私の今カノ、元カノの話するたびに景気良くゲロ吐いてくれるから助かる
処女厨と付き合うって大変だね。
彼女とのデート中にほかの女の話、ましてや元カノの話なんてするもんじゃない──っていうのはまあ、わりと当たり前のことだとは思う。思うんだけど。
「よくこんなお洒落なカフェ知ってたねぇ。穴場ってやつ?」
「うん、元カノとのデート中にたまたま見つけてさ。二人でたまに来てた」
「元カ……、っ、ゥッ、おえ゛ぇぇ……っ!」
「おー良いね良いね。元気があって大変よろしい」
卓上のフレンチトースト……ではなく、ギリギリで間に合ったエチケット袋に吐瀉物を放流するユキの姿を見ていると、どうしても、話した甲斐があるなぁという気持ちになってしまう。ツンと鼻をつく酸っぱい匂いが漂って、カフェの雰囲気に水を差していた。ちなみにこのエチケット袋は私の私物だ。まだまだ予備はたっぷり持ち歩いてる。なにせユキがデート中にゲロ吐くのは今日が初めてじゃないから。というかちょいちょいある。具体的には、私が元カノの話をするたびに。
「今日の朝食はハムエッグだったのかな?」
「ォ゛ッ……!」
駆けつけた店員さん、最初は大丈夫ですか!? なんて心配してくれてたけど。故意に吐かせましたと言ってみたら、当然ながら出禁になった。
◆ ◆ ◆
「──ねぇもう、ほんと最悪」
「ごめんて」
いくら温厚でおっとりとしたユキといえども、午前のおやつでもとカフェに入ったらむしろ胃が軽くなった、なんて経験をして笑顔でいられるわけもなく。店から追い出されてしばらく、怒りを露わに先行く彼女を、私は宥めながら追う。
「美味しそうだったのに……」
口も濯いで、手渡したミントガムを噛みながらも、私がかわりに食べたフレンチトーストのことは忘れられないらしい。振り返ることもない彼女の、ブラウンの毛先が揺れる。肩口にかかるボブカット。私の好きな髪型。
「ほんとにごめんって。気を取り直してさ、服でも見に行こ? 夏ものもう一着欲しいって言ってたよね?お詫びに私が出すから。ね?ね?」
楚々としたワンピースの裾に手を伸ばせば、どこまでも優しく甘いユキは、なんだかんだ拒むことなく歩を緩めてくれる。そんなんだから私みたいなのに付け込まれるんだよ。
「…………ほんとに反省してる?」
「してるしてる。ほんとに。ガチで。ごめんなさい」
「……今日ぜんぶ、ツムギちゃんの奢りだからね」
「勿論」
そんな約束でもって隣を歩くことを許され、大通りからは少しだけ離れた細道を進む。日差しはぼちぼち、人通りはそこそこ。もう少し歩けば、小さいけれども中々良い品揃えのブティックが見えてくるはずだ。ここは私が事前にチェックしてた場所。元カノは関係ありませーん。
「で、どんなの探してるの?」
「……実は、最近ウェストが……」
「お?」
「……細くなってきててっ。サイズの合うスキニーとか欲しいなぁって」
両腰に手を当ててちょっと嬉しそうにしているユキに、私と付き合ってるせいかもねぇ、とはさすがに言えなかった。そこまで無敵ではない。かわりに口をついて出たのは、安直なおだて文句。
「よ、くびれ美人」
「ツムギちゃんに言われても嫌味にしか聞こえませーん」
「そんなぁ」
たしかに私は細いけれども。我ながら、引き締まってると言っても差し支えはないと思う。
横から見上げてくるユキの目は恨めしげなそれに変わっていて、それでも目尻は柔和に垂れ下がったままだから、結局ただただ可愛らしいだけだった。
◆ ◆ ◆
「──ツムギちゃんってさ、処女厨っぽいよね」
デートの締めといえばセックスだろ。
というわけで日中は健全な逢瀬を楽しんで、日が落ちたらラブホにインして。何回戦か楽しんだあとのピロートーク(もしかしたらただの途中休憩かもしれない)の最中に、ユキはまっぱのまま、突然そんなことを言ってきた。
「……それはユキのほうじゃない?」
「まあわたしも、その傾向はあるかもだけど」
