表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手帳に書いたら世界が静かに変わったので、冬だけの願いを配達します  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

第2話 匿名ギフトの夜

 その日の空は、薄い氷膜の下で光がこすれ合うように白かった。団地の廊下に差し込む日差しは弱く、冷たい金属の匂いがした。灯子は通学鞄の底に、群青の手帳を確かめる。布の手触りは指の温度を奪い、背筋が少し伸びる。ページを開く度に、紙の繊維がこすれる音が、小さな合図みたいに胸の奥で鳴った。


 最初の本格的な願いは、給食センターで働くシングルマザーのものだった。商店街の掲示板に、ボールペンの弱い筆圧で書かれた紙切れが貼られていた。子の弁当が、見た目でも負けませんように。文字の最後がわずかに滲んでいる。掲示板のガラス越しに、灯子は自分の顔の輪郭を見た。冬で少し痩せた頬に、電飾が反射していた。


 負けませんように、という言い方は、どこかで誰かと比べる前提がある。手帳は命令調や駆け引きを嫌う。灯子はポケットから万年筆を取り、手帳の余白にゆっくりと書き写した。子が、自分の弁当を好きと言えるように。言葉の角を丸くするみたいに、ペン先を慎重に運んでいく。書き終えると、紙の上に薄い香りが立ちのぼった。柑橘と冷えた風を混ぜたような匂い。ページの端を折ると、手帳はほっとしたように軽く沈んだ。


 放課後、蒼真の作業場に向かう。空き倉庫を間借りしたその場所は、風が抜けるたびにガラス瓶がかすかに鳴った。床には電線の切れ端、アルミのはし切れ、使い古しの針金。蛍光灯の白が冷たく、息が薄く白む。蒼真はパーカーの袖をまくり、廃材イルミの端材から小さな星を切り出していた。金属を切るニッパーの音が、細い光を飛ばす。


 「リボンは紙じゃすぐ湿るから、これにしよう。星のクリップ。挟むだけでいい」

 「重くない?」

 「軽いよ。アルミだし。色は灯りで出す」


 蒼真の指の関節には、いくつか薄い火傷の跡。灯子はその小さな痛みの地図を、今までよりもはっきりと見てしまう自分に気づいた。最近、目の前の輪郭だけが異常に鮮明に見えるのだ。路面の白線の欠け、倉庫の床の汚れの流れ方、針金の曲がる角度。視界の手前が強すぎて、奥が遠い。昔の記憶が、薄い霧のむこうに引っ込んでしまったような感覚がある。


 「狐、来てない?」

 灯子が問うと、倉庫の奥の暗がりで、小さな鈴が一度だけ鳴った。そこにいる、と告げるように。冬毛のふくらんだ影が、鉄骨の間を横切り、低い台の上で丸くなった。目は閉じているが、耳はわずかに揺れている。見守る、という言葉が、そのまま形になったみたいだった。


 星型のクリップが十個できる頃、外はもう真っ暗だった。倉庫の小さなストーブが赤く、空気は乾燥している。灯子は手帳を開き、願いの文章をもう一度なぞる。子が、自分の弁当を好きと言えるように。声に出さなくても、紙が言葉を覚える。ページに鼻を近づけると、印刷所の裏庭のような匂いがした。


 翌朝、いつもより早く目が覚めた。冬の朝は音が遠い。団地の窓ガラスが薄く曇り、息を吹きかけると円が広がる。学校に行く前、倉庫に寄って星のクリップを鞄に入れる。廊下で会った母は夜勤明けで、コートを椅子にかけたまま、湯を沸かしていた。蒸気の上がる音が、眠気の膜を破る。


 「今日、寒いよ。滑らないでね」

 「うん」


 言葉は短いのに、湯気の温度が家の会話を少しだけ柔らかくする。父の話は、自然と避けられている。避けられていることすら話題にしない感じが、家の中に薄く積もっていた。


 昼休みを過ぎた頃、投稿サイトに短い動画が上がった。蒼真が朝、給食センターの裏口の近くで撮ったものだ。誰の顔も映っていない。銀色の星形のクリップが、台所のカゴの縁に挟まれている。弁当箱の海苔の切り抜きが、迷路みたいな模様になっている。タグには、匿名ギフトの文字。コメント欄には、助かった、真似したい、の言葉が小さく積もっていく。誹謗の言葉は不思議と少ない。台所の光は、正直で、拡散のための光とは違って見えた。


