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第8話「忘却の標本」

 部屋の窓辺に、小さな棚がある。

 その棚には、いつも決まったものが並んでいた。


 一冊のノート。

 押し葉が静かに綴じられた、厚手の記録帳。

 花のスケッチが描かれた表紙は、何度も触れられたことで角がやわらかく丸みを帯びている。


 それは、綾野結人あやのゆいとにとって、世界の輪郭そのものだった。


 ノートの中にあるその花々は、すべて彼の記憶にある“ある人”と摘んだものだった。


 今はもう、その人の影はどこにもない。


 花を見ても、香りを吸い込んでも、そこにいたはずのぬくもりには届かない。

 呼びかけても、声はどこにも返ってこなかった。


 名前を思い出そうとするたび、喉の奥が締めつけられ、息が詰まりそうになる。

 声に出そうとすれば、激しい痛みが胸を貫いた。


 忘れてしまいそうになるたび、手の震えが止まらなくなった。

 残しておきたい記憶が、砂のように指の隙間からこぼれていく。


「……忘れるもんか」


 にじむ視界の中で、彼はノートを閉じた。


 生活の中で、この数分だけが例外だった。

 食べて、歩いて、返事をして、予定をこなして――何も感じないまま過ぎていく一日。

 けれど、このページを開くときだけ、心が生きていると感じる。


 あの言葉が、まだここにある。

 それをなぞるだけで、崩れかけた一日を踏みとどまらせてくれる。


 他のすべてが崩れても、ここだけは、まだ大丈夫だと思える。

 けれど、その記憶の色が濃くなるほどに、他の景色はぼやけていった。


 過去が削られ、日常が削られ、自分という輪郭が、ゆっくりと失われていく。


(それでも……あの言葉さえ残るなら、それでいい)


 家族の誕生日。友人の笑い声。見慣れた街角。

 何もかもが、あの人の姿を浮かび上がらせるための背景に変わっていく。


 それでもいい――それを選び取ったのは、他ならぬ自分だった。


 *


 民俗学研究室の一角。学生たちの出入りも疎らな夕方。


 綾野は静かな資料室にこもり、記録物の整理をしていた。

 紙の香り、木の匂い、少しだけ埃の混じった空気。

 落ち着くはずの場所なのに、ふと手が止まる。


 ──今、何をしていた?


 資料の分類? いや、標本の整理だったか?

 そもそも……なぜ自分は、ここにいる?


 思考の糸が、細く、ゆっくりとほどけていく。


 記憶が曖昧になってきている。

 それは年齢のせいでも、疲労のせいでもない。

 明らかに、自分で“削っている”という感覚があった。


 なにかを――いや、“誰か”を思い出しそうになるたび、

 意識が無理やり逸らされるような違和感。


 (あの記憶だけが、あの言葉だけが、残ればいい)


 最期の日、彼女は笑っていた。

 それを見ていられなくて、彼は言った。


 “もう、いいよ。どうせ俺のことなんて、いずれ忘れるくせに”


 なじるように。試すように。

 本心じゃなかった。言いたかったのはそんなことじゃなかった。

 でも、彼女はそれに何も返さず、静かに立ち去った。


 ──そして、そのまま事故に遭った。


 帰ってこなかった。

 あれが、人生で最後に交わした言葉だった。


 (忘れられることが、怖かった)

 (でも、本当に怖いのは――この言葉が、最後になったことだった)


 だからこそ、忘れられない。

 他のすべてがどうでもよくなっても、この言葉だけは……。


 今日もまた、彼は“それ以外の記憶”を意識的に遠ざけながら、ノートを開く。


 だがその夜――

 夢に現れたのは、いつもと違う風景だった。


 古い石段。濡れた木の香り。風の音がしない、不思議な静寂。


 その先にあるのは、記録にも、論文にも残っていない、白い社だった。


 目覚めたとき、結人は微かな違和感を覚えていた。


 夢を見た。

 それ自体は、何も特別じゃない。

 けれど今回は、妙に“鮮明”だった。


 濡れた石段の感触。風の音が吸い込まれるような静寂。

 そして、木々の間から覗く白い社。


 あまりに確かすぎて、夢と呼ぶには淡さが足りなかった。


 (……あの階段、どこかで)


 ふと、大学構内の旧資料館を思い出す。

 立ち入り禁止になって久しい古い建物。その裏に、確か……崩れかけた石段があった。


 胸の奥が、何かに引かれるように疼いた。

 夢で見たその先に、自分が“ずっと手に入れたがっていたもの”があるような気がしてならなかった。


 結人は、午後の講義を休講にすると、足早にその場所へ向かった。


 *


 旧資料館の裏手。かつて学生が抜け道に使っていた林道の先に、それはあった。


 思ったよりも短い石段。だが苔むしたその表面は、夢で見たものと寸分違わない。


 結人は、手すりのない階段を、ゆっくりと登っていく。


 一段、また一段――

 登るごとに、風が止まり、空気が変わっていく。

 虫の音が遠ざかり、視界の端に、かすかな揺らぎが生まれた。


 (――ここは、本当に現実か?)


