第38話『木曜日/伏羲 ③-1』
最初はひたすら優しい人だと思っていたエンキさんが、違う面を見せるから。
もう目を合わせられないくらい顔を赤くして困っていると、彼はほんのり熱をもったような声で言った。
「──今夜はこの辺で失礼しようかな。またね、日和ちゃん」
「はい、おやすみなさい……。お体に気を付けて」
どうにか挨拶を交わせば、水滴のような音と共にちゃぷん、と消えていった。
恋愛のことで頭がいっぱいになってしまいそうで、それでは教師になんてなれないと自分を叱りつけ。
お風呂に入った後、大学のレポートを進めるべく伏羲さんの空間紙を開いた。
もう夜の十一時だったけど、二時間くらいはやっておきたい。
ゆるゆると広がるモノクロの世界を一人で歩く。
たどりついたのは、前回と同じ赤い牡丹の飾られた丸い窓の部屋。
身に着けているものは持ち込めるようだったので、ノートパソコンに向かって没頭するように作業を進める。
(ここ、本当に集中できる………)
この間のような妙な頭痛が起きることもなく、「思索に向いている」という伏羲さんの言葉を思い出した。
学生には一番のプレゼントなんじゃないかな、ごろっと出来るところもないし。
やわらかい光に包まれて、静寂の中にキータッチだけが響く。カタカタ、カチカチ、と。
しばらくそうしていると──。
「日和、そろそろ眠る時間ではないか?」
「わっ……!? びっくりした、伏羲さんでしたか」
いつもと違うシンプルな白いシャツ姿の彼がそばに立っていた。
完成された容貌に据えられた眉をひそめながら、心配そうにわたしを見つめている。
「すみません、あまりにも課題が捗るものだから……って、もう三時!?」
「此処は時間の感覚が狂いがちなのだ。予め言うべきだったな、今後は気を付けた方が良い」
これはもう急いで寝ないと、明日に差し障ってしまう。ささっと荷物をまとめて伏羲さんにお礼を言う。
「この場所、本当にありがとうございました。ベッドがあればいくらでも居ついてしまいそうです」
それだとサボってしまいそうですけどね、と笑いながら付け加えると、なんとも渋い顔で返される。
「寝台など置いては色々と不味いだろう。主に我の自制心が」
「あっ……、迂闊なことを言いました!」
子供じゃないのに、いまだに気の抜けたことを言ってしまう。
真面目すぎるのはやめようと思っていても、この人の前では背筋を伸ばさなきゃ、と感じていたはずなのに。
無様に慌てているわたしに近づいて、伏羲さんは言う。
「……髪を上げている姿は、初めて見る」
「? ずいぶん伸びちゃって、邪魔だったので。……って、ひゃっ!?」
無防備になっていた首筋を撫でられ、そのまま耳たぶまで擽られる。
「やはり、寝台を置いても良いかもしれぬな?」
意地の悪そうな笑顔を見せられて、わたしは熱い顔のまま無言で紙をバシッと閉じた。
消えていく世界の奥で、彼が愉快そうに手を振っていたのが見えた気がする。
◆◆◆◆
自分の部屋に戻って、改めて思う。
(このままじゃ心臓が持たないです……! 人類には荷が重すぎます……!)
神様たちは見た目だけの問題じゃなくて、色々とレベルが高すぎる気がする。
恋愛初心者のわたしを当てるなんて、無茶が過ぎるんじゃないかな。
他にも候補者がいたっていうけど、その人たちも含めたらどういう基準で選ばれたんだろう。
って、今日はもう考えずに寝ないと。
ベッドで出来るだけ無心になって目を閉じたけど、なかなか睡魔は訪れてくれなかった。
翌朝、ほとんど眠れなかった身体を引きずって大学に行く。
アポロンさんに丁度よく会えたので、こっそり明日の待ち合わせを書いたメモを渡した。
周囲を気にして通りすがりの際に握らせたので、彼の表情は分からない。
帰り道、今夜は伏羲さんをお迎えするために食材以外のとあるものを用意した。
お礼にしてしまうと百倍のお返しが戻って来るんじゃないかと不安なので、そういう品ではなく。
近所でぴったりなものが見つかったので、喜びながら家路についた。
約束していた夜八時、大体ちょうどくらいにインターフォンが鳴る。
「こんばんは! いらっしゃいませ、伏羲さん」
「晚上好、日和。……本当に上がって良いのか?」
もちろんです、と言いながらお通しする。
わたしの部屋──お洒落さなんて欠片もない場所に、威厳あふれる佇まいの彼……。
目立たないことを意識してくれたのか、黒い薄手のハイネック姿だけど素敵すぎる。
──でも大丈夫! なんの対策もしていないわけじゃない!
「ふふ、やっぱり似合ってます。良かった」
「似合う、とは?」
「本日ご用意した、こちらです!」
不思議そうな顔をしている彼に示したのは、ソファの前に生けた花……真っ白い芍薬。
さっきお花屋さんで選んできたばかりなので、甘く華やかな香りが一面に漂ってる。
「わたしの部屋にいる伏羲さんが、少しでも馴染むように……背景は大切かなと」
「白い芍薬が、我に……? く、くく、はははは!」
びっくりした……。こんな風に声を上げて笑うイメージが、まるで無かったから。
ぽかんとしているわたしに、嬉しそうに言う。
「此の花の意味を知らぬのだな。エンキが言う様に、計算されていないから恐ろしい」
「中国にゆかりのあるお花だと思って……。牡丹もあったんですけど、あの空間に飾ってあるほど立派なものは売ってなくて。だから」
何がそんなにおかしいのかと、きょとんとしていると、
「日和にこそ似合う花だ、何時か贈らせてくれ」
その微笑む彼の赤い瞳は、いつもよりも鮮やかに見えた。




