で、それら衣装棚などにはどれも、白ずんだキャラクターのシールと真新しいキャラクターのシールがたくさん貼られていた。

 衣装棚の上に置いてあった犬のぬいぐるみを、手に取った。人の頭くらいの大きさしかないのに、ずっしりと重たい。

 「あった!」という声が聞こえて、「デカい声を出すな!」という声が続いた。

 僕は犬のぬいぐるみを戻して、廊下に出て、玄関を背に歩いた。そうして、ダイニングに入って、隣の部屋、四畳半の部屋で手招きしている小柄な男を見やった。

 既に大柄な男と中肉中背の男は四畳半の部屋に来ていた。金庫は、押し入れの下の段に置いてあった。

 「銀行に預けておけばいいのに」小柄な男が言った。「金利、上がってるんだろ、知らんけど」

 「投資がいいんだよ」中肉中背の男が言った。「金が入ったら、ニーサやるぜ、俺は」

 「さっさと済ませろ」大柄な男が言った。「ラインで送ったろ、ダイヤルを回す手順」

 小柄な男が、押し入れに上半身を突っ込んだ。僕は、屈んで、ティックトックにアップされている古いドラマでしか見たことがなかったダイヤル式金庫を見詰めた。

 不意に、テンプレートな着信音が鳴った。僕は慌ててスマホを取り出した。着信はなかった。

 「電源は切っとけって言っただろ」

 大柄な男に言われて、中肉中背の男はすぐ、着信音を止めた。僕もこっそり電源を切った。

 「いつまで掛かっているんだよ」大柄な男が小柄な男に向かって言った。「短い手順だったろうが」

 「何回やっても、開かないんだよ」小柄な男の声は震えていた。「間違っているんじゃねぇの、この手順」

 どけ、と言って、大柄な男が押し入れに上半身を突っ込んだ。その際、ふすまに肩が当たって、大きな音がした。

 僕は視線を上げた。押し入れの上の段には、何冊もの厚いアルバムが支え合うように立っていた。

 「ちくしょう、また誤った情報を寄越しやがって」金属の重たい音がして、大柄な男が金庫を叩いたことが知れた。「開かねぇよ、ちくしょう」

 「どうする?」中肉中背の男が言った。「やめとく?」

 「馬鹿が」大柄な男が立ち上がりながら言った。「金庫ごと盗むんだよ。四人も居れば持ち運べる」

 さすがに人目に付くんじゃないか、と言った小柄な男の目が、ダイニングのほうを向いて、激しく瞬いた。

 僕も、ダイニングのほうを見た。動物の絵がプリントされたパジャマを着たお婆さんが、立っていた。

 大柄な男が駆け出して、お婆さんの口に手を押し当てた。強い力で、歯でも折れてしまったのか、鈍い音が、した。手が大きくて、お婆さんの顔はほとんど隠れた。

 「ガムテープを出せ」大柄な男が言った。

 「どこにあるんだよ?」中肉中背の男が言った。

 「お前が背負ってるリュックサックの中だろうが!」

 大柄な男に言われて、中肉中背の男はリュックサックからガムテープを取り出した。

 「ババア、声を出したら、殺すぞ」

 そう言って、大柄な男はお婆さんの口から手を離した。血だろうか、お婆さんの口の周りが赤くなっている。

 お婆さんは、泣いていた。

 お婆さんの口にガムテープが貼られた。二重、三重にと執拗に。こんなにも酷いことをされているというのに、お婆さんは無抵抗だった。

 お婆さんは、俯せに倒された。

 「書くものを持ってこい」大柄な男が言った。

 「そんなの、持ってきてないぞ」中肉中背の男が言った。

 「この家の中から探すんだよ!」

 大柄な男に言われて、中肉中背の男は四畳半の部屋を出て行った。

 「ババアは留守だって話だったじゃねぇかよ」小柄な男が畳を強く踏みつけた。「滅茶苦茶だ」

 「お前も探すんだよ!」大柄な男の目は血走っていた。「お前もだ!」

 小柄な男と僕も四畳半の部屋を出た。

 中肉中背の男は、ダイニングに置いてあるキャビネットやら何やら、開けられるものは手当たり次第に開けていた。小柄な男がキッチンのほうへ行った。僕は廊下に出て、すぐ右手にあるドアを開けた。応接間だろうか、立派なローテーブルとソファが置かれている。僕はその部屋に入った。

