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手帳に書いたら世界が静かに変わったので、冬だけの願いを配達します  作者: 妙原奇天


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第4話 声の正体

 地図は、地図のふりをしていなかった。配信《Silent Eve》の画面に一瞬だけ浮かんだ画像は、ただの夜の街角の切り抜きのようで、角に貼られた告知の端しか写っていない。長方形の影、壁に這うツタ、剝がれかけたポスターの破線。説明はほとんどなかった。冬だけの朗読会――会場は、見つけた人だけが入れる。文字はそれだけ。けれど、無駄な情報がないと、たいていのものはかえってよく見える。


 ヒントを拾い集めるのは、宝探しの真似事ではなく、冬の道を正しく歩くための方法の確認に近かった。蒼真は再生速度を落とし、静止画にしては拡大し、また戻し、床に落ちた埃の方向さえも読もうとする。狐はといえば、画面にあくびを一回だけして、灯子の足元で丸くなった。鈴は鳴らない。必要なときにしか鳴らさないのだ、ともう知っている。


 最初の断片は、配信の終わり際、ノイズの向こうに見えた古いタイルだった。乳白色の四角い小片が、ところどころ欠けて、下地の灰色が見える。商店街の裏通りの突き当たり、昔は銭湯だった建物の側面に、同じタイルが残っている。近所の人たちはそこを「白い壁」と呼ぶ。タイルの端に、映写機のピクトグラムみたいな影が斜めに伸びていて、灯子の体のどこかが微かに収縮した。映写機の影。映画館の香り。そう思った瞬間、冬の空気が鼻の奥で甘くなった。


 二つ目の断片は、電柱の標識だった。黄土色の鉄板に、手書きの数字。地図にない番号だが、裏道にしか立っていない型で、角が丸い。蒼真は位置の見当をつけ、三つの路地を候補に挙げる。祠の鈴は、そこでようやく一度だけ鳴った。狐がすっと立ち上がり、行先を決めるみたいに尾を一度だけ振る。


 夜の街を歩くと、足音は自分のものだけではない気がしてくる。アーケードの照明は薄く、シャッターに映る影が長い。祠の前で一度立ち止まり、手帳の重さを確かめた。群青の布は冷たい。ページの四隅は、持ち主に合わせて少し柔らかくなっている。灯子は深呼吸して、息をゆっくり白く吐いた。


 たどり着いた先は、予感に似合う匂いがした。解体を待つ小さな映画館。外壁は古いクリーム色で、入り口の上に残る看板の枠だけがつや消しの黒。チケット窓口のガラスは割れてはおらず、ただ曇っている。開いた扉の内側、薄い紙がテープで貼り出されている。匿名ギフトは手の中で完結させてください、と書かれていた。手の中で、という言い方に、灯子は救われた。誰かの掌で終わっていくなら、名前を必要としない。


 会場内は暗く、足元灯だけが青白く光っている。古い絨毯に、埃がよく似合う。座席は半分も埋まっていない。誰もが黙っているが、沈黙は固くない。ひとつずつの呼吸が目に見えそうなほど整っていて、間に余白があった。ステージの上、スタンドマイクにひとつの影が寄り添っている。フードを深くかぶった朗読者。細く長い指が、原稿の端をおさえていた。


 最初の言葉は、照明の色よりも冷静であたたかかった。

 「贈り物は、あなたを世界の片端に繋ぎ直すための細い糸」

 低い声。息の取り方。句点の手前でかすかに空気が擦れる癖。灯子は、耳で父のリズムを掴み、目で手の癖を追った。拍を強調しない。語尾を落とさない。言葉の骨を一本ずつ見せていくやり方。間違いない、と思ったところで、視界の端に別の影が立ち上がった。舞台袖に、もうひとり、別の男。黒い帽子にマスク。台本を持ち、タイミングを示すみたいに指で小さく合図を送っている。演出家のような身振り。だれだ。父は、一人ではないのか。声は“役割”として継承されるものなのか。


