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第24話『木曜日/伏羲 ➁-1』

 エンキさんが出て行って扉が閉まった後、思わず足の力が抜けてしまった。


(───びっくりした。キスとかしない人だって思い込んでた)


よく考えたら、その……彼らのうちの誰かとそういう関係になろうって話なんだよね。

今になって耳が熱くなってきた。

来週も同じように振る舞えるか心配だな、と思いながらふとテーブルの上を見れば……。


さっきまで無かったはずの(すみ)色をした厚手の紙があった。手に取れば幾重(いくえ)にも折りたたまれていることが分かる。

その表には小さなメモ書きが添えてあって、硬質な字体で、

「逢える時間に開くと良い。伏羲(フーシー)」と書いてあった。


先週会った本人は豪奢(ごうしゃ)な雰囲気を(たた)えていたのに──。

不思議なもので、こういう一切の装飾がないものこそ似合っているんじゃないかという気もしてくる。


(開くと何が起きるんだろう)


とっても試してみたい気持ちはあったけど、明日に備えて眠ることに。


翌日、木曜日。

大学から帰って必要なことをこなしていると、お母さんからメッセージが入っていた。


【ゴールデンウィークは帰ってくるの?】


【分からない。バイトも始まったし、もう一つ増やしたいと思ってるから】


【分かった、ムリしないでね。わたしはこれからもう一仕事!】


【お母さんも書くのにあんまり根を詰めないでね】


(そういえば、しばらく電話してなかった。今は忙しそうだから今度でいいかな)


ズキン、と頭痛がした。なかなか収まらない。

少し休もうかなと思ったけど、もう夜の九時近くになっていたので居住まいを正して例の紙をぱたぱた開いてみると………そこには何も書かれていない。


一瞬「開き方がちがうのかな?」と困惑していると、少しずつ淡い水墨画のようなものが浮かび上がってきて──。


わたしは霧がかった幽玄の空間にひとり立っていた。

誰もいない、音もしない。あるのはただ、まどろみのように揺れる光だけ。


なのに進むべき道が分かるかのように、足だけが意思を持ったように歩き出す。

すると(ひだ)のように(つら)なる竹林が現れて……気づけば丸い窓のあるひっそりとした部屋に入っている。


伏羲さんは背中を向けて座っていたけど、ゆっくり振り向いた。

「遅かったな?」と少し寂しそうに呟いて。


◆◆◆◆


 深い茶色をした中国風の椅子を勧められて、わたしも座る。


「遅くなってごめんなさい、一週間ぶりです……伏羲(フーシー)さん」


(わず)か一週間、か。──何故(なぜ)か久しく思う。よく来たな、日和(ひより)


落ち着いた(ねずみ)色をした中国風の服装をしていて、彼の赤い瞳がいつもよりも濃く見えた。

一切の乱れの無い着こなしは、この人の荘厳さを物語っているよう。

何度見ても人間ではあり得ない整った容姿に(ひる)んでしまう。


「ここは一体……?」


「……先週、人目を気にしていた様子だったのでな。其方(そなた)の為に(しつら)えた」


「そ、そんな。わたしは不満げだったでしょうか、余計に申し訳ないです」


「? (これ)くらい、大した問題では無いが」


この場は静かな色形(いろかたち)なのに伏羲さんがやることはやっぱり派手かもしれない。

きょとんとしている顔は初めて見る表情で、ほんの少し彼への見方が変わる。

少しの間があった後、伏羲さんは自分の顎に手をやりながら説明してくれた。


此処(ここ)思索(しさく)をするのに有用かと思ってな。(われ)が居ない時でも、自由に使えば良い。開けば入り、閉じれば出られる」


彼の目線をたどると小さな書き物机の上に、赤い牡丹(ぼたん)の咲く花瓶。

そしてもう一つ、わたしに届いていたものと同じ紙が開いてあった。

うっすらとこの場所が墨で描かれている。


(まさかワンルームの中にもう一部屋できるなんて……)


今の家はちょっと狭いかなと思っていたけど、この贈り物は想定外すぎる。

スケールが大きすぎて前回のエステ以上にどうお礼をすればいいのか。

言葉を選びながら、できるだけ丁重にわたしは言う。


「ありがとうございます、わたしが受け取ってよいものなのか悩んでしまいますが……。勉強部屋に使わせて頂くと思います」


「何に使っても構わぬ。(ただ)し、男は入れるな」


なんだか真っ当な父親が言いそうな台詞(せりふ)で、

本人はまったく自覚がなさそうでおかしいから「はい」とニコニコ笑いながら返事をすると。

伏羲さんは甘く低い声で囁いて、わたしの頬に触れて言う。


()の様に笑っている姿は初めて見るが、とても愛らしい。少しは元気になったのだな」


彼の指はどこまでも(いた)わりに満ちていて、拒む理由はたぶんどこにもない。


ほんのりと青い茶器がふっと現れて、お茶を振る舞われる。

美味しいですと言えば「白茶(パイチャ)白牡丹(バイムーダン)と云う」と教えてもらった。


しばらく二人とも無言で(すす)っているとお茶の清らかな香りが心地いいせいか、この不思議な体験に心を無防備にされたのか。

自分の内側が(のぞ)き込めるような予感がして、少し怖い気がした。


「………………」


「……予定を決めたがっていると()いた。来週は何処(どこ)かへ出掛けるか? 行きたい所が有るのなら、遠慮せずに()うと良い」


「行きたい、ところ」


(ある)いは、()したい事でも、望む物でも」


「……………………え」


あれ? どうして思いつかないんだろう。

こんな当たり前の問いかけに、どうして頭が真っ白になってるの。

わがままを言いたくないから? 

目立ちたくないから? ううん、それは。


「ちが……う……?」


「日和?」


さっき歩いていた霧がかった空間みたいに、頭の中がぼんやりとする。

自分でも分からない。

どうして指一本すら動かせなくなってるのか。

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