元カノの話するたびに吐くのを“傾向”程度と言って良いものなのだろうか。なんていう私のからかいを、ユキはくすりと笑って受け流して。そのまま続く言葉で、さくっとこちらを刺してきた。
「ツムギちゃん、元カノさんとのことが、記憶に残ってるのが嫌なんでしょ」
「……」
なんてこったい、ばれてら。
昼間の──いや、今までの私の悪行が、唐突に盛大に掘り返される。
「だから、思い出の場所にわたしを連れて行って、ゲロ吐かせて、全部台無しにしようとしてる。記憶を上塗りしようとしてる。でしょ?」
小首をかしげて問うわりに、声音に迷いはない。間違いなくそうだって確信しているみたいで、事実その通りなのだから、どうやら私はユキの洞察力を見誤っていたようだ。
──元カノへの未練もすっかりなくなった頃合いにユキと出会って、好きになって、好きになってもらえて、交際が始まって。そしたら私は、自分自身に元カノがいたという事実を酷く不愉快に感じるようになった。
ユキにとって私は初めての恋人で、なにをしたってウブに微笑んでくれるのに、対する私の脳内には、想いに依らないただの記憶として、べつの女の存在が残っている。
それがどうしても、不均衡に思えてならなかったのだ。
バランスが悪いし、気持ちが悪いし、据わりが悪い。
とはいえ過去をなかったことにはできないし、隠すのも性分に合わない。だから上塗りすることにした。確実に強烈に、ユキの存在でもって。
「……始めは、本当にたまたまでさ」
いつだかの宅飲み中にぽろりと元カノとの思い出を語ってしまって、そうしたらユキが吐いちゃって。悪いことしたなぁって思いつつ……けれども私の脳みそにはたしかに、そして強烈に、自室に漂う酸っぱ臭い匂いがおうちデートの記憶として植え付けられていた。
これだ、って思った。
「いや“これだ”じゃないよ」
「ごめんて」
いわく、人間の記憶がもっとも想起されるのは“匂い”らしい。小洒落たカフェのコーヒーの香りも、胃がむかっとするような酸っぱい臭気で上塗りしてしまえば。そう思って私は、わざとユキを元カノとのデートスポットに連れて行くようになった。今日であの場所は、“元カノと見つけたカフェ”から“ユキにゲロ吐かせて出禁になったカフェ”になった。そういうことを、今までのデートで幾度かしてきた。
「回りくどいし、気持ち悪いね」
「ぐうの音も出ません」
だらだらとした自分語りは、ユキにバッサリと切り捨てられる。こういう場面でもへらへらしてるところが嫌いって、元カノには言われていたような気もする……たぶん。もう記憶が定かじゃないのは、良い兆候だと思う。いま目の前にある、ユキの垂れ下がった目尻ばかりが脳裏に焼き付けられていくから。
「そりゃたしかに、昔の人なんて忘れたくなることはあるって聞くけど。だからって、コトあるごとに今カノにゲロ吐かせるのはどうかと思うよ?」
「ごめんて」
引っ叩かれても文句言えない状況ですら、誠意に欠ける謝罪しかできない。それを呆れ混じりの微笑みで受け止めてくれるのは、きっとユキくらいのものだろう。
「ツムギちゃん、あんまり恋愛とかしないほうが良いんじゃないかなぁ」
「かもねぇ」
「だから恋人は、わたしで最後になると良いね」
「…………だねぇ」
ユキも大概変な子だと思うけど、その変さ加減が私の駄目な部分と上手く噛み合っているような、そんな不思議な安心感がある。だから私は、たとえ腹の中が暴かれようとも変わらず、そして悪びれもせず彼女に言えるのだ。
「もうしばらくは、ユキのゲロにお世話になります」
「なにそれー。ほんと最悪」
唇を尖らせて笑うユキに思いっきり抱き付く。胸元に顔を押し付ければ、見下ろす柔らかい瞳と目が合って。同時に、ほんのり甘い中に汗の混じった香りを胸いっぱいに感じる。ふわふわと幸せな気持ちになりながら、ユキの言った通りになると良いなって、そう思った。