第26話『金曜日/アポロン ➁-1』
あの後お互いに言葉も無く歩きだせば、ほどなくしてマンションの前に着いた。
「早些安歇。……良い夢を」
頬に指を添えられ──伏羲さんは煙のように目の前でゆるやかに消えた。
部屋の中に戻れば、閉じた墨色の紙がひっそりと佇んだまま。
それは先週の「傍に居る」と言ってくれた通りで、守ってもらえる安らぎ……その中に、ほんの少しの馴染めなさが混じる。
今夜はもう何も考えずに眠ろう。
なんせ明日は、きっと太陽がまぶしいから。
そして翌日、金曜日、快晴。
いつも通りの支度と予定通りの電車に揺られて大学に着く。
もうアポロンさんはキャンパス内にいるのかいないのか、周囲に聞き耳を立てるだけで分かるようになっていた。
男性陣は嫉妬する気も起きないようで、
「あんな完璧な男とマトモに付き合ってもらえる女なんか、この世にいねーよ」
と、陰口になっていない陰口しか言えないらしい。まあ分かる、ちょっと彼は完璧すぎる。
お昼後はマリちゃんと同じ講義を取っているので一緒に歩いていると、大名行列が目の前を通った。
アポロンさんはこちらをチラッと見て何か言いたげだったけど、華麗なる女子たちの前で会釈をすることなんてわたしには出来ないのでスルーした。
「ねー、ひより。あのモデル男って好み?」
マリちゃんはどうなの? と尋ねる必要もないほど、当人は興味なさげだ。
彼女ならあの中に割って入っても誰も文句は言えないのに。
「うーん、自分の好みを把握してないからなあ」
「……そっか。まあ、ひよりを大事にする男を選んでくれたら文句は言わないよ」
「あはは。もしも……誰かと付き合う日が来たら、最初はマリちゃんに紹介するね」
「そーして。アタシだってひよりに一目惚れだったんだから。友達になろって初めて声かけてくれた時にビビッと来たのよ?」
「も~、何言ってるの~」
(あれ? 声かけてくれたのってマリちゃんじゃなかったっけ……。まあ、いいか)
結局この日、アポロンさんは大学にいるのに接触してくることは無かった。
相手の出方を待っているだけ、というのはわたしも失礼なのかもしれないけど……。
誰も近くにいない時なんて無さそうだし。
そこは許してもらいたいかな。
そしてスーパーで買い物をして、ネギが飛び出ている袋を持ちながら帰宅をすると。
「ヒヨリ、おかえり~」
マンションのエントランスに彫刻が設置されてると思ったら、神様だった。
部屋の前で待機されるより紳士的なのかもしれないけど、この人の場合はここでも困る。
住人が遠くから写真を撮っている姿を目の端に捉えてしまい、肖像権の侵害ですと言いたいけど……。美しすぎて形に残したいという気持ちは分からなくもない。
それにしても、まさか部屋の中にいてくれたほうがマシだと思うなんて……。
わたしは溜息をつきながら硬い声で挨拶して、彼を視線だけで急かす。
「ただいま帰りました。早く行きましょう、エレベーターに乗りましょう」
「えっ……そんなに積極的なんて」
違いますと言いたいけど、その時間も惜しい。
ひそひそと住民から「あの子が彼女か~」という声が聴こえてくる。
こういう時に限って、ちっとも降りてこないエレベーターに痺れを切らし……。
これ以上誰かに見られないためにも、自宅の七階まで階段で駆け上がることになってしまった。
◆◆◆◆
「ハッ……ハァッ………」
「ねえ、どうしたの?」
玄関で息を切らしているわたしに、どういうわけか嬉しそうな顔をしている。
アポロンさんはまるで疲れていない。
「………と、撮られてましたから。しゃ、写真、を」
「あー……なんだ、そういうことか。どのみち少ししたら、勝手にデータが消えてるから大丈夫だよ」
言われてみればこの人たちの身を守る配慮なんて不要だった。
アポロンさんは日々見かけるようになったせいか、神様というよりもなんだか顔見知りの先輩みたいな立ち位置にしてしまっている気がする。
わたしは買ってきたものを片付けながら「ご自由にお過ごしください」と言いつつお茶の準備を始める。
この人を部屋に上げたことが大学の誰かに知られたら、大変なことになりそう……。
そんな不安を抱えながらマグカップを二つ持って近づくと、いわゆる陽キャらしからぬ難しい顔をしている。
「あれ? 何かお困りですか?」
「…………困ってる」
「お元気がないですね、具合が悪いとか?」
「──うん、それに近いかも。患ってるね、多分」
それはいけないと、先週の失敗を踏まえて用意した薬箱を持って隣に座ると、
「ありがと………って、いやいや! 俺、《医学の神》だからね!? ヒヨリはなんなの、わざとなの!?」
確かに突っ込み待ちだったけど、思ったより良い反応だった。
そしてまた不思議な沈黙が降りてきてしまう。
しばらくすると夕陽がカーテン越しに部屋の中へ差し込んでくる。
その光を受けるアポロンさんは、神々しいという言葉通りの雰囲気で──どういうわけか気の毒に思えて、わたしは声をかける。
「…………お困りごと、わたしでは相談に乗れませんか?」
「──乗れるけど、ここじゃない方がいいかな。……失敗しそう」
てっきり「気にしないで」と言われると思っていたので、頼ってもらえそうなことにホッとした。
「では移動しましょう、どちらへ行きますか? 金曜日ですし時間はあります」
先週の刺々しい自分のイメージを払拭するためにも、出来るだけ労わるように優しく言った。すると彼も静かな声で微笑んで応える。
「じゃあ、美術館に行かない? 夜もやってるみたいなんだ」
そう告げた彼が少し悲しそうに見えたのは、太陽が沈んだからなのかもしれない。




