第25話『木曜日/伏羲 ➁-2』
目の前の伏羲さんがわたしを心配そうに呼んでいる。それは聞こえるのに、もっと自分の頭の中に響く音がする。
ぱらぱらとページのめくられる、音。
たくさんの音。何だっけ、これ……。
頭が、痛い。痛い。
(やめて、それは)
「日和!」
わたしは肩を揺すられて、ようやく体がビクッと反応した。
「あ、あれ?」
「気分が悪いのだな? 元の場所へ還ろう、此処は捨てる」
こんな顔をするんだ、というくらい必死な形相だった。せっかく親切にしてくれたのに、こんな表情をさせてしまうなんて。
わたしはあわてて弁解をする。
「……あっ、ごめんなさい、違うんです! そうじゃなくて」
「では何だと云うのだ」
わたしは頭の痛みを意識から追いやって、どうにか言葉を探した。
「えっと、えっと……。そう、頑なに決めていた人生を見つめ直したから。改めてどうしたいのか、とか聞かれて。たぶん戸惑ったんです。本当にごめんなさい、ご心配をおかけしちゃって」
「………………」
「ここ、とても神秘的で──潔いほどの静けさが胸に沁みたんです。せっかく素敵な場所なのに、捨てるなんて言わないで」
伏羲さんは納得がいってない様子だったけど、椅子に座り直してくれた。
……もう大丈夫。色んな神様たちと交流すると刺激があるから、きっと疲れているだけ。
でもそれを言うと嫌な思いをさせてしまうかもしれないから、黙っておこう。
頭痛もきっとそのうち治まるよね。
一切の誤魔化しが許されないような赤い視線に晒され続けて、ちょっと気まずいと思っていると、ようやく彼の口が開いた。
「来週は……日和の慣れ親しんだ場所で逢う事としよう──構わぬか?」
「あっ、はい! ではわたしの自宅でも良いですか? 夜の八時でいかがでしょう。そういえば伏羲さんは初めてですね」
心配をかけないように出来るだけ元気そうに笑ってみた。うまくやれたようで、伏羲さんも話に乗ってくれる。
「……そもそも遠慮なく転がり込む他の者達に、慎みが無いだけだと思うのだが」
続けて「エンキらしくもない」と、少し不満そう。
「みなさん、くつろがれてますから、けっこう好評かもしれません。狭いですけどね」
「招く側には負担となるだろう? 無理せずとも他の場所でも良いと思うが。……とはいえ我が選ぶと又其方を困らせるかもしれぬから、任せる」
負担というほどではないけど、わたしの普通の部屋に一番似合わない神様かもしれない。
どうしよう……ここみたいにお花でも飾れば少しはマシになるかなあ。
悩んでいると伏羲さんは告げた。
「あと半刻は有るな。此処から出て、夜風に当たるか」
すると彼はどこからか筆を取り出して、例の水墨画に何か書き込んだ。
次第に白んでいた世界が、ゆっくりと滲むように黒くなって──見覚えのある景色の中に。
ここは、自宅から少し離れた所にある森林公園だった。
◆◆◆◆
真夜中だから目の届く距離に人はいない。
それでもホウと響く鳥の声や、風の音、遠くに明々と光るビルの灯りで、現実の気配を濃く感じた。
隣で歩幅を合わせてくれている伏羲さんは、「疲れたら云え」と声をかけてくれる。
自宅までの道のりは丁度よい距離に感じられて、少しずつ頭の痛みも治まってるみたい。
彼は何もわたしに問いかけなかった。
わたしも「夜なのにすっかり暖かいですね」なんて、つまらないことしか言わない。
だけどこんな地味なやり取りが、平常を取り戻させてくれている。
そのうち少しずつ行きかう車の量が増えて、腰を引き寄せられた。
あまりにも自然だったから嫌な感じは一切しないけど、少し照れてしまって。
「な、なんだか、これじゃデートみたいですね」
思わず変なことを口走ってしまったと、ハッとして伏羲さんの方を見れば、
「……………其のつもりだったが」
と彼はこぼして、当惑していた。
心なしかショックを受けているようでもあって、やってしまったと私は慌てて。
オロオロしながら夜空に目を向けると、まだ満ちない月がクッキリと浮かんでいる。
「月が綺麗ですね」と言いそうになって、夏目漱石が「I Love You」の訳としたんだっけ、と思いとどまり。
何を言えばいいのかと口ごもっていると尋ねられた。
「月を見ているのか?」
「っ、そ、そうですね。まぶしいくらいだな~って」
その言葉で月読さんがわたしを見守っていてくれたことを、ふと思い出した。
街灯の中にいると忘れがちだけど、満月の光は昼のように明るいと聞いたことがある。
あの時、もしも悪意のある人がいたとしても。
白く照らされていたわたしの周りは、無意識に避けたがったに違いない。
すると突然、横道に腕を引かれて驚いた。
「えっ!? 伏羲さん……?」
抱きしめられるというほどの強さではないけど、腰は引き寄せられていて。
「未だ我との時間だろう? 他の者の事を考えるには早い」
なぜかしっかりと見抜かれていて、うろたえる。違うんですと否定するべきなのか分からずにキョドキョドしていると。
「…………まさか、あれほど若い神に嫉妬を……? 否、其れは……流石に」
伏羲さんは不可解そうな顔をして、こちらを見ていない。
わたしも彼の方を見ることはできなくて。
この手の温かさだけが、二人をつないでいた。




