表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手帳に書いたら世界が静かに変わったので、冬だけの願いを配達します  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/8

第7話 父の所在

 その夜、《Silent Eve》は現れなかった。待ち合わせの時間になっても画面は暗いままで、コメント欄の流れだけが淡く揺れている。更新の通知が遅れているのかとリロードを繰り返し、三度目で、短いサムネイルがひっそり差し替わった。生配信ではない。一本の音声ファイル。タイトルは、受け取り損ねカフェへ。


 祠へ向かう道は息が白く、風が曲がり角で小さく鳴った。受け取り損ねカフェのテーブルの上には、貸し出し用のヘッドホンが三つと、薄い封筒がひとつ。封筒の裏には灯子の名前。ペンの圧は軽く、けれど迷いがない。開くと、紙の匂いは祠の木の匂いと混ざり、落ち着く速度で胸に降りた。


 声は複数の喉を通る。君の父は最初の喉ではない。だが、君が覚えているリズムの一部を渡した人だ。署名はない。文章の切り方と語尾の温度に覚えがある。あの映画館で、朗読者の背後から呼吸のタイミングを示していた演出家。あの人の文体だ、とすぐにわかった。


 ヘッドホンを耳にあてる。流れてきたのは、声ではなかった。風の音。紙が擦れる音。何かをめくるかすかな気配。路地を渡る冷気の起伏。そして、朗読の間だけ。言葉の欠片は一つもないのに、意味の居場所だけがはっきり置かれている。間こそが声の正体だと、初めて腑に落ちた。音を足すのではなく、呼吸を重ねる余白。受け手の肺に入る空気のぶん、物語は立ち上がる。父がずっとやっていたのは、声を置くことではなく、間を渡すことだったのだ。


 封筒に入っていたもう一枚のメモには、一行だけ、祠の鈴を三回鳴らすこと、と書かれていた。狐が石段の影から顔を出し、鈴の下に座る。灯子が紐に指をかけ、三度、ゆっくりと鳴らす。音は薄いのに芯があり、屋根の裏と空の境目を撫でていく。その合図に合わせるように、狐がくるりと回って駆け出した。尾が路地の光をかすめ、金物屋の角を右、団地の敷地のフェンス沿いを左。灯子と蒼真は目を合わせ、走った。


 団地の裏手。父が一時期住んでいた別棟の、古い集会所に灯りがひとつ。ガラスの引き戸に近づくと、室内の空気が声に似た震えで満ちているのがわかる。言葉ではない、喉の形と肺の広がりの練習の音。扉を開けると、古いマイクスタンドを磨く中年の男女が数人、机の上には何も書かれていない紙が並ぶ。台本はない。朗読の練習場に、文字は不要なのだと、目で理解させられる。


 演出家がいた。帽子はかぶっていない。マスクも外している。目の端に疲れの皺が寄っているのに、声は澄んでいた。会釈は短いが、礼の角度には迷いがない。

 君のお父さんは、今日は来られない。ここで声は継いでいる。

 言葉の直球さに、肩の力が少し抜けた。会いに行けば、そこに父がいる。そういう単純さを期待していたわけではない。いてほしい気持ちは正直にある。でも、会ってしまうと、たぶん役割が個人に引っ張られる。その不安を、演出家の静かな言い方は軽くほぐした。


 部屋の中央では、互い違いに座った参加者たちが、それぞれの喉の形に合う間を探していた。誰かは言葉の頭の余分を削り、誰かは語尾を息に混ぜて消す。ある女性は、文の途中に薄く笑い声の形を入れる。笑いは声ではない、空気の震えだ、と彼女は言う。別の男性は、無音の時間に顎の角度をほんの少し変え、聞き手の視線を移動させる。それだけで、意味の焦点が滑らかに移るのがわかる。喉の形、舌の厚み、息の出し入れ。声は、血縁では継がれない。灯子は、父の癖に似た呼吸を持つ女性に気づいた。年齢は母と同じくらいか、少し上。父ではない。親族でもない。それでも、父から渡されたリズムの一部は確かにそこにある。胸の真ん中のかたさが、すこし溶けた。


 最終夜、舞台は路上だ、と演出家は言った。君が灯を消す人だね。君の声は、言葉でも音でもなく、合図そのものになる。人は合図に合わせて呼吸を整える。呼吸が揃うと、街は一度だけ同じ速度で回る。そこで渡せるものがある。


 祠に戻る道すがら、蒼真が口を開きかけ、やめて、また開いた。

 会えばいいじゃん、と言いかけた。けど、違う。会ってもいいし、会わなくてもいい。会うなら、役割を独占しない形を同時に作ろう。たとえば、会ったあとに、その場所を閉じずに残す、とか。君だけの場所にしない、とか。

 灯子はうなずいた。会いたい衝動と、個人化しない決意。そのあいだを行ったり来たりする足音が、胸の内側で確かなリズムを刻む。狐が鈴を鳴らし、団地の階段の踊り場で座り込んだ。息は上がっていない。鈴の音だけが、走った距離を数える。