 思考が揺れる。揺れたことを周囲に悟られたくなくて、座席の肘掛けの端を指でつまむ。布地の毛羽立ちが掌にからむ。呼吸を整える間にも、朗読は続く。物語の中では、名のない人が名のない誰かに毛布を差し出し、名のない流れがその場に小さな温度差を作る。語りは、個々の固有名を避けながら、確かな姿勢だけを照らす。父の声は、人を指さない。方向だけを指す。そんなふうに、昔からそうだった。


 朗読の合間、観客参加の小さな儀式が始まった。列ができるでもなく、人は自然に立ち上がって、舞台下手の机の前に並んだ。封筒が一枚ずつ手渡され、中に薄い紙片が入っている。今夜だけの自分の役割を書いてください、と係の女性が小声で告げる。ペンは三本。ペンの芯は細く、音がほとんどしない。


 灯子は封筒を受け取り、自分の膝の上で紙片に触れた。表面は滑らかで、端がきっちり切れている。役割という言い方の正しさに、胸の奥が軽く痛んだ。役割は、責任でも、仮面でもない。贈与の単位。小さな動作の名前。灯子は書く。灯りを最後に消す人。文字にすると、体温が定まる。書き終えた紙を封筒に戻すと、胸ポケットにおさまる重さが、自分に似合っている気がした。


 蒼真は「壊れた配線を一本だけ繋ぐ人」と書いた。実際に繋がなくても構わない、と彼は肩をすくめる。役割は、具体の予行演習になる。言葉の中に手を入れて、先に触れておく。こうしておけば、必要なときに体が迷わない。狐は舞台後方の壁際を歩き、鈴をほんのわずかに鳴らした。客席の誰も振り返らないが、音の粒は確かに行き渡った。


 儀式が進むにつれて、会場のなかに小さな動作が生まれる。眠そうな人に、知らない誰かが膝掛けを差し出す。入口の隙間風に、カーテンがひと折り足される。子どもの背中がわずかに前に傾くと、隣の大人の手が自然に支える。拍手ではない、さざめきが広がる。目立つ音ではないのに、いちばん豊かな響き方をする音。誰のものともわからないのに、確かにそこにあった。


 朗読は、ときどき止まり、ときどき流れ続ける。物語の中ほど、朗読者がふいにフードに手をかけた。客席のどこかで息が吸い込まれ、前列の男が手を握り直す音がした。布がわずかに持ち上がる。影が動く。狐の鈴が、遮るように二度鳴る。天井の電球が一つだけ、音を立てて弾けた。暗転。指先の見えない闇の中で、人々の呼吸だけが続いている。舞台袖の幕がわずかに揺れ、再点灯。ライトが戻ると、朗読者はもう舞台にはいなかった。残されていたのはマイクと、台本と、空気の温度だけ。客席がざわめく。最前列の女性が立ち上がりかけて、座り直す。顔も名前も持たないざわめきが、場内の端から端へ転がっていく。


 舞台袖の男――演出家のような影が、一歩前に出た。帽子のつばを指先で押さえ、会釈する。彼は朗読の続きを読み始めた。声質は違う。けれど、言葉の運びが、どこか似ている。句読点の重さの置き場が、同じ地図を参照しているみたいだった。

 「声は誰のものでもない。冬だけ現れるのは、役割の方だ」

 灯子の喉の奥が熱くなる。父が“声そのもの”である可能性。父が“役割の継承者の一人”である可能性。その二つが同時に立ち上がり、互いに否定しない。どちらにしても、贈る行為は個人の物語を超えて継がれていく。名前を超えた場所に、灯りの線は引かれるのだ。