 壁を隠すほど大きなラックに、写真立てがたくさん置いてあった。写真の中のお婆さんは、笑っていた。お爺さんと一緒に笑うお婆さん、犬と一緒に笑うお婆さん、中年女性と一緒に笑うお婆さん、中学生くらいの子と小学生くらいの子と一緒に笑うお婆さん・・・・・・。

 ラックには、本もたくさん置かれていた。高齢者向けの運動やら食事やら脳トレやらの本と、古い絵本と、小説だった。

 ローテーブルに目を向けた。一輪挿しのバラと、古い筆箱と、メモ用紙が置いてある。

 筆箱には、1ーD佐藤陽子、と書かれたシールが貼ってあった。剥がれかけたところをセロハンテープでくっつけて、貼ってあった。

 僕は筆箱からシャープペンを取り出した。それは比較的、新しい物だった。

 不意に、眩しさがあった。カーテンの僅かな隙間から、光が差し込んでいた。濃い雲が去ったのだと知って、今日が満月だということを思い出した。

 バラの花びらが一枚、落ちた。

 メモ用紙の一番上の紙には、「明日 東京 結菜ちゃんに頼まれたシール 忘れないこと」と震える字で書かれていた。僕はその紙を切り離して、バラの花びらのそばに置いた。

 メモ用紙とシャープペンを持って、僕は四畳半の部屋に戻った。

 大柄な男は、メモ用紙とシャープペンをひったくって、お婆さんの耳元に口を近付けた。

 「金庫を開けるダイヤルの手順、書いてくれ」

 大柄な男は、お婆さんの顔の近くにメモ用紙を置いて、強引に、それこそ骨を折ってしまうんじゃないかという乱暴で、お婆さんの右手をメモ用紙の近くまで動かした。

 「書いてくれ、俺たち若者を助けると思って」

 そう言いながら、お婆さんにシャープペンを握らせようとする。けれど、お婆さんの右手は小さく震えるばかりだった。

 「ババアって、こんなに小さいんだな」と中肉中背の男が腕組みをしながら言って、小柄な男も腕組みをしながら、「ガキみたいだな」と言った。

 僕は、改めて、お婆さんを見てみた。確かに、小さい。今まで老人なんてちゃんと見たことがなかったから、知らなかった。本当に、びっくりするくらい、怖くなるくらい、悲しくなるくらい、小さい。

 大柄な男が、ズボンにはさんでいた警棒を抜き取った。そうして、その先端をお婆さんの眼前で揺らす。

 「分かる? これ、警棒。これで殴られたら、痛いよ。嫌だったら、書いて」

 それでもお婆さんの右手は小さく震えるばかりだった。僕にはそれが、必死にシャープペンを握ろうとしているように見えた。

 大柄な男が、警棒を振り上げて、振り下ろした。ごつっ! という音がして、呻きがはっきり聞こえた。

 「書いて。書かないと、もう一発、殴るよ」

 少しして、もう一度、ごつっ! という音がした。

 僕は、大柄な男が最も非難されるべきだと、考えた。そうだというのに、殴られているお婆さんを見下ろす中肉中背の男と小柄な男のほうが悪質に感じた。それから、時間差で、今更、僕は思った・・・・・・僕もこいつらと同じ・・・・・・。

 ゲロだか胃酸だか、何やら分からないものが腹部からこみ上げてくるようだった。胸部がただれたかのような不快がある。脳みそまで、ひりひりする。

 「かわいそうですよ」

 口が、動いていた。何の考えもなかった。呼吸をするみたいだった。

 大柄な男が、能面みたいな顔で、僕を見上げた。

 鼓動が痛いくらいだった。手と足が熱い。目が泳いでしまう。けれど口だけは、自然に動く。

 「酷いことはやめましょう」

 ゆっくりと立ち上がった大柄な男の、警棒を持った手が素早く動いた。僕のこめかみから、お婆さんが殴られた時と同じ音がして、今度のそれは痛みを伴って、ふらふらして、足が勝手に動いて、血が抜けたように頭がすっとして、ダイニングに、僕は倒れた。