 家に戻ると、手帳の最後から二番目のページが、勝手に一行だけ増えていた。八夜目、零時前、全市一分間の小停電(任意参加)。灯を消せる権利を返す。文字は細いが、走り書きではない。誰が書いた。父か、演出家か。祠の帯か。どれでもありうるし、どれでもなくていい。問題は、現実にそれをどうやるかだ。


 危険はないか。信号、病院、エレベーター。行政に申請して指示を仰げば、時間は足りない。やるなら、街の自発で。商店街の防犯灯は任意で消灯。マンションは管理組合単位で、一分間だけ廊下灯と共有部の照明をオフ。個人の家は、各自の判断で。参加は強制しない。消さない権利を侵さない。蒼真はすでに手を動かしていた。説明画像を作り、連絡のルートを洗い出し、ベンチで顔を合わせる人たちへ、一人ずつ伝える。無理をしない。危険を生まない。消えた暗さに、孤立を生まない。約束の組み立て方ひとつで、同じ消灯でも結果が違ってしまう。


 ランキングサイトはすぐに否定を打ち出した。消費に不利な行為、と画面に太字が躍る。夜間の照度低下は治安に悪影響。恩恵を受けられない人のことを考えていない。正論の殻の中に、数字の都合が透けて見える。それでも、以前よりは拡散しない。未受取指数の導入以降、サイトの力は少し落ちている。トップページの右上に、消灯計画の注意書きへの小さなリンクが残ったまま、目ざとい誰かの指が触れている気配がする。


 夜更け、祠の脇の返礼箱を空にすると、折りたたまれた白い便箋が一通混じっていた。封はされていない。君のやり方は正しい。だが、評価の空気は冬の外にもある。最後に消す灯は、外の世界へ渡す仕掛けに。末尾に、S。最初の手紙と同じイニシャル。スポンサー側の誰か。あるいは、サイトの開発側。もしくは、Silent Eveの制作チーム。正体を暴くための手紙ではない。こちらの背筋を冷やし、同時に支える文体だ。


 渡す仕掛け。消して終わりにしない。暗闇に線を残す。蒼真はすぐに、窓ガラスに貼る透過シールの案を出した。一分間の消灯が終わったあと、外の光が戻ったときだけ浮かぶ小さな印。目に見えない時間の通過を、光で可視化する印。印の形は、祠の帯に書かれていた螺旋に合わせる。名を呼び直すための螺子穴。店のショーウィンドウに、マンションの共用部のガラスに、個人の玄関に。貼るかどうかは各自の判断。説明書きは付けない。付けないことが、余白への礼儀になる。


 小停電の準備を進める間にも、日々の儀式は止めない。受け取り損ねカフェの湯気は、日中は薄く、夕方に濃くなる。狐は巡回を続け、星形カードの穴はよく動く手の跡でわずかに黒ずむ。返礼箱から出てきた「今日は怖かった」は、手帳に写したあと、帯の余白へ引き渡され、祠の上の薄い空へと還っていく。贈られなかったものの重さが、街のどこかで温度を持つ。温度があるものは、たとえ目に見えなくても、長く残る。


 夜、演出家からメッセージが届いた。最終夜、舞台は路上だ。君の合図に合わせ、朗読の間を街に散らす。声は各自の喉を通り、同じ台本はない。合図は、灯を消す直前の一回だけ。間は、その一分のために用意される。練習のための集会所は今夜も明かりがつき、マイクスタンドは無音のまま立っている。喉の形を整える練習は、発声よりも静かだ。静かさの中に、それぞれの呼吸の厚みが増えていく。


 会いたい気持ちは消えない。父に会って、確かめたいことは山ほどある。なぜ出ていったのか。なぜ冬にだけ戻るのか。なぜ声を名前にしなかったのか。けれど、いま会ってしまえば、その問いはきっと個人の言い訳と個人の弁明の往復に変わる。役割としての声に、私怨の紐をかけることになる。灯子は、待つを選んだ。最終夜に、役割の場で会う。もし会えなくても、役割が続く限り、声はどこかにいる。所在は、場所ではなく持ち方。帯の文字が示した通りだ。


 手帳の余白に、自分の言葉を書く。受け取り損ねる権利。消す権利。名を呼び直す権利。これを返すのが、最後の贈り物。紙が指の体温を吸い、微かに温かい。狐が足元で丸くなり、鈴を鳴らさずに目を閉じる。鳴らさない音は、準備が整っている合図だ。


 翌日から、消灯のための小さな連絡が街中で回り始めた。コンビニの前で立ち話をしていた二人が、管理組合の連絡網を持つ人へ電話をしてくれる。楽器店はショーウィンドウのスポットライトを一分だけ切ることに決め、隣の理髪店はサインポールの回転を止める練習をする。古本屋は店の奥のスタンドライトを消すかわりに、玄関先に小さなランタンの影を置く。光はゼロにならない。ゼロにしない。安全を確保しながら、光の所有権を一度だけ返す。そのための段取りは、意外に手触りが良かった。