 そう思った矢先、石段の上に、それはあった。


 白く、静謐せいひつで、どこか境界を思わせる社。

 まるで世界から切り離されたように、音も影も持たず、ただそこに存在していた。


 その前に、誰かが立っていた。


 若い青年だった。

 白に近い薄灰の衣。風に揺れる髪。どこか中性的な輪郭――

 それは、記憶の中の“彼女”を思わせた。


 髪の色、首の傾け方、眼差しに浮かぶ静けさ。

 ……似ていた。確かに。けれど。


 決定的に、違う。


 彼女のまなざしには、いつも“痛み”があった。

 何かを恐れ、何かを守ろうとする、壊れそうな強さがあった。


 だがこの青年の目には、それがない。

 悲しみも、怒りも、迷いもない。すべてを見通すような静けさだけが、そこにあった。


 まるで、あらゆる感情を通り過ぎてなお、“ここに立っていることだけが意味”だと言わんばかりに。


 (違う……けれど、似ている……)


 結人の胸に、言いようのない緊張が走る。


 目の前の存在は、人間ではない――そう直感できた。

 けれどその姿に、自分が失ったものの気配が確かに宿っていた。


「ようこそ、綾野結人さん」


 青年はそう言って微笑んだ。

 その声は、肌に触れる風のように柔らかく、耳の奥に染み入るようだった。


「あなたの願いは、ひとつの記憶を永遠に留めること。

 代わりに、それ以外すべてを風化させることになります」


 その言葉が落ちた瞬間、結人の心がわずかに震えた。


 誰にも言ったことのない願いだった。

 言葉にすれば狂気と断じられると、自分でもわかっていた。

 それでも、どうしようもなかった。

 他のすべてが消えても、あの最後の言葉だけは……。


 胸の奥に、記憶の棘が刺さったまま残っている。

 愛していると、言えなかったあの夜。

 見捨てるような声で、拒絶してしまったあの言葉。


「……どうしても、失いたくないんだ」


 声はかすれていた。喉が熱を帯びる。

 まるで、自分がどこまで傷ついていたのかを、その瞬間にはじめて知ったようだった。


 主――白い青年は、静かに頷いた。


「それがあなたの核なのでしょう」


 結人は、はっと息を飲んだ。


 “核”という言葉が、思いのほか重く胸にのしかかる。


 たったひとつの記憶のために、自分がどれほど多くを手放してきたか。

 何度も人の声を聞き流し、目の前の景色を無視し、生活の細部をあえて記憶に残さないようにしてきた。

 過去が薄れ、名前を忘れ、昨日の出来事さえ霞んでいく――

 それでも、あの言葉だけは今もなお鮮明に響いている。


(忘れたくなかったんだ。どれだけ醜くて、後悔していても……)


 それは呪いのようでもあり、生きている証のようでもあった。


 彼は目を伏せ、指先に力を込めた。


「……なら、それでいい。

 あれだけが……俺にとって、世界のすべてだった」


 主は、短く呼吸を整えるように目を伏せると、白磁のような手を差し出した。


「では、その記憶を杯に注いでください。

 あなたの過去すべてを代価として、ひとつだけを記録しましょう」


 白く透きとおる杯が、空中にふわりと現れる。

 光の粒が宙にほどけ、そこに淡く滲むような形で現れたそれは、ただの器ではなかった。


 眺めているだけで、呼吸が浅くなる。

 掌に抱えきれないほどの重みを、確かに宿していた。


 言葉はいらなかった。

 結人は知っていた。

 ここに、何かを注いだら――もう戻れないのだと。


 主は静かに言った。


「あなたが守りたい記憶――“最後に交わした言葉”を、ここに注いでください。

 その代わりに、それ以前も、それ以後も、あなたの記憶は杯に吸われます」


 結人は頷いた。


 迷いはなかった。

 この数年間、彼はずっとその記憶だけに縋って生きてきたのだから。


 ゆっくりと手を伸ばし、懐から標本帳を取り出す。


 ページをめくる。

 最後の一枚。そこには、褪せかけたスミレの押し葉と、たった一言だけ。


 ──どうせ、いずれ忘れるくせに。


 自分が言った最後の言葉。

 恋人が返す前に失われた、未完の会話。


 そのページを指先でなぞると、淡く白い光が立ち上る。

 光は言葉の輪郭をなぞり、杯の中へと流れ込んでいく。


 すると次の瞬間――


 胸の内にあった“他のすべて”が、ふっと剥がれ落ちていった。


 両親の顔。

 学生時代の記憶。

 師に叱られた日のこと。

 恋人と過ごした最初の春、初めて手をつないだ帰り道のこと。


 すべてが、音もなく、霧のように消えていく。


 それでも――


 (あの言葉だけは、まだここにある)