 午後の授業中、灯子はノートの罫線がいつもより濃く見えるのに気づいた。ボールペンのインクの粒が、紙にしみ込む速度までわかる気がする。視界の「いま」に焦点が合いすぎて、過去の形がぼやける。放課後、図書室の窓に映る自分の顔を見ながら、灯子は小さく息を吐いた。父と行った冬の水族館の細部を、うまく掴めない。ペンギンの鳴き声はどんなだったか。イルカの名前は何だったか。照明の青は覚えているのに、音と固有名が霧に消える。手帳は世界のいまを押し出す代わりに、昔の角を落としていく。角が削れると、痛みも引くけれど、手触りも、少しずつ失われる。


 二件目の願いは、古本屋の老店主のものだった。店の奥に置かれたスツールに腰かけ、店主はゆっくりと紙に書いた。常連のあの子に、もう一度だけ会いたい。灯子はその文を手帳に写す前、長く躊躇した。会いたい、を動かすのは重い。誰かの都合を奪う可能性がある。ページの上でペンが止まる。祠の方角から、かすかな鈴の音。風がガラス戸を揺らし、紙の端がふるえた。手帳のページが、ひとりでに一枚めくれる。促されるというより、条件を足しなさいと言われているような感触だった。


 灯子は小さく書き足した。相手の無理を引き出さない形で。ペンの軌跡が残像みたいに余白に浮き、沈む。蒼真は店の外で、廃材イルミのブックエンドを準備していた。厚手のアルミ板を折り曲げ、古い本の背表紙から拾った金の箔を貼る。星座の線だけを細く彫り、弱い電池で点灯するようにした。電気を通すと、線が夜の地図みたいに光った。


 閉店間際、ブックエンドをそっと店の前に置く。寒風で鼻の奥が痛む。通りがかりの大学生が、光の線に足を止めた。手袋をとって、慎重にブックエンドを持ち上げる。どこかで見たことがある、とでも言いたげな顔で、中へ入っていく。老店主が目を上げ、短い会話が始まる。灯子は外から覗く。大学生は店の写真を数枚撮り、SNSに上げた。この店、落ち着く。写真の端に、星座みたいな光が映っている。数時間後、その投稿のひとつの「いいね」を押したアカウント名が、老店主の言うあの子のものだった。数日後の午後、偶然を装った再会が起きる。あの子は、昔と同じ癖で髪を耳にかけ、「ブックエンド、素敵ですね」と言った。会い直す、という言い方がふさわしい。手帳は強制していない。ただ、扉の蝶番に油をさしただけだ。扉は、自分の重さで動いた。


 その夜が更けるころ、冬だけ出現する匿名チャンネルが立ち上がった。Silent Eve。画面は暗く、唇とマイクだけが淡く光る。朗読されるのは、名のない贈り主の話。声は低く、少しだけ掠れていて、どこか懐かしい。灯子は、父の声に似ていることを認めたくなくて、イヤホンを片耳で外した。コメント欄には、匿名ギフトのタグが流れ始めている。蒼真の短い動画が、無関係を装って静かに広がっている。拡散という言葉の表面は冷たいけれど、今夜のそれは、台所の湯気に近い温度を持っているように見えた。


 「バズは要らない」

 灯子が小さく言うと、蒼真は肩をすくめる。

 「善意はさ、ある程度集まると儀式になる。儀式は、誰かの救いにもなる。ほら、初詣とか、献血とか。匿名のままだから、重すぎない」

 「でも、手帳はどう思うかな」

 「嫌がってないよ。見てろって」


 狐が鈴を鳴らした。配信の音声が一瞬だけ揺れ、すぐに戻る。画面の向こうの朗読は続く。名のない贈り主は、誰かの台所に星を置き、誰かの書棚に灯りを差す。名前のかわりに、光の線を残す。コメント欄に混じる罵倒は、今夜は風のように通り過ぎていく。


 配信を閉じると、倉庫の屋根を打つ雨音に気づいた。細かい霰のような音。外は、白い息より冷たい。作業台の上の工具を片づけ、照明を落とすと、暗闇の中で手帳だけが、ほのかに鈍く光った。灯子は表紙を撫で、そっと開いた。最後に見た行の下に、知らないうちに一行が浮かび上がっていた。三夜目、路地の灯を継げ。文字の癖が、父の手紙の書体に似ていて、灯子の心臓がすっと冷えた。


 家に帰る道、商店街は雨の膜でぼやけていた。アーケードの下は濡れておらず、電飾が足元の水たまりに揺れて映る。祠の前を通ると、鈴の音が雨に紛れて小さく重なった。狐は見えない。けれど気配は確かにあって、灯子の歩幅に合わせて寄り添うように移動している気がした。