 終演の合図は、拍手ではなかった。客席の後ろから、静かな足音が手前へ向かって動き、前方から後方へ空気がわずかに戻る。人が立ち上がるときの布の擦れる音が重なり、無言の列が出口へ。退場の手前で、受け取った封筒を返すよう促される。透明の箱の中に、色のない封筒が淡く積もっていく。


 灯子が封筒を箱に入れようとして、指先を止めた。封筒の口に、ごく薄い紙片が一枚、忍ばせてある。差出人の名前はない。曲がり癖のある文字。八夜目、最後の灯を消すのは君だ。読み終えるまでに、手のひらの温度がすっと下がる。狐が足元で座り込み、顔を上げた。鈴は鳴らない。鳴らす必要がない、という顔。蒼真は外で、ボランティアに混ざって延長コードを巻いている。布の養生テープを剥がす音が、細く長く続いていた。


 外気は冷たく、声の余韻は外の白にすぐに溶けた。映画館の表に回ると、解体までの日数を書いた掲示が錆びた釘で留められている。数字は二桁のまま、夜露に濡れていた。蒼真が出てきて、手袋を外し、手の甲で息を温める。

 「中、どうだった」

 「よかった。よくて、困った」

 「困ったの方?」

 灯子は、胸ポケットの封筒を指で押さえた。紙は薄く、言葉は重い。八夜目、最後の灯を消すのは君だ。誰が書いた。父か、声の役割の誰かか。あるいは、手帳に書かれたものが、別の紙へ滲み出たのか。問いは、夜空より静かに増えていく。


 帰り道、祠の前で足を止める。鈴が一度鳴り、空気の層が薄く揺れる。狐は鳥居をくぐらない。入口の手前で、小さく背筋を伸ばし、灯子を見上げる。目はいつもと同じ琥珀の色なのに、その奥でなにかが灯り、なにかが影になった。灯子はしゃがんで、尾の先に触れた。冬毛は暖かく、柔らかい。手の中で完結させてください。入口の紙の文字が、指先の温度で読み返される。


 家に戻ると、母はもう寝ていた。台所には湯呑みが二つ並んでいて、片方にうっすらと茶渋の輪が残っていた。灯子はお湯を沸かし、残っていた茶葉で薄いお茶を淹れる。湯気は夜の匂いを中和する。机の上に手帳を置き、電気スタンドを低くして開く。紙の白は、今日見たスクリーンの白と似ている。光を返すのではなく、光を吸って落ち着かせる白。


 最終ページの手前に、薄いインクが滲んでいた。答えは、君の声で。文字は細く、走り筆ではない。丁寧なのに、急ぎの気配がある。今でなければ、夜の冷たさに引かれて消えてしまうような掠れ方。灯子は、声、という言葉に指を置く。父の声は、父のものだ。けれど、声は役割にもなる。受け渡せる。拾い上げることも、拒むこともできる。贈り物の定義は、受け取る側が決める。最初のページの一文が、今夜は別の輪郭で胸に座り直す。


 眠れない夜は、静かな仕事に向いている。灯子は部屋の灯りを消し、ベッドの上で手帳を胸の上に置いた。目を閉じると、映画館の暗転の瞬間が戻ってくる。電球の弾ける音。暗い中で続いた呼吸の重なり。再点灯。空のマイク。舞台袖の影。声の所在が空に移って、場がそれを共有した時間。あの空気の手触りを忘れたくなかった。けれど、忘却の順番は、いつもこちら側に先に訪れる。父の顔の輪郭は、思い出そうとすると少しだけ遠くに下がる。ペンギンの鳴き声より、今日の電球の弾ける音の方が鮮明だ。代償は、静かに回収しに来る。回収された角は、痛みを減らす。けれど、指の引っかかりも減らしてしまう。


 翌朝、空は軽く粉砂糖を振ったみたいに白い。学校に着くと、教室の隅で誰かが《匿名ギフトランキング》の新しいページを見ていた。灯りの数、いいねの推移、直近のトレンド。黙って画面を閉じ、図書室へ向かう。扉を開けると、朝の図書室は木の匂いが濃い。窓辺の席に座り、蒼真と小さく話す。昨夜の映画館のこと。封筒のこと。声の正体は、正体ではないこと。


