第11話『木曜日/伏羲 ①-2』
自分史上、一番ピカピカになったであろう心身を引き連れて「お待たせしました」と挨拶をし、もう一度真っ黒な車に乗る。するとゆっくりと滑るように動き出して──。
乗り心地ってあるんだなあと高級車のすごさを再認識していると、伏羲さんにひっそりと声をかけられた。
空気が震えるほど低い声は、彼本人が意図していない言葉にもどこか色気を含ませている。
「……悪くは無かった、と云った処か?」
「とんでもない、最高でした。……ありがとうございました、どうお礼をすればよいか」
そうなんだよね、どんなお返しをすれば足りるかなと焦りだすと少し悲しそうな顔をされた。
「礼など良い、此れは詫びなのだから。結婚は厭だと云っていただろう?」
まだ心の準備が出来ていないうちに核心に迫られて、お腹の奥がズーンとなる。
固まっていると静かな……でも毅然とした声で告げられた。
「結婚制度を人類に齎した神の一人が、我なのだ。あれの不備には責があると云える」
「!? そうなんですか……! 思ってもみませんでした」
なんとなく《結婚》といえば女神さまのイメージが強かった。
さすがに制度を作ったことで彼を恨む気持ちにはならないのに、なんだか切なそうな表情をされる。
「控え目な其方が、熱に浮かされながらも『しない』と言い切ったのだ。エンキから概ねの所は訊いたが、問わずとも理解る。何か辛い経験が有るのだろう?」
「…………………はい」
彼の方を見られず車窓に顔を向ければ──。
幸せそうな夫婦や親子連れをどうしても目で追ってしまう。
育った家庭の記憶にない、きっとわたしの未来にもない姿。
繋がれた手、笑顔、ベビーカーを押す女性と抱っこをする男性。
彼らの心のうちが分かるわけもないのに、ただ外の形だけに嫉妬する自分が空しい存在に思えた。
◆◆◆◆
しんとした空気の中、伏羲さんはよく通る低い声で語る。
「何時でもどれ程でも、日和の苦しい想いを受け止めよう。話したいならば遠慮など要らぬ」
「…………いかに神様であろうとも。家庭の悩みはそう簡単に打ち明けられるものでは、ありません」
ずいぶんと可愛くない言い方をしてしまった。
こういう自分は嫌なのに……と肩を落としていると、伏羲さんは気を悪くした様子も無く、
「そうかもしれぬな」と受け入れてくれて話を続ける。
「其れ程迄の……結婚の全てを否定する傷を直ちに癒せるとは云わぬ。だが入口から拒絶せずに、我と共に見つめ直して欲しい」
「…………入口……?」
「恋をする、ということだ」
「……………!」
図星だった。わたしはスタートラインに立つことすら拒絶している。
だけど本当は……本当は恋をしてみたい。
ドラマみたいじゃなくていい。
日常の延長みたいな普通のやつで、全然いい。
だけど相手に「結婚しない」なんて告げてから付き合っていいのか分からない。
あきらめる、その一択なんだと自分に言い聞かせていた。
「其方が我を愛したとて、結婚は厭だと云うのなら受け入れよう。我が《権能》に賭けて、此の取り決めを中止させてみせる」
「えっ……そんなこと出来るんですね!?」
そもそも一体だれが言い出したアイディアなんだろう、普通の発想とは思えない。
いまさらな疑問を浮かべてみれば、伏羲さんは優しく微笑みながら言った。
「出来る。日和の為ならやってみせよう……無論、他の神を選んだ時も」
加えて「其の時は争いで神世が滅亡するかもしれぬな」と真面目な顔で言っていた。
──この方もなかなか我が強そう。
ううん、神様だから当たり前か……。
少し緊張が和らいだわたしに気づいたのか、そっと髪に触れられた。
「柔いな」
「あの……ちょっと恥ずかしいのですが」
そそくさと距離を取れば嬉しそうに囁かれる。
「少しは意識をしてくれるのか? 吉報だ……其の儘、素直になれば良い」
誰だってこんなカッコいい人に迫られたら、照れるものだと思います……!
自分でも分かるくらい顔が熱い。
何も言えずに目を逸らしていると、彼は優しく言った。
「──他者を愛すは、生命の華。種も蒔かずに置くのは寂しいものだ」
「いのちの……はな……」
その言葉には聞き流せない引力があった。
まるで自分に刻まれたようで、わたしは胸元の服を握る。
「恋が全てとは云わぬ。だが恋でなければ得られぬ歓びが有るのも又、事実」
そんなことない、なんて否定できない。
だってしたことすらないんだから。
わたしは、ようやく伏羲さんの赤い瞳を見ることが出来た。
有無を言わさぬほど強い──生命を思わせる血のような。
その後はわたしが考え込んでしまって言葉を交わさないまま、しばらく経った頃。
気づけば自宅マンションの前だった。
「着いた様だな。今宵はゆるりと眠るが良い。来週は……永く在れたら嬉しく想う」
伏羲さんは車を降りてスマートに扉を開けてくれた。本当に三時間で解放されるらしい。
家庭教師の準備もしっかりしたいから、心底ホッとして──改めてお礼を言おうと思った。
わたしは降りる方向に向き直りつつも、立ち上がる前に彼の瞳を見上げて告げる。
「伏羲さん、今日は色々ありがとうございました。結婚のことはさておき、逃げずに自分の気持ち……人生を見つめ直そうと思います」
めずらしくきっぱりとした声量で言えば、ハッとした顔をされて。
「……善い返事だ。そう云えば礼をくれるのだったな?」
ん? あれっ? 要らないって、言ってたような……?
たじろいでいるとなぜか跪かれて──足の甲を軽く持ち上げられて、キスされた。
「な、なにを!?」
「此れは誓いだ。其方の傷が癒える迄……譬え死ぬ迄であろうとも。我が守って、傍に居る」
まるで映画のワンシーンみたいに──現実離れしている。
普通の人がやっても過剰だろうけど、あまりにも艶やかな人だから似合っていて。
鼓動が早くなっているのに気づいた。
だってこんな風に男性に言ってもらう日が来るとは思ってなかったし……。
これが、ときめきというものなのかな。
だけど近くを通りかかる靴音が聴こえて我に返る。
ご近所の目を気にしてしまうのは、どうしたって変わらない小市民の性だった。




