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第9話「嘘を愛した男」

 ──奥さんは来られないと言った。でも「必ず来るよ」と伝えた。

 ──声が出なくなっても、きっと伝わっていると、信じてる。


 黒いノートには、そんな言葉ばかりが並んでいた。

 小野寺律おのでら りつがホスピス職員だった頃、

 誰にも明かさずに書き続けてきた、“やさしい嘘”の記録だ。


 嘘だと知りながら語る言葉に、ほんのひとときでも心が安らげば。


 それだけを支えにして、律は毎日、言葉を選んできた。


 ──だけどそれは、相手のためじゃなく、自分のためだったのかもしれない。


 そんな思いが、退職から三年経った今も、心に澱のように残っていた。


 今、彼の手元にはノートだけがある。

 そして、誰にも語れなかった言葉たちだけが――


 *


 けれど今、律はそれらを“許されないこと”だと感じていた。


 ホスピスを辞めて三年。

 静かな住宅街の隅、狭いアパートでひとり暮らしを続けていた。


 誰とも連絡を取らず、誰にも訪ねられない日々。

 気がつけば、黒いノートに新たな言葉を書くこともなくなっていた。


「人のために、って……言い訳だったんじゃないか。

 俺は、本音を……一度でも伝えられたか?」


 独り言のように呟いても、答える者はいない。


 律には、かつて愛した人がいた。

 若い頃、まだ現場に出たばかりの夏。ほんのひと時、共に過ごした相手。


 その人だけには、嘘をつきたくなかった。

 けれど、結局最後まで、自分の本心を伝えられなかった。


 相手の未来を思って別れた──そう言えば聞こえはいい。

 でも、それもまた、都合のいい“優しさ”だったのではないか。


 棚の奥には、送りそびれた手紙が一通だけ残っていた。

 便箋の端には、書きかけの文字が滲んでいる。


 ──本当は、きみのそばにいたかった。


 それだけが、どうしても書ききれなかった。


 言葉を尽くして人に寄り添ってきたはずなのに。

 肝心な相手にさえ、最後まで本当のことを伝えられなかった。


 “言葉は、届かない”。


 そう信じていた。


 だからこそ、誰かの支えになるためだけに、

 律は、自分の感情を殺してでも、言葉を選び続けたのだ。


(……でも、俺の言葉に――ほんとうの意味なんて、あったのか?)


 ノートを開いたまま、律は目を閉じた。

 そして、その夜――


 不思議な夢を見た。


 懐かしい声がした。

 優しくて、少し笑っている声。

 そして、風の中に“あの日、言えなかった言葉”が揺れていた。


 *


 夜明け前。

 ふと目が覚めた律は、胸の奥に奇妙な焦燥を抱えていた。


 どこかへ行かなくてはならない。

 そんな感覚に突き動かされるように、外へ出た。


 まだ街は眠っていた。

 鳥の声もなく、空の色も深いまま。


 律は、ゆっくりと歩き出した。

 どこへ向かっているのかは分からなかった。

 けれど、足はためらいなく前へ進んでいた。


 冷えた空気が肌を撫でる。

 街灯の明かりはどこか遠く、周囲の景色が少しずつ影に溶けていく。


 小さな公園を抜け、落ち葉の積もる坂道を下る。

 昔通った通学路を辿るように、角をひとつ曲がると――


 道の先に、見覚えのない古びた鳥居が立っていた。


 錆びた木肌、ひび割れた礎石。

 けれど不思議と朽ちた印象はなく、むしろどこか“立ち入りがたい整然さ”を保っている。


(こんなところに、あっただろうか……)