 悪態が、聞こえる。人の殴られる音が、聞こえる。近くからだと分かっているのに、とても遠くから。

 湯を張って三日目の湯船につかっているのと似た心地だった。ところどころ垢に隠れた水面、ぬめぬめする浴槽、ガス代節約のため追い焚きを早めに止めたぬるま湯。

 目が、チカチカする。チカチカ、チカチカ、チカチカ・・・・・・ダイニングチェアの脚に、人の足が、絡まっているかのように、見える。素足だ。女の人の足をしっかり見たことはないけれど、女の人の足だって、分かる。

 目線を、上げた。裸の女の人が、ダイニングチェアに座っていた。

 整形にしろメイクにしろ画像加工にしろ、僕は作られた顔が苦手だ。けれど、僕なんかがまじまじと目にすることが出来る女の人の顔はSNSにしか存在しないから、僕の知る女の人の顔は作られたものだけで、ずっと、女の人の顔は醜いものだと、思ってきた。醜い、は言い過ぎか。美しさが分からなくなるもの、と言ったほうが適切か。とにかく、僕は女の人の顔を美しいと思ったことがなかった。彼女を目にするまでは。

 整っているのに作為がない、そんな顔は初めてで、こんな女の人がそばに居てくれたら他には何もいらないんじゃないか、という考えが、ぼやける頭に激しく焼き付いた。

 裸の女の人が、立ち上がった。長身というわけではないのに脚が長くて、最初、骨盤の位置が分からなかった。

 細くて、しなやかで、羽毛みたいに軽そうなのに重量をはっきりと感じさせる体が近付いてきて、僕は自分の貧相な体が恥ずかしくなった。逃げ出したくて、けれどまともに動かせるのは眼球くらいだった。

 「そのままでいいから、聞いて」裸の女の人が、言った。「私の名前は、ハル。善の軍勢に属する天使」

 悪態と人の殴られる音が、大きくなった。僕は、逃げて、と言おうとしたけれど、笛みたいな音が漏れただけで終わった。

 「心配してくれて、ありがとう」裸の女の人、ハルが、にっこりと笑った。「大丈夫。彼らに私の声は聞こえないし、私の姿も見えない」

 事実だと、信じられた。強盗の現場に堂々と居合わせているハルが何の対処もされないままだから、信じられた。けれど、ハルが天使だということは、信じられなかった。本当に天使だったならば、とうにお婆さんを助けているはずだから。恐らくハルは、僕の傷んだ脳が見せる、幻覚。

 「私は幻覚じゃない」ハルが首を横に振った。「できる事なら今すぐお婆さんを助けてあげたい。だけど、できないの。悪の軍勢が優勢の今、善の軍勢は地上に直接の介入ができない」

 ハルは、僕の右手を両手で包んだ。湯たんぽより温かくて、泣きたくなった。

 「あなたのような人が必要なの。善の軍勢に加わり、悪の軍勢と戦ってくれる人間が」

 酷い人選ミスだ。僕は、殴り合いの喧嘩はおろか口喧嘩すらしたことがない。どんな連中と戦うにしろ、どんな方法で戦うにしろ、僕は間違いなく、役に立てない。

 「力自慢である必要はない。口達者である必要もない。あなたは唯、実行すればいい」

 実行する? 何を?

 「あなたは、分かっている」

 分からない。僕は、何も、分からない。

 「あなたの心は、分かっている」

 面白いと思えないコンテンツにいいねをするんだ、好きになれない人間をフォローするんだ、欲しいと思えない物を買うんだ、迷子にならないために。大きな数字に紛れていれば、心なんて、なくなる。

 「あなたは、怒っている」

 リアルで、ネットで、いつも誰かしらが怒りをまき散らかしている。僕が怒る必要なんて、ない。

 「あなたは、恐れている」

 そんなの、みんな同じでしょ。

 「あなたは、悲しんでいる」

 そんなの、みんな同じ、でしょ?

 「あなたは、知っている」

 知らない。僕は、何も、知らない。だから、教えて。僕は、何を、実行すればいい?

