2話 蒼の覚醒
「夢、か。」
白夜はゆっくりと目を開けた。薄暗い岩の天井が目に映る。彼は洞窟の中にいた。頭をかきながら体を起こす。嫌な夢もあったもんだ。
彼は自分は少なくとも臆病者ではないという自信を持っていた。しかし、さっき見た夢には背筋が凍る思いがした。何が起きていたのかはわからなかったが、何か悪意を持つ者の意思が毒蛇のように鎌首をもたげようとしているのを感じた。
そんな中で夢の最後に頭に響いたた言葉だけがなぜか今も耳にこびりついている。
【黒刃と白刃の交わるとき、世界は再び厄災に呑まれる】
ただの夢とは思えなかった。ただの夢ならここまで鮮明に頭に残っているはずがない。
自慢できる話ではないが、彼は決して物覚えが良い方ではない。夜に見た夢など、覚えていたことなどほとんど無かった。しかし、彼にその夢がただの夢でないと確信させた理由は別にあった。
その声を、白夜は聞いたことがある気がした。それに、彼は自分の過去のことをはっきりとは思い出せないでいた。記憶障害というやつなのだろう。ひょっとしたら過去の自分と関わりのある誰かの声なのかもしれない。時々何かをふっと思い出しそうになることがある。しかし、それは捉えどころのない雲のように、触れようとすると消えてしまう。
白夜は考えをまとめようとして大きくあくびをした。そこでやっと気付く。
今目覚めたばかりなのに、視界がゆがみ出すほど眠い。おかしい。眠気と戦う彼の脳内から、不吉な夢の記憶が消えていった。白夜は立ち上がろうとしてよろけ、地面に倒れ込んだ。白夜はついに睡魔に負けた。
動かなくなった白夜の元に、黒い霧が静かに忍び寄ってきた。それはただの霧ではない。身も凍るほどに冷たく、闇の匂いがする。
ガリガリと岩を削るような音が少しずつ近づいてきた。
霧に紛れて、何かが這い寄ってきている。闇よりも暗く殺気をみなぎらせる、何か。
“それ”は白夜が眠っていることを確認すると、大きく口を広げた。無数に並んだ牙がてらてらと光り、目が怪しく光る。勝利を確信した“それ”は白夜に襲いかかった。
目を覚ますと、そこはとても広い、そよ風の心地よい草原だった。
普通であれば何一つ問題ないはずの目覚め。しかし、僕には一つだけ欠けているものがあった。
「僕は、誰だ?」
それは、眠りにつく前の記憶。自分の名前すらも思い出すことができない。ただ一つ、わかっていたのは、僕にはやるべきことがあるということだ。
【黒刃と白刃の交わるとき、世界は再び厄災に呑まれる】
頭の中で、その言葉がいつまでもこだましている。
ゆっくりと体を起こし、立ち上がる。腕、足と外傷がないか確認する。身体に異常は無いようだ。何が起きたのかという不安は大きかったが、好奇心には逆らえなかった。
何もわからないままに、辺りを探索してみることにした。
僕の目覚めた草原があったのは、切り立った大きな崖の上だった。霞のかかった遠くのほうには大きな山が連なり、崖の下には広い樹海が広がっている。ゲームでもこんな景色は見たことがない。この世界に、僕は何のために来たのだろう。
もしかすると、異世界転生というやつではないだろうか。僕がこの世界の主人公なのかもしれない。異世界転生系のお約束に近い目覚め。本当に主人公なら、そろそろ能力が目覚めるかもしれない。。
少し歩くと、なだらかな坂道が下まで続いていた。やはり主人公というものは、都合のいいものだ。奇妙な音のする砂利を踏みしめ、崩れかかった石の門のようなものをくぐる。
坂道を降りようとした瞬間、僕は胸騒ぎがして振り返った。心が、ズキンと痛む。一度も来たことがないはずなのに、僕はこの場所を、どこか知っている気がする。この場所に、また帰ってくる気がした。
嫌な予感を振り切るように、僕は坂を駆け下りた。
坂の下には、崖の上から見るよりもはるかに幻想的な景色が広がっていた。見たこともないような生き物や植物がたくさんある。
今のところ人工物は全く見当たらない。こんな状況で僕は生きていけるのだろうか。王道のパターンならもうそろそろ村か何かが見えてきてもいいはずだが・・・・・・。
この世界にいる人は、僕一人だけなのだろうか。一瞬だが、背筋を寒いものが走る。
しかし、そんな不安も歩いているだけで吹き飛んでしまった。それほどまでにこの世界は美しかった。空気は爽やかで、日差しも全く熱くない。僕は時間も忘れて彷徨った。
数日かけて彷徨ううちに、いくつかのことがわかった。まず一つ。僕はどれだけ動いても空腹を感じたり喉の渇きを感じることがない。その上、傷の治りがとてつもなく早い。かすり傷や切り傷はものの数秒で痕もなくなってしまう。1度うっかり崖から転がり落ち、腕を折ってしまって肝を冷やしたが、2時間もすると完治した。