 見慣れたはずの住宅街のはずれ。

 だが、その鳥居だけが、風景の中で異質だった。


 歩みを止める前に、風が吹いた。


 さらり、と何かが剥がれるような音。

 空気の層がずれる感覚。


 その瞬間、律は気づいた。

 世界が、ほんのわずかに“静かになった”ことに。


 音が遠のき、視界の輪郭がわずかに滲む。

 足元の感覚もどこか曖昧になる。


 まるで、夢と現の境目を、知らずに越えてしまったかのようだった。


 鳥居をくぐる。

 その奥には、白い社が静かに佇んでいた。


 周囲に木々はなく、どこまでも静まり返っている。

 けれど、ただの無音ではなかった。


 音の代わりに、淡く光るものが空気中を漂っている気がした。


 古びているはずなのに、まるで新しい。

 神聖なのに、どこか人の温度を帯びている。


 その社の前に──


 一人の青年が立っていた。


 黒髪で、すらりとした背格好。

 柔らかな輪郭をした顔立ちに、落ち着いた気配を纏っている。


 優しげな印象。けれど、どこか現実から遊離したような儚さがあった。


「……あなたは」


 律は、思わず声にしていた。


 目を細める。

 まぶしさではない。確認するように、記憶をたぐるように。


 その顔は、“あの人”に似ていた。


 二十年前の夏。

 若すぎて、何もかもが手探りだった季節。


 ほんのひとときだけ心を通わせ、

 けれど結局、自分から手放してしまった相手。


 だが、完全に同じではなかった。

 声色が違う。瞳の光も、微笑の角度も。


 けれどなぜか、記憶の奥底を刺すように懐かしい。


「……夢、か?」


 律は、小さく呟いた。


 青年は答えなかった。

 ただ、ゆっくりと歩み寄ってくる。


 音もなく、靴音すら聞こえない。


「いらっしゃい、小野寺律さん」


 柔らかな声だった。

 それなのに、どこか心の奥を直接撫でられるような響きがあった。


「あなたの“言葉”は、多くの人を支えました。

 ですが今、あなたはそれを“嘘だった”と悔いていますね」


「……誰だ、お前」


 律は、一歩引いた。


 淡く光る社の空気に飲まれそうになるのを、

 無意識に拒もうとしていた。


「何だよ、それは。俺のことを知ってるふうに話すな」


 声に棘が混じる。


 青年──いや、主は、驚く様子もなく微笑を保っていた。

 その態度が、逆に律の苛立ちを刺激する。


「……ふざけてるのか? こんなの、夢でも冗談でも済まない」


「これは冗談ではありません。

 けれど夢かどうかを決めるのも、あなたではありません」


 そう言った主の声音は、さっきよりもほんの少し低く、

 落ち着いているのに、否応なく律を包み込んでくるものだった。


「あなたが記してきた“嘘の記録”と、

 それに救われた者たちの記憶。

 それらが今、均衡を測られようとしています」


「……何を、言って……」


 社の中央に、白い杯が浮かび上がる。


 その瞬間、律の思考が止まった。

 理屈が追いつかない。


 だが直感は、確かに告げていた。


 この杯が、自分の“これまで”に対する答えを持っている。


 そう、なぜか分かってしまった。

 律は、思わず息を呑み、すぐには頷けなかった。


「……俺は、本音を、一度も言えなかった。

 あの人にも、患者にも、自分にさえ」


 言葉にした瞬間、胸の奥にひりつくような痛みが走った。

 それでも、ようやく律は小さく頷いた。


 青年──いや、“主”は、静かに応じる。


「けれど、嘘は必ずしも罪ではありません」


 その言葉に、律は目を伏せた。

 慰めのようでいて、突き放されるようにも感じた。


「あなたの言葉に救われた人がいるなら、

 それは、“贈り物”として扱われることもあるのです」


「……じゃあ、俺が吐いた言葉が、“本当だった”ってことになるのか?」


 律の声には、わずかな苛立ちと、期待と、戸惑いが混じっていた。


 主は、少しだけ首を傾げた。

 その仕草には答えよりも、問い返すような余韻があった。


「真実かどうかを決めるのは、あなたではありません。

 差し出された“嘘の記録”と、それに救われた“記憶”。

 それらの重さを、杯が静かに測るだけです」


 律が顔を上げたとき、社の中央に白い杯が浮かび上がっていた。


 ひとつ、呼吸が止まる。


 白磁の杯は、どこにも接していないのに、微動だにせず漂っていた。

 その中には、まだ何も注がれていなかった。