 ランキングサイトは、なおも警告を出し続けた。消費に不利な行為。参加店舗はスポンサーからの優遇対象外。書き方は柔らかいが、実質的な圧だ。けれど、画面の右上の小さなリンクは消えない。未受取の語りと並んで、消灯の注意が控えめに貼られたまま。誰かが内部から守っている。Sの正体を詮索するのはやめた。味方の居場所を、こちらから晒さない。


 夜、祠に集まった人たちと、動作のリハーサルをする。一分間だけ、息を合わせて、立ったまま目を閉じる。目を閉じるのが難しい人は、手元の紙の角を撫でる。紙の角の丸さで時間を測る。スマホのタイマーは鳴らさない。鳴らさない時間は、長く感じる。長いことを怖がらないように、呼吸の数を数える練習をする。十数えると、思ったより早いことがわかる。十を六回。六回で、一分。誰かの数え方に合わせるのではなく、自分の肺の往復に合わせて数える。


 演出家が現れ、短い合図を置いた。合図の練習は、音ではなく、姿勢だ。顎をすこし引き、肩をわずかに下げ、胸の中の空気を一度止めてから流す。言葉は要らない。合図は、視線の高さをそろえる動作そのものになる。狐がその姿勢を真似るように、首をすこし傾ける。鈴は、鳴らない。


 帰り道、団地の階段を上っていると、階下から笑い声が上がった。階段の途中で小学生が二人、懐中電灯の光を壁に当てて遊んでいる。一分間、消すの、こわくないかな、とひとりが言い、もうひとりが、こわかったら目を開ける、とうなずいた。聞こえた会話の短さに救われる。恐怖のための余白が、もう街の言葉になっている。


 家で湯を沸かし、湯気を吸いながら、灯子は机に手帳を置いた。ページの端はすこし柔らかくなり、名前のない多くの指の油が、その柔らかさを支えている。父に会いたい気持ちは確かにある。けれど、その気持ちは、今夜のところは、間に置く。間に置いておけば、呼吸で形が変わる。形が変わっても、失われない。祠の帯から借りた考え方を、自分の喉で言い換える練習を、今は続けるべきだ。


 手帳のページの隅で、インクが薄く滲んだ。最終夜の前に、もう一度だけ、声の稽古を、と読める。演出家からの誘いかもしれないし、帯の余白の癖かもしれない。どちらでもかまわない。狐が足元で身じろぎし、鈴が一度だけ、空気の厚みを測るように鳴った。音は短く、低い。低さは、準備完了の印だ。


 消灯の前日、《Silent Eve》はまた不在だった。代わりに、音のない投稿がひとつだけ上がった。真っ黒な画面に、小さな白い点が一つ。再生時間はちょうど六十秒。何も起きない。何も起きないことが、起きている。コメント欄は静かで、既視感のない静けさが流れる。誰かが貼ったスクリーンショットを見て、灯子はその点の位置を祠の鈴に重ねた。点は動かない。動かないものに、呼吸が集まる。


 最終夜の段取りは、街の速度に合うように、無理なく組み上がっていった。消す人、消さない人。消す場所、消せない場所。どれも否定しない。消さないことを責める言葉は、祠のベンチの前で受け取り損ねとして箱に入り、紙の角を丸くしてから帯に渡される。紙の角が丸くなるたびに、街の角も少し丸くなる。角が丸いと、人はぶつかっても深くは傷つかない。深く傷つかないぶん、前へ進める力が残る。


 眠る前、灯子は窓を少し開け、夜の温度を部屋に入れた。息の白さは薄く、耳の奥で血の音がゆっくりと流れる。父の所在は、いまも遠い。けれど、所在は場所ではなく持ち方だとわかったから、遠さの質が変わった。遠いけれど、糸は手の中にある。糸は細く、強い。ほどけにくい。ほどけても、結び直せる。狐が枕元まで来て、鈴を鳴らさずに丸くなる。音のない合図に、灯子は目を閉じた。


 明日、零時の一分前。街はそれぞれの持ち場で、同じ姿勢になる。顎を少し引き、肩を下げ、胸の中の空気を一度止めてから流す。言葉はない。合図だけが置かれる。灯を消せる権利が、一分だけ、全員に返る。戻ってきた権利は、使っても使わなくてもいい。使わない自由も、同じ重さで守られる。終わりの一分ではなく、渡す一分。灯子はその一分のために、今夜は深く眠る。起きたとき、手帳は胸の上にあり、祠の鈴はまだ鳴らない。鳴らさない夜は、鳴らす朝のためにある。


 答えは、君の声で。手帳の白は、もう見慣れているのに、今夜は少し新しく見えた。声は、喉から出る前に、空気の間に形を取る。間は、ひとりでは作れない。だからこそ、最終夜は路上だ。路上の空気に、間を置く。置かれた間に、街が呼吸を重ねる。父の声は、その間に滲み、消え、また表れる。所在は遠く、役割は近い。近さを独占しないように、灯子は胸の上の手帳を軽く押さえた。紙は温かい。温かさは、合図の準備が整っている証だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