 部屋に入ると、母はもう寝ていた。寝息のリズムと、冷蔵庫のモーターの音が重なり、夜の家は機械のように呼吸していた。灯子は机に手帳を置き、引き出しから古い写真を取り出す。冬の水族館。父の横顔がブレている。ピントは、向こう側の青い水槽に合っている。ペンギンたちの群れ。鳴き声が思い出せない。指で写真の余白をなぞる。紙の角が柔らかく、昔の四隅が丸くなりかけている。まるで、手帳の注意書きが、写真にも効いてきたみたいに。


 机の上で、スマホが震えた。蒼真からのメッセージ。明日の夜、路地の灯を継ぐ計画、立てない? 簡単な地図と、倉庫にあるイルミの在庫表。星形のクリップはあと二十。ブックエンドは五。使えそうな電池は、ロット違いのが二袋。祠から商店街の端まで、灯の点をつないでいく線が、地図上に引かれている。線は細いのに、見つめていると、じわりと温度を持つ。


 返事を打とうとして、指が止まる。三夜目。手帳の文字が頭の隅で光る。継げ、という言い方は、誰かから誰かへ渡す動きを含んでいる。自分たちが置いた灯を、誰かが拾い、次の誰かへ。儀式にするなら、その中心に名前はいらない。灯の置き方だけが、目印になる。


 ベランダのガラス戸に、外の雨粒が細かくあたっていた。水の跡が斜めに滑って、下で別の筋と合流し、消える。灯子はスウェットのポケットから手帳を取り出し、ベッドの上に広げた。ページの紙目に指を滑らせる。父の声が、冬の配信の向こうから呼吸を整えるみたいに届く。物語は贈り物だ。包み紙は静けさ。この言葉の温度だけは、削れないでほしい、と灯子は思った。


 眠りに落ちる前、耳の奥で鈴が鳴った。倉庫の天井の暗さ、古本屋の木の匂い、給食センターの湯気の温度。今日のいまが、濃いインクのように重なる。その重みのぶん、過去が軽くなる。遠ざかる記憶が、悪いことだけならいいのに。良いものまで均等に丸くなっていくのが、手帳の代償なのだとしたら。灯子は目を閉じたまま、ゆっくりと拳を握った。指の骨の位置が、今日の自分の生きている証拠みたいに、正確にわかった。


 翌日。空は抜けるように晴れ、冷たい。学校が終わるとすぐに倉庫に集まり、地図を広げる。蒼真は材料を並べ、作業の手順を短く説明した。星形のクリップに細いLEDを一本ずつ通し、電池ボックスは紙袋の内側に貼る。袋の外側には、ただの無地のカード。言葉は書かない。光の置き方だけでわかるように。拾った人が、自分の灯にして構わないように。


 「祠からスタート、でしょ」

 「うん。そこから右に三軒。駄菓子屋、閉まるの早いから先に」

 「雨は?」

 「今日は降らない。でも、風は出る。鳴子の音が強くなる」


 狐は足元で丸まり、尾を前足に巻き付けていた。瞼の下で目が動く。夢を見る動物のまぶたの薄さが、暗い床の上で心細くもあり、頼もしくもあった。鈴の玉はしっかりと磨かれていて、小さな傷が光を跳ね返す。古いのに、ちゃんと生きている印みたいだった。


 日が落ちる少し前、準備は終わる。商店街の端から端まで、灯の置き場所に印をつける。配るのではなく、置く。拾う人の速度に合わせる。匿名ギフトのやり方は、押しつけにならないこと。灯子は手帳を胸に抱え、祠の前に立った。鳥居の木目に冬の陽が溶け、鈴の音が一度だけ、周囲の時間の速度を合わせる。


 最初の灯は、古いベンチの脇に置いた。星形のクリップが紙袋の口を止め、中には小さな電池の灯。袋の影が地面に長く伸びる。通りすがりの子どもが、まず足を止める。触るかどうか迷って、見上げる。母親が微笑んでうなずき、子どもは袋を持ち上げる。袋の内側で灯が揺れ、子どもの頬に光が映る。言葉はない。けれど、頬に浮かぶ色が、すでに十分な会話になっている。