そしてもう一つ。最初のうちは美しく見えた景色も、よく見れば邪悪な何かに蝕まれていること。ところどころで木の根は腐り、葉は枯れ落ちている。そして、そのような蝕まれたところでは邪悪な敵意を持った何かが木々の隙間や影に潜んでいた。
僕が先へと進むにつれて、そのモノたちの敵意は僕へと向き出した。僕は、珍しい獲物というわけだろう。というのも、この世界には大きな猫のような動物や、狼のような生物は時々見かけたが、なぜか小鳥などの小動物が一匹も見当たらないためだ。まるで、書き忘れられたかのように。
狩られる側の気持ちを初めて味わい、僕は合掌する。もう二度と草食動物を馬鹿にしたりしないと心に誓う。
初めのうちは僕も周りの景色を楽しみながら歩いていたが、次第に不安が増してきた。美しい世界であることは確かだが、この世界は何かがおかしい。濁り一つ無い清流も、満天の星空も、いつまででも眺めていたくなるような大樹海も確かにそこに存在するものだ。しかし、それらからは作り物のような冷たい空気を感じる。
現実にあるものと確かによく似ているが、生きているという感じがしない。日差しが全く熱くないこともさらに不安をあおる。そもそも、今この空にあるものが太陽なのかすら、わからないのだ。
そして、次第に強くなる敵意によって、少しずつだが確実に僕は焦り始めていた。いつ襲われるのか、と言う不安がしだいに膨らみ続ける。
一度は、目の端で影が動くと振り向いてみたりもした。しかし、その影は僕が振り向くと同時に音もなく木陰へと消えてしまう。
そうこうしているうちに、僕の歩いてきた道は終わりを迎えた。しかし、道が途切れたわけではない。風景は続いているのだがそこには透明な壁があり、それ以上先へと進むことができないのだ。その壁は不思議な性質をしていた。蹴っても殴ってもへこむだけで、すぐにまた元へと戻ってしまうのだ。しばらく壁と戦い続けたが、あちこち歩き回った疲れも相まって諦めた。
今日のところはここまでにして、またあとで来よう。今はほかの方面も探索しよう。
そう思い、振り返った。その時、目が合った。口をいっぱいに開いて今にも僕に襲いかかろうとしている怪物が、こちらを凝視していた。
そいつの見た目をわかりやすく例えるならば、顎が腐り落ちかけた人狼、だろうか。
しばしの間、僕とやつは睨み合ったまま、なんとも間抜けな時間を過ごした。すぐには襲われなかったところを見ると、奴もどうやら驚いていたらしい。
数秒の間の後、先に動いたのはやつの方だった。怒声を上げ、鋭いかぎ爪のついた右腕を僕に向かって振り下ろす。
僕はかろうじてそれを躱すと、数歩下がって距離をとった。奴の爪は、僕の腕を浅く切り裂いていった。だが、傷は瞬く間に再生する。見た目は気持ち悪いが、動きは大して速くもない。こんなやつなら、頑張れば僕一人でも倒せるかもしれない。
決意を固めた僕は、素早く辺りを見回した。ちょうどそこに落ちていた手頃な木の枝を目に留め、剣代わりに構えた。
しかし、そんな僕の希望は一瞬にして打ち砕かれた。茂みから、木陰から、さらにたくさんの怪物が湧き出てきたのだ。これはまずい。
一番体格の大きい怪物が雄叫びを上げると奴らは一斉に襲いかかってきた。
落ち込む自分を鼓舞し、棒を振るう。一番最初に現れた怪物の脳天に一撃叩き込み、素早く後ろを振り返る。ちょうど後ろから襲いかかってきていたやつのかぎ爪をはじき、腹に突きを入れる。さらに追撃を喰らわせようと棒を振りかぶる。
その時、腹部がかっと熱くなった。あまりの痛みに思わず脇を押さえ、横に転がる。
ふっと視界が陰る。ひときわ体格の大きい怪物が背負っていた剣を振りかぶり、僕を叩き斬ろうとしていた。なんとか棒で横に受け流す。パキッと言う乾いた音があたりに響いた。
それは、棒の砕ける音だった。武器を失った僕は何発も攻撃を食らった。体の各部位に激痛が走る。どうやら、痛みを無効にしてくれるほどこの体は都合よくはないらしい。
こういう世界では主人公は痛覚無効系の能力をゲットするものなのに。ひときわ強い攻撃を食らい、僕は木を何本も倒しながら吹き飛んだ。
かすんだ視界に写るのは、星空と梢だけ。僕の意識は、だんだんと薄れていこうとしていた。その時、僕は一つの違和感に気づいた。先ほど見えない壁に阻まれていけなかったはずのところに、僕はいる。もしかしたら、奴らは入ってこられないかもしれない。
全身の力を振り絞り、立ち上がる。僕の期待も虚しく、奴らの声が聞こえてきた。あの壁はどうやら奴らにとってはないに等しいらしい。
僕はなぜこんなことに巻き込まれているのだろうか。記憶も無く、持っている物も何もない。
どうすればいい?なにをすればいい?
