37.暖かな夕食
コン、コン。
控えめなノックの音で、意識が浮上する。
「……ん……」
まぶたを開くと、部屋はすっかり薄暗くなっていた。
窓の外はもう夜で、夕方の名残すらない。
「ヒカルちゃん、入るよー?」
扉越しに聞こえる、聞き慣れた声。
「あ……うん」
返事をしたつもりだったけど、声は少し掠れていた。
カチャ、と静かな音を立てて扉が開く。
ヒヨリがそっと顔を覗かせて、ほっとしたように笑った。
「やっぱり寝ちゃってたんだね」
「……いつの間にか」
身体を起こそうとして、少しだけ重さを感じる。
まだ完全には戻っていないらしい。
ヒヨリはベッドのそばまで来て、様子をうかがうように屈み込んだ。
「大丈夫? 起きれそう?」
「うん……たぶん」
「無理しなくていいよ」
そう言いながらも、どこか嬉しそうなのは、私がちゃんと目を覚ましたからだろう。
「ねえ、晩ごはん……食べられそう?」
その言葉で、初めて空腹を意識した。
確かに、お腹は空いている。でもそれ以上に――
「……みんな、待ってる?」
「うん。セイもレオンくんも」
一瞬、言葉に詰まる。
考える時間がほしいと言ったのは私なのに、
結局、何一つ答えを出せないまま夜になってしまった。
それでも。
「……行く」
短く答えると、ヒヨリはぱっと表情を明るくした。
「ほんと?ゆっくりでいいからね!」
ゆっくり立ち上がり、ヒヨリに支えられながら部屋を出る。
リビングに入ると、セイは既に席についていて、レオンは椅子を引きながらこちらを見る。
「大丈夫か?」
レオンの問いかけに、小さく頷く。
レオンはそれ以上何も言わず、黙って椅子を引いてくれる。
セイはちらりとこちらを見ただけで、特に何も言わなかったけれど…その視線が、ちゃんと気にかけているのはわかった。
席につくと、食卓にはもう温かい料理が並んでいた。
「無理だったら残していいからね」
ヒヨリがそう言って、私の前にそっと皿を置いた。
「ありがとう」
スプーンを手に取る。
一口、口に運ぶと、思った以上にちゃんと味がした。
……食べられる。
その事実に、少しだけ肩の力が抜けた。
しばらくは、食器の音だけが静かに響く。
誰も急かさないし、誰も踏み込まない。
(……何か、言わなきゃ)
「……あの」
三人の視線が集まる。
一瞬で喉が詰まった。
何を?
どう言えば?
どこまで話せばいい?
考えがまとまらないまま、言葉だけが宙に浮く。
結局、何も続かず、私は視線を落とした。
重たい空気が、ほんの一瞬だけ流れる。
「そういえばさ!」
ヒヨリが、ぱっと明るい声を出した。
「今日、大通りのパン屋さんの前通ったらね、新作のパンがあったよ!レオンくん好きそうなやつ!」
「え、マジ?甘いやつ?」
「うん!中にナッツ入ってるって!」
「絶対うまいやつじゃん!」
レオンがぱっと表情を明るくして身を乗り出す。
そのやり取りに、空気がふっと緩んだ。
私は、その様子を見ながら少しだけ、助けられた気がした。
言えなかった言葉は、まだ胸の中にある。
でも今は、無理に出さなくてもいい気がした。
(……ちゃんと話すのは、もう少し後でいい)
私はスプーンを動かしながら、静かに息を整える。
この時間が、壊れないように。
この距離が、消えないように。
今はただ、同じ食卓を囲んでいられることを大事にしようと思った。