 二つ目は、楽器店のシャッターの隙間から漏れる音の横に。三つ目は、理髪店の青いサインポールの下。四つ目は、夜だけ開く雑貨屋の扉の脇。五つ目は、商店街の端のバス停。置くたびに、電飾のリズムが一瞬だけ揃う気がする。見えない指揮者が、小さくカウントを取っているみたいに。蒼真が遠くから、それぞれの灯の写真を一枚ずつ撮る。顔は写さない。名も書かない。線だけを残す。拾った人が自分の線を足せるように。


 通りの向こうで、老店主が店のシャッターを少しだけ上げる。昨日の大学生が、友人を一人連れて来ている。星座のブックエンドの灯が、少しだけ強くなったように見えた。風が吹き、祠の方向から鈴が短く鳴る。狐の影が、灯の線と線の間を軽く跳び越える。跳んだ跡に、光の粉のようなものが落ちた気がして、目をこらす。でも、すぐに見えなくなる。見えたのは、自分が見たいと願ったせいかもしれない。そうだとしても、構わない、と灯子は思った。


 作業を終えると、二人で倉庫に戻った。鍵を閉め、灯りを落とす。暗闇の中で、手帳を開く。紙の上に、新しい行がまたひとつ、薄く浮かび上がっている。四夜目、やり直しの定義を変えよ。文字の輪郭は、見なれた字体と見なれない癖の中間にある。父の手紙の癖に似ている。ページの端をなぞる指先が、少し震えた。やり直しという言葉が、胸の奥の空洞を正確に叩いたからだ。


 倉庫の外は、風が強くなっていた。電線が低く唸り、その音に混ざって、遠くの笑い声や、誰かが扉を閉める音が届く。今夜置かれた灯のいくつかは、もう別の誰かの手に渡っているのだろう。光は、誰のものでもないまま、人の数だけ表情を変える。匿名であることは、時々冷たく、時々救いになる。名前のない贈り物は、受け取った人の名前で呼ばれ直す。灯子は手帳を胸に抱えたまま、目を閉じた。瞼の裏に、今日の灯の位置が地図のように浮かぶ。薄い青の線。そこに人の歩く速さが乗り、冬の息が白く重なる。


 帰り道、祠の前で足を止める。鈴の音はしない。狐の姿も見えない。でも、空気の密度がほんの少し変わる。歩幅が合う。灯子は、ありがとう、と小さく口の中で言ってから、手帳をコートの中に戻した。冬至までに八夜。あの奥付の刻印が、冷たい針で日付を刺す。残りの夜は、数えられる。数えられるぶんだけ、今日を濃くすることができる。濃くした色は、いつか薄くなるかもしれない。それでも、色は一度は確かにあったのだ。


 家に戻ると、母は台所でスープを温めていた。白い湯気が立ちのぼり、玉ねぎの甘い匂いが冬の夜の隙間を埋める。テーブルに置かれた二つの器。母は何も聞かずにスプーンを置く。灯子は、ただ、ありがとうと言った。言葉の重さは軽い。けれど、今日の自分には、その軽さがありがたかった。


 食後、机に戻り、手帳を開く。ページの余白は、まだたくさんある。明日、やり直しの定義を変えるために、何ができるだろう。小テストのやり直しではない。誰かの生活の中にある、小さなやり直し。負けませんように、ではなく、好きだと言えるように。会いたい、ではなく、会い直せますように。灯りを継ぐ、ではなく、灯りが誰かの手の中で形を変えますように。言い換えは、祈りを細くするのではなく、広げる作業だ。角を削りながら、傷を浅くする。浅くなった傷でも、痛いときは痛い。それでも、触れられる。


 眠る前、Silent Eveを開く。今夜の朗読は、贈り主が自分の名前を忘れていく話だった。忘れることは、悲しいだけじゃない。名前の輪郭が薄くなるぶん、世界の光の粒がはっきり見えることがある。声の主はそう言い、黙った。無音の数秒。その沈黙が、いちばんの朗読だった。灯子は目を閉じ、父の声の残響に耳をすませる。似ている。でも確かめない。確かめなさを選ぶ夜があってもいい。選べることが、今の自分の贈り物だ。


 やがて睡魔が波のように寄ってくる。今日の光景が、ゆっくりと混ざり合い、薄まる。削れた角から零れる粉のように、記憶の粒が布団の皺に溶ける。明日の朝、また少しだけ何かを忘れているかもしれない。けれど、今日置いた灯の位置は、手が覚えている。指の骨の配列、歩幅、息の回数。そういう身体の記憶は、紙よりも長持ちすることがある。灯子はそう信じて、群青の手帳を胸にのせた。


 冬至への夜は、まだ続く。三夜目の行は、閉じた瞼の裏で、白い糸のように細く光った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