戸惑いは次第に恐怖へと変わっていく。手足が恐怖に呑まれ、ゆっくりとしびれていく。
いっそのこと気を失ってしまいたいが、傷口の生々しい痛みがそれをさせない。
一瞬、これだけの再生能力があるなら大丈夫だという考えに狩られたが、頭を振って否定する。あの数に一斉に襲われるのだ。到底間に合うわけがない。
死への恐怖が体の芯まで染み渡る。もう全てを手放してしまいたい。しかし、そんな思いとは相対する声が強く響く。
僕はこのまま死ぬのか?何もわからないままで。嫌だ。そんなのは絶対に。
怪物たちの勝ち誇った声で僕は我に返った。立ったまま気を失っていたようだ。
奴らはすぐそこまで来ている。もう時間が無い。僕に力さえあれば。
そうだ。力がほしい。奴らを倒す、刃が!
その時、闇の中で閉じられていた目が開いた。強大な力を秘めた蒼い瞳が彼に向いた。運命の歯車が音を立てて廻り出す。それが彼に与えた加護は、膨大な力となった。
突如として痛みが消え去った。体中に力がみなぎり、頭の中に言葉が浮かんでくる。無意識に右手を伸ばし、それを唱える。
「この地を行き交う水よ、我の前に立つ者を切り裂く刃となれ。【断海の剣】」
唱え終わると同時に、すさまじい風が吹き出した。その風は右手へと集まり、やがて何かを形作り始めた。風が吹き止むと、僕の手には淡い光を放つ蒼く美しい剣があった。僕の思考は、だんだんと澄んだ水のように穏やかになっていった。目の前に迫っている怪物を見ると、また言葉が浮かんできた。
「暗黒の大海よ、全てを呑み干せ。【羅舞渦】」
今度は体の記憶がよみがえった。ただ記憶に従って淡く輝く剣を左肩にかつぐと、怪物たちの方に走り出す。奴らは驚いたように硬直している。手首を返し、空を切る。
澄んだ音を立てて剣から無数の水の刃が放たれる。それが敵のうちの一体にふれると、その瞬間そいつは音もなく真っ二つに引き裂かれた。
一拍遅れて他の奴らも動き出す。しかし、どうしたことか奴らの動きはとてつもなく遅く、引き延ばされて見えた。隙だらけの胴体に、容赦なく一撃をたたき込む。
疲れなんていうものは感じなかった。ただひたすらに記憶に従い、体を動かし続けた。やがて、あたりから怪物の断末魔が消えると、それを合図に僕は動きを止めた。
気付くと、怪物たちは全員細切れになって絶命していた。
体から一気に力が抜けた。とても立っていられない。僕はその場にへたり込んだ。自分がこれだけの力を持っていたことが未だに信じられない。
蒼い視線を感じる。周りを見渡すが、視線の主はいない。しかし、その主がとてつもない力を持っていることは感じた。そして、その主が僕に力を与えてくれたことも。
突如として、空気を切り裂く甲高い音が聞こえてきた。それはだんだんと近づき、僕の後ろへと迫る。
振り向く猶予もなく次の瞬間、辺りが紅色に染まった。そして、轟音とともに大地が揺れ、周辺の木が燃え始める。恐ろしい殺気を感じて振り向くと、圧倒的な力を持つ何者かが煙の中から僕を睨んでいた。