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手帳に書いたら世界が静かに変わったので、冬だけの願いを配達します  作者: 妙原奇天


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第1話 冬至の手帳

 朝の空は、冷たい金属を擦ったような音をしていた。雲の縁が白く凍り、遠くの送電線の上を、黒い鳥がひとつ、ゆっくりと滑っていく。

 団地の廊下に出た灯子は、吐いた息がすぐに白く広がるのを見て、冬至が近いことを思い出した。手袋の指先で郵便受けを開けると、そこに一枚の封筒が挟まっていた。宛名も差出人もない。紙の質が、他のチラシとは違って、すこしだけ重い。


 部屋に戻って封を切る。

 中に入っていたのは、群青色のクロスカバーの手帳だった。光の角度によって、布の織り目がゆっくりと動くように見える。表紙の中央には小さく金の文字。WINTER LEDGER。

 添えられていた万年筆は、古いもののようで、キャップの部分に擦り傷があった。インクはすでに満たされていて、わずかに青の匂いがする。灯子は手帳の最初のページを開く。そこには、一行だけ箔押しの文字があった。


 この手帳は、願いを写し、余白を灯す。贈り物の定義は、受け取る側が決める。


 指先に紙の冷たさが残る。

 その瞬間、かすかに香りが立った。柑橘の皮のような、冬の朝の風のような匂い。灯子は無意識に深呼吸して、窓の外に目を向けた。団地の中庭には、誰もいない。自転車のハンドルに積もった霜だけが、光を反射して白く光っている。


 父の声が、遠い記憶から滲んでくる。

 冬だけ匿名で朗読配信をしていた人。あの低い声。

 ――物語は贈り物だ。包み紙は静けさ。

 二年前の冬、父は突然いなくなった。行方はわからないまま。母は病院の夜勤が多く、家には帰ってきても眠るだけだった。灯子は、誰に見せるでもなくノートを開き、そこに父の声の残響を探すようにして、空白を見つめた。


 「願いを写す」――。

 その言葉をどう受け取ればいいのかわからない。

 試しに、ペンを握って書こうとしてみる。

 “明日の小テストがやり直しになればいい”

 ――ペン先が紙に触れた瞬間、灯子は動きを止めた。巻末に、小さな注意書きが目に入ったのだ。


 私益の願いは、角を削る。


 角を削る。意味は曖昧なのに、どこか痛い言葉だった。

 灯子はペンを置き、ページを閉じた。閉じるとき、紙と布の擦れる音が、静かな夜の戸口を閉める音のように響いた。


 翌日の教室。

 ガラス越しの光が、黒板を淡く濡らしている。蒼真が、手のひらサイズのイルミ作品を持ってきていた。廃材で作った小さなアーチ。針金で組まれた星座のような模様が、電池で灯る。

 「路地の星座」――彼はそう名付けていた。

 「配信でバズるかもよ」と言うと、蒼真は肩をすくめた。

 「いいんだ、バズとか。これは“見つけられる人のため”の光だから」

 その言葉が少しだけ引っかかった。父の言葉と似ていたからだ。


 放課後、二人は商店街を抜けて、端にある古い祠に寄った。

 冬の日の傾きは早く、電飾が灯り始める時間だった。アーケードの中には、焼き菓子の匂いと、古本の紙の匂いが混ざっている。

 「このあたり、昔から“願掛け”の祠って呼ばれてるらしい」

 蒼真が言いながら、スマホで撮影する。

 灯子は、ポケットから例の手帳を取り出した。

 「これ、試してみる」

 ページを開き、掲示板の前に立つ。そこには、誰かの手書きのメモが貼られていた。

 閉店前のパンが、捨てられませんように。

 短い文章。だが、その祈りの小ささが、かえって胸に残った。

 灯子はその言葉をそのまま書き写し、ページの端を折った。ペン先が紙を滑るたび、手帳の表面が微かに光を返す。


 風の向きが変わった。

 商店街の電飾が一瞬だけ、同じリズムで明滅する。

 祠の陰から、鈴の音がした。

 目を向けると、そこに小さな狐がいた。

 冬毛でふくらんだ体。首に古びた鈴を下げ、目だけが琥珀のように光っている。人語は話さない。けれど灯子の足元を二回、くるりと回って、祠の奥に消えた。

 蒼真が笑う。「お前、今、何か出たぞ」

 「……見えた?」

 「多分。猫かもしれないけど」

 でも、その笑い声はどこか冗談めいていなかった。


 夜。

 帰り道で見たパン屋は、まだ開いていた。

 閉店時間を過ぎているのに、シャッターが半分だけ開いていて、店主らしき女性が何かを運び出している。アーケードの奥、古本屋の前に紙袋が置かれていた。

 “ご自由にどうぞ”と書かれた札。中には、きれいに包まれた余りのパンがいくつも入っていた。

 灯子はその光景を黙って見つめ、ポケットの手帳を開いた。

 ページの間に挟んでおいたレシートが、いつのまにか「完売」の印字に変わっている。

 それを見て、息をのんだ。

 願いは叶った。――けれど。


 翌朝、彼女は一つの名前を思い出せなかった。

 小学校の時の担任。顔も声も浮かぶのに、名前の音だけが霧になって消えている。

 “角を削る”とは、こういうことなのかもしれない。

 記憶の角。世界の輪郭を少しずつ削り取って、丸くしていく。

 その代償の静けさに、灯子はしばらく立ち尽くした。


 放課後、図書室。

 誰もいない窓際の席で、灯子は蒼真に手帳のことを話した。

 彼は信じないふりをして、でも目の奥が笑っていた。

 「検証しよう。ちゃんと条件を決めて。誰かのためだけに使うんだろ?」

 「……うん。でも拡散とか、そういうのはだめ」

 「俺、記録取るだけ。統計出す。動画は上げない」

 「ほんとに?」

 「ほんとに。これは、静かな贈り物なんだろ?」


 二人はルールを決めた。

 ①他者の願いに限る。

 ②命令形や取引の言葉は禁止。

 ③代償が大きいと感じたら中止。

 蒼真がメモを取る手を止め、「名前つけようぜ」と言った。

 「“冬至の手帳”とかどう?」

 灯子は少し笑った。「そのまんまじゃん」

 「いいじゃん。わかりやすい。世界をちょっとだけ明るくするんだろ?」


 帰り道。

 祠の前を通ると、狐がまた姿を見せた。

 小さく首を傾げ、鈴を鳴らす。音は、冷たい空気をゆっくり震わせて、どこまでも透き通っていった。

 その音に合わせて、商店街の電飾が順に灯る。まるで電線の上を光が走り、空へと昇っていくように。

 蒼真が息を呑んだ。

 「……今の、見た?」

 灯子はうなずいた。

 「世界が、一目盛りだけ“祝祭”に傾いた」


 手帳の最後のページを開く。奥付の隅に、小さな文字が刻まれていた。

 冬至までに八夜。

 それが何を意味するのかは、まだわからない。

 けれど灯子はその夜、はじめて自分から灯りを消さずに眠った。

 窓の外、遠くの電線の上で、狐の鈴の音がかすかに鳴った気がした。

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