 大きくて綺麗な目の、奥に禍々しい炎が見えた気がした。慎ましく愛らしい唇の、艶に蛇の湿りを感じた気がした。

 ハルは、僕の耳元で、ささやいた。

 「悪を殺せ」

 離れていくハルの両手を、掴もうとしたけれど、僕の右手から指の感覚はなくなっていて、あるのは唯、弾けるような痛みだけだった。

 骨折ってこういう痛みなのだろうか? そんなことを考えながら見た右手、右手だったものは、凄まじい勢いで肥大しながら、そのむき出しになる肉と骨を金属のような質へと変えていった。

 5秒もかからなかったと思う。そんな短い時間で、僕の右肘から下は、ドリルの形を成した。ドリル、そんな言葉でしか形容できない見た目に、僕は馬鹿らしくなって、可笑しくなって、いつ以来か、笑えた。

 右の上腕と肩も肥大していた。それらの部位は、肘から下とは違い、筋肉が盛り上がるだけだった。

 肥大した肩に首筋どころか右顎まで圧迫されて、痛くて痛くて、けれど笑いは絶えなかった。

 細い、変化の見えない脚で、立とうとする。巨大な右腕の重量に耐えられるか不安で、右腕だけが巨大なアンバランスに対応できるか不安で、けれどすんなりと、過剰な負荷を感じることもなく、バランスを崩すこともなく、立つことができた。

 四畳半に居る、三人の顔が、見えた。

 こいつらこんな顔をしていたのか、と僕は思った。お婆さんを殴って、お婆さんが殴られるのを傍観して、そんな奴らが、虫も殺さない顔で、僕を見ている。

 もう、笑えなかった。何か、自分でも分からない叫び声が飛び出して、知らぬ間に回転を始めていたドリルを、僕は小柄な男目掛けて突き出した。

 ドリルの先端が額に触れた、刹那に、小柄な男の体は横に吹っ飛んだ。壁に強くぶつかったその体は、頭のとれた首から噴水みたいに血を上げて、ずるずると倒れた。小柄な男の頭は、ドリルの回転の中でミンチになり、その肉片やら何やらが激しく飛び散って、室内を赤黒く染めた。

 中肉中背の男が、悲鳴の出来損ないみたいな声を漏らした。僕はドリルを薙いだ。中肉中背の男の上半身が半分くらい千切れて、ちゃんとした悲鳴が、上がった。中肉中背の男は、ふらふら歩いて、そのうちに上半身が左側に大きく傾いて、肉の剥がれる嫌な音がして、腰から下だけが、倒れずに立ち続けた。

 大柄な男が、罵声を上げながら、警棒を滅茶苦茶に振り回した。僕は、大柄な男の胴に向かってドリルを突き出した。ドリルは、あっという間に、大柄な男の上半身と下半身を切り離した。畳に転がっても、大柄な男の上半身は警棒を振っていた。けれど、それも直に動かなくなった。大柄な男の下半身は、中肉中背の男の下半身と違って、すぐに倒れた。

 痛みが、あった。右の肩と上腕が縮小していく。前腕も、生物の質に返りながら縮小している。ドリルに変わるときよりも、遥かに強い痛みだった。

 右の肩も、上腕も、手も、人間のそれに戻った。これも、5秒程度で済む変化だった。

 僕は、自分の右手を見詰めた。そうして、皮膚なのか筋肉なのか骨なのか臓器なのか判別のつかないドロドロに塗れていることを自覚して、気分が悪くなって、すぐ、キッチンへと走った。

 水で、右手を洗う。前腕も、上腕も。洗っているうちに、今更、一枚しか持っていない長袖のシャツが駄目になったことに気が付いて、ため息がこぼれた。

 ドロドロが落ちて、右手に異常がないことをしっかり確認して、それから、僕はお婆さんのことを意識した。

 四畳半の部屋に戻った。ハルが、お婆さんを見下ろしていた。

 ハルは、泣いているようにも、笑っているようにも、見えた。

 僕も、お婆さんを見下ろした。お婆さんの頭は、種を抜いた梅干しみたいだった。

 ドラマなんかで見るような、胸に耳をあてたり手首に指をあてたりする必要はなかった。

 お婆さんは、死んでいた。

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