 「会いたいか?」

 「わからない。会ったら、全部が台無しになるかもしれないし、全部が救われるかもしれない」

 「どっちでもない、もある」

 「うん。どっちでもない、が一番それっぽい」

 沈黙は、会話を終わらせない。思考の余白を、空気が埋める。


 放課後、倉庫に戻る。机の上に、修理を待つ古い灯りがまだ残っている。昨夜できなかった一本の配線を、蒼真が静かに繋ぎ直す。半田の匂いがわずかに甘い。狐は作業台の端で丸くなり、鈴を一度だけ鳴らす。その音は、合図であり、拍手であり、祈願であり、解散でもある。複数の意味が重なって、どれでもよくなる。


 夜になると、朗読配信はなかった。画面は無音のまま、過去のアーカイブだけを表示している。冬の夜の穴が空いたみたいに、音が一つ欠けている。灯子は窓の外を見た。電線に止まる鳥は少ない。路地の灯は、昨夜より静かだ。静かな夜は、静かな夜でいい。誰も何もしないことも、一つの贈り物に数えられる。手を出さない役割。見守る役割。やり直しの定義を変える前に、一度、何も足さない夜を通過させる。


 机の上の封筒をもう一度開く。八夜目、最後の灯を消すのは君だ。文字をなぞるように読み直す。最後に消す、という言い方は、終わらせる責任ではなく、終え方を美しくする役目に近い。電源を引き抜かず、コードを一本ずつ辿る。灯りの前に立って、名残惜しさを噛み砕き、それでも指を伸ばす。消す手つきに、次の誰かへの明るさが含まれているように。そんなふうに、できるだろうか。


 手帳を開く。紙の余白はまだ残っている。声の主に会え、と書かれた夜を越えたのに、手帳は沈黙を選んでいる。紙の白は、じっとしていると少し温かい。父の声は、たしかに自分の骨を震わせた。その記憶が、角ごと削られませんように。灯子は小さく祈り、祈りを手帳には書かなかった。書かない祈りは、誰にも干渉されない。自分の内部で完結させる贈り物。入口の紙の文字が正しかったように、祈りにも触らないほうがいい夜がある。


 翌日、商店街で細い雪が舞った。地面に届く前に溶ける粒は、誰のものにもならない。祠の鈴は鳴らず、狐は屋根の庇の上で丸くなっている。灯子はベンチに座り、行き交う人の足元だけを眺めた。厚い靴底、踵の傾き、歩幅の差。見知らぬ足音が重なって今日を作る。八夜目は、遠い。けれど、遠いものほど、準備に向いている。最後の灯を消す前に、灯の数を増やす必要はない。灯りの置き方を、もう少しだけ丁寧にするだけでいい。


 帰り道、ポケットの中の封筒が、抱き石みたいに落ち着いた重さを保っていた。答えは、君の声で。手帳のインクは薄く、しかし消えない。父の声は、父のものであり、冬の役割でもある。灯子の声は、灯子のものだ。誰かに似せず、無名のまま、届くべき場所に届けばいい。そう思ったとき、胸の奥の冷たい硬さが、少しだけ溶けた。世界の片端に繋ぎ直すための糸は、今、手の中にある。ほどかない。引っ張りすぎない。節をひとつ結ぶ。

 夜の気配が濃くなり、群青の手帳は静かに重さを増す。最後の灯の前に、まだ夜がある。まだ、贈る手つきの練習ができる。灯子は歩幅を確かめ、祠の前でいちどだけ立ち止まって、鈴の鳴らない鈴に会釈した。

 答えは、君の声で――ページの奥に眠る文字が、今夜は返事を待たない顔で、静かに光っていた。

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