「……これが、“答え”を測る器だっていうのか」


 誰に聞かせるでもなく呟いた律に、主はただ、静かに頷く。


 まるで“ここから先は、あなたの意志次第です”とでも言うように。


 律は、杯を見つめながら小さく息をついた。

 理屈ではなかった。


 なぜか、わかってしまった。


 自分が綴ってきた言葉──あの黒いノートに詰め込まれたすべてを、

 この杯に“委ねる”ことが、選ぶべき道だということを。


 白い杯は、まるで律の手を待っているかのように、静かに佇んでいた。


 不思議と、恐れはなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、名残惜しさがあった。


 律はゆっくりとポケットに手を入れた。

 指先が革の感触をとらえる。


 黒いノート。

 ずっと手放せなかったもの。


 表紙はわずかに傷み、角が丸くなっていた。

 どれほどの夜を、これと一緒に過ごしてきただろう。


 律はそっと表紙を撫でた。

 それは懺悔のようであり、別れのようでもあった。


 ページを開けば、懐かしい言葉たちが並んでいた。


 ──今日も眠れなかったらしい。けれど「大丈夫」と言ってくれた。

 ──息子は来られない。代わりに、「誇りに思ってるよ」と伝えた。

 ──『大丈夫です、きっと朝が来ます』。それが、嘘じゃないと信じたくて。


 嘘で繋がれたやり取り。

 けれど、誰かの気持ちを守ろうとして重ねた言葉たち。


 律は唇を震わせながら、ノートを見つめた。


「……どこまでが、俺の勝手だったんだろうな」


 かすれた声が漏れる。


「自分が苦しくて、罪悪感をなだめたくて……

 優しいフリをしてただけかもしれない」


 指先が微かに震える。


「“あなたのため”って言いながら……

 ほんとは、俺が、救われたかっただけなんじゃないか……?」


 ふっと、笑いがこぼれた。情けないほど小さな笑いだった。


「でも、それでも……

 あの人たちの苦しみが、少しでも和らいだって思いたかったんだ」


「これは、俺が……“届いてほしい”と願って書き続けたものだ」


 本心じゃなかった言葉もある。

 言いたくても言えなかった言葉もある。

 けれど、それでも必死だった。


「あの人たちに、伝わったと……信じたかった」


「どうか……その重さを、測ってくれ」


 そう言って、律はノートを静かに掲げた。


 白い杯が、微かに光を放つ。

 空気が澄む。音が遠ざかる。


 ノートのページが、一枚一枚めくれていく。

 誰の手も触れていないのに、風が吹いたように。


 やがて、文字たちが浮かび上がった。


 黒インクのひと文字ずつが剥がれ、

 細かな光の粒となって宙に舞う。


 それは、まるで小さな記憶の断片。

 声なき想い。届かなかった気持ち。


 光はひとつ、またひとつと杯の中へ降りていった。


 光の雨。


 嘘が願いとなり、願いが光となって昇っていく。


 その美しさに、律はただ見とれていた。


 けれどその直後、胸の奥に、重い感覚が沈み込む。


 ゆっくりと、静かに。


 病室で手を握ってくれた人の顔が、

 最後に微笑んでくれた相手の声が、

 一つ、また一つと霞んでいく。


 まるで、最初から存在しなかったように。


 消えていくのは、記憶ではなく、

 そのときに確かに揺れたはずの“気持ち”だった。


 そして、すべてが消えたあと──


 ひとつだけ、残っていた。


 書きかけの手紙。


 ──本当は、きみのそばにいたかった。


 その一行だけが、かすかに胸に残っていた。


「契約、成立です」


 主の声が、ゆっくりと空間を満たした。


 白い杯の中には、もう何も残っていない。


 律は、胸の奥にひとつの“静けさ”を抱えていた。

 それは痛みでも、悲しみでもない。


 まるで、波がすっと引いたあとの浜のように。


 すべてが静まり返り、音も色も──世界の輪郭さえ、消えていった。


 ほんの一瞬。あるいは永遠とも思える、無のような感覚。


 そこに、律はただ立ち尽くしていた。


 意識は、どこにも属していなかった。

 名前も、時間も、自分すらも、遠くなっていく。


 けれど、確かに“何か”を手放したことだけはわかっていた。


 そして──ふ、と意識が浮上する。


 光がまぶたを照らし、現実の温度が肌に触れる。


 *


 その朝、律は目を覚ました。


 天井を見上げながら、どこか静かな違和感を覚えていた。


