第9話『水曜日/エンキ ①-2』
子供みたいに泣きじゃくるわたしを前に、エンキさんは一言も発さずにいてくれた。
こちらを静かに、でもじっくりと見つめているのを感じる。
何を言われても受け付けられない──。
さっきから続く否定的な気持ちが、ほんの少し凪いだ頃。
彼から清冽さすら感じる澄んだ声で言われる。
「きっと僕は、君の触れられたくないところに……知らず、ぶつかってしまったんだね」
そんなことない、と言ってあげたかったけど。
まさにその通りだった。
「きみが戦利品みたいな言い方になってしまったけど、それは違うんだ。上手く言えないけど……尊重してるってことだけは信じてほしい」
「む、むりやり……ヒッ……押しかけて……き、来てるくせに……う、うぅ」
しかもわたしが憎む「結婚」なんて突きつけて。
どうしてわたしなの。
わたしが何をしたっていうのよ。
「………そうだね、強引だったね。こういう展開は、人類の女性より男性の方が喜びがちだし。最初はそういう話もあったんだけど。女神たちがさ、選ばれる側はヤダって」
エンキさんは苦笑いしながら、
「だけど女神が選ぶ側になったら、人類の男性は逆らえなくて可哀想でしょう」
と言うけど。
(───女神様の気持ち、すごく分かる。男性ってあの男みたいな、自分だけが選ぶ側だって錯覚してる人が時々いるから……その反発みたいな)
しゃくり上げるのがようやく収まると、彼がそっとわたしの目元を拭って──不思議なことに涙が少しだけ光った後に……消えた。
びっくりして目を見つめると微笑まれて、エンキさんは続きを話し始める。
「だからね、僕たち男神が人類の女性に選んでもらおうって話になったんだ。歴史上、長く結婚に縛られてきた彼女たちに、どうせなら楽しい思いをしてもらって世界を平和にしようって」
「………楽しいって。困って、ますけど。大体なんでわたしなんですか。普通なのに」
これは断言できる。
このワンルームくらいよくある存在。
聞きたくてしょうがなかった質問をぶつけると、エンキさんは少し困ったように、
「うーん、どこまで言うべきなのかなあ」
とほっぺたを掻いている。
そこをどうか教えてくださいと縋ろうと思ったら。
さんざん泣いたせいなのか──。
こんなタイミングでお腹が大きな音を立てて。
「…………! ふふ、あはは、あはははっ。やっぱり人類って可愛いよ……」
嬉しそうにコロコロ笑われてしまって。
さらに「日和ちゃんはなんだか放っておけない子だね」
と、とろけるような声で言われては、キッチンの方に逃げ出すしかなかった。
もちろんワンルームに仕切りなんて無いけど。
◆◆◆◆
食材を買ったばかりで豊富なせいか一心不乱になったせいか、つい多めに作りすぎてしまった。そして月読さんにはご馳走したことを思い出す。
エンキさんにはあげないというのは少し躊躇われたので、二人分並べながら「今夜は麻婆豆腐ですけど、辛いの大丈夫ですか?」と聞けば、
「えっ、いいの? うわー、こんなの何百年ぶりだろ……!」
顔色が明るくなるくらい感動してもらえた。
──それにしても何百年?
うん、まあ……何歳なのかなんて神様に聞くだけ無意味だよね。
さっきの涙のこともあるし、もう神設定は信じて良さそう。
彼は「嬉しい、嬉しいよ」と涙ぐみながら食べてるので、さっきは八つ当たりみたいになって悪いことをしたと胸がちくちく痛む。それに。
「えっと、差し出がましいかもしれないですけど……。お袖つくろいましょうか?」
食事をするまで気づかなかった、なんだか彼のニットに小さな穴が開いている。
放っておくと広がるやつだよね、これ。
するとエンキさんは慌てた様子で照れている。
「ああ~! 恥ずかしい……。ちょっとバタバタしてて、新しい服を用意できなくってさあ。せっかく日和ちゃんに会うっていう日に失礼だよね~…」
「いえ、こちらこそ余計なことを……。忙しいって神様のお仕事ですか?」
あんまり想像がつかない。エンキさんのお名前自体、今回初めて知ったし。
それにしてもようやく日常の会話ができそうな自分に安心した。彼は美味しそうにご飯を食べながら教えてくれる。
「うーん、仕事といえばそうだけど。どちらかというと趣味かなあ。──僕さ、本当に人類が好きなんだ。有限の命を精一杯に生きる姿が愛おしくて」
そう語る彼の瞳は、ハッとするほど崇高で。
こんな目を出来るなんてやっぱり絶対、人間じゃないと実感してしまう。
エンキさんはゆったりと話を続ける。
「だからさ、人類が犯してしまった失敗を出来るだけこっそり助けてるんだ。もちろん全部やるのは君たちの為にならないから、ヒントを置く程度だけど」
「そうなんですか? あ、ありがとうございます……!」
そんな偉大なお方とは露知らず……。
さっきの醜態が余計につらくなってしまう。
「いえいえ、勝手にやってるだけだから。そんなわけで結構いつも忙しくて。でも手の平くらいの真水を溜めて、日和ちゃんが呼べば──必ず行くから」
どこまでも優しい声と、透き通るような水色の瞳で言われて。
さらに「あ、水曜日じゃないと話せないんだったかな」と、ちょっと情けない声で微笑まれる。
この人は悪い神様じゃないのかもしれない。
(……もう一回。じっくり話してみたいな)
さっきの荒れた気分とは対照的に、頭のもやが少し晴れた。
彼ら神様はどうやらわたしを弄ぼうとしてるわけではないらしい。
簡単には信じ切れないけど、すべて疑ってかかるのも違う気がした。