 昨日と同じ部屋。

 変わらない布団。

 外の風の音すら、いつもと変わらない。


 けれど――どこか、静かすぎた。


 まるで、長い間騒がしかった部屋に、突然誰もいなくなったような。

 空間は変わらないのに、空気だけが違っていた。


 記憶ではない。

 感情だった。


 誰かに言葉を届けようとしたとき、

 心に滲んでいたはずの痛みや、

 言えなかった後悔が、

 まるで洗い流されたように消えていた。


 不思議なことに、それは“喪失”ではなかった。


 もっと穏やかなもの――


 長く背負ってきたものが静かにほどけて、

 風に運ばれていったあとのような、軽さだった。


 あれほど自分を縛っていた罪悪感も、

 それに背を預けていたような矛盾した誇りも。


 今はもう、どこにも見当たらなかった。


 黒いノートはもうない。

 本棚にも、机にも、それらしい影は見当たらなかった。


 けれど、律は探そうとしなかった。

 ただ、静かに日常を始めた。


 食事を作り、コーヒーを淹れ、ニュースを流す。

 ただそれだけの朝が、妙に清らかだった。


 人を思い出そうとしても、輪郭が曖昧になる。

 その人の顔も、声も、言葉も思い出せない。


 だが、それが苦ではなかった。


 むしろその曖昧さが、律を少しだけ楽にしていた。


 残っていたのは、ほんの微かな温もりのようなもの。

 それが、遠くから風に乗って届いたような気がした。


 *


 昼過ぎ。

 郵便受けに、一通の封筒が届いていた。


 差出人には「三崎 遥」の文字。見覚えのない名前だった。


 宛名には、律のフルネームが丁寧に書かれている。


 封を切る指先が、わずかに震えた。


 中には、便箋が一枚。

 そこには、こんな手書きの文字が綴られていた。


 ─────


 小野寺様


 はじめまして。


 私は、三崎洋一という者の娘です。


 父は数年前に病院で亡くなりました。

 声も出せず、目もほとんど見えていない状態でしたが、

 最後の日、ほんの少しだけ笑ったのです。


 病室で父の手を握っていた方が、

 何を語りかけてくださったのかは、今も知りません。


 けれど、あのときの父の表情は、

 私たち家族にとって“救い”でした。


 おそらく、その方はあなたです。


 父は言葉を交わすことができなかったぶん、

 たった一つの表情で、すべてを返してくれたのだと思います。


 お礼を言いたくて、でもずっと何もできずにいました。


 この手紙が、あなたの元に届くことを願っています。


 本当に、ありがとうございました。


 三崎 遥


 ─────


 読み終えた律は、静かに息を吐いた。


 涙は出なかった。


 けれど、胸の奥に、確かに何かが灯っていた。


 自分の言葉が、嘘だったとしても。


 それでも、誰かの心に届いていたのなら――


 それはもう、“贈り物”だったのかもしれない。


 *


 社の奥。

 灯りの差し込まぬ白木の書架に、ひときわ異質な帳面がそっと納められた。


 黒革装の記録帳──だったもの。

 今では表紙の色をすっかり失い、文字ひとつない“白紙の帳”へと変わっていた。


 ページを繰っても、もはや記録は残されていない。

 言葉も音もなく、ただそこに“在る”。


 けれどその沈黙の中には、確かに誰かの祈りに似た“想い”が宿っていた。


 主は帳を手に取り、目を細めながらそっと指先を触れた。


 記録 一千三百九話 『嘘を愛した男』

 ・願い:「自分が吐いた嘘に意味があったか知りたい」

 ・対価:「他者を救った嘘と言葉の記憶」

 ・記録媒体:黒革装の記録帳(白化)

 ・状態:契約完了


「嘘とは、時に真実よりも強く人を支える。

 だが──それを差し出す者は、誰よりも孤独になる」


 主は、帳を棚に戻す。

 灯りなき空間の中、白紙の帳がわずかに光を返した。


 まるでそこに、かつて“確かにあったもの”の重みを告げるように。


「孤独は、祈る者に課せられた代償。

 その報いはないかもしれない。

 ──だが、差し出した嘘が誰かを救ったのなら、

 それは贈り物と呼ばれても、きっと間違いではない」


 主の背後で、棚が静かに息をひそめる。


 一言も持たぬその帳面が、

 誰かの真実になった日の光を、確かに映していた。

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