 剥がれ落ちた記憶の跡には、何も残らなかった。

 けれど、その“何もない”という感覚こそが、彼にとって救いだった。


 この痛みが、自分を赦さないための証になるなら――それでいい。


 後悔も、願いも、悔しさも、もう何もいらない。

 あの言葉さえここに留まるなら、自分の存在すら代価で構わなかった。


 結人は、静かに目を閉じた。


 胸の奥に残った痛みは、もはや罰ではなかった。

 それは、生きた証だった。


 主は、杯に残された言葉をじっと見つめた後、ゆっくりと口を開いた。


「契約、成立です」


 杯の底に残った記憶は、ひとつだけ。


 それは、重く、痛く、そして確かだった。


「あなたが望んだ通り、最期の言葉はここに記録されました。

 これからあなたは、自らの名も、経歴も、日々の輪郭さえも忘れていきます。

 けれどこの言葉だけは、決して色褪せることはありません」


 彼の声には、わずかに、敬意にも似た静けさがにじんでいた。


「……あなたの願いは、確かに届きました。

 これは、誰にも踏み込めぬ、あなたの選択です」


 結人は、少しの間、杯を見つめていた。

 まるで自分の命の断片が、そこに凝縮されているかのように。


 そして、小さく、息を吐いた。


「……ありがとう」


 その声には、感情の代わりに、長い旅路の終わりを受け入れた者の静けさがあった。


 結人は、小さく、息を吐いた。

 そしてその瞬間、視界がゆっくりと滲み、足元の感覚がふわりと浮く。


 身体が、意識が、何か柔らかな膜を通り抜けていくようだった。

 音のない風が吹き抜け、目の前の光景が徐々に薄れていく。


 白い社は遠ざかり、石段の感触も消えていく。

 代わりに、アスファルトの匂い、春の陽射し、遠くのざわめきが少しずつ輪郭を取り戻していく。


 気づけば、自分は構内の裏手に立っていた。

 かすかな風が頬を撫でる。


 (……ここは)


 名も知らない木々が揺れ、春の光が新緑に透けている。

 けれどその美しさに、どこか懐かしさを覚えている自分がいる。

 春の風が、大学構内の小道を抜けていく。

 新学期のざわめきのなか、結人はゆっくりと歩いていた。


 何もかもが、見知らぬ景色のように新しく、けれど風だけが懐かしさを運んでいた。

 けれど彼は、それが「なぜ」そう感じるのかを知らなかった。


 講義の名前、通りすがりの知人の顔、自分の研究分野――

 すべては記号のように浮かび、すぐに霧散していく。


 けれど、不思議と不安はなかった。


 空白のなかにある「何か」は、まだ彼の内に灯りのように残っていたからだ。


 *


 帰宅後の部屋は、整然としていた。


 窓辺の棚には、一冊のノートが置かれていた。


 (……これは?)


 結人は手に取り、そっとページを開いた。


 中には、たくさんの押し葉。

 ひとつずつ、色と形が異なる草花が、ページの上に丁寧に残されている。


 だが、言葉はない。

 すべてのページに添えられていたはずの文章が、白く塗りつぶされたように消えていた。


 ひとつだけ。

 巻末に近いページに、短い文が残っていた。


 ──どうせ、いずれ忘れるくせに。


 結人はそれを見つめた。

 その文字に、妙な感覚が心の底をかすめる。


 痛みのような、温もりのような。

 懐かしいというにはあまりにも深く、

 悲しいというにはあまりにも静かだった。


 (……誰が、誰に、言ったんだろう)


 記憶はない。だがその言葉だけが、確かに自分の中に根を張っていた。


 彼は押し葉をなぞった。


 柔らかく乾いたその感触は、まるで、かつて何かを大切にしていたという証のようだった。


 ──どうせ、いずれ忘れるくせに。


 まるでそれが、自分自身に向けられた言葉のように感じられた。


 その夜、彼は夢を見た。


 草原の中、誰かと手をつないで歩いている夢。

 相手の顔は見えない。ただ、風の匂いと、その人の手の温度だけが、妙にリアルだった。


 目が覚めたとき、結人はしばらく天井を見つめていた。


 記憶は空白のまま。

 けれど、不思議と確信があった。


 “何か大切なものを守りきった”という、説明のつかない安堵が。


 それが何であるかは、もう思い出せない。

 けれど、残されたページの一文が、確かに彼の心に灯をともしていた。


 気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。


 理由はわからない。けれど止められなかった。

 胸の奥にあったものが、静かに溢れていくのを感じていた。


 *


 社の奥。

 静寂が満ちる空間の中央に、白い棚がひっそりと佇んでいる。


 その前に立つ主は、手に一冊の帳面を抱えていた。

 花の押し葉が綴じられた標本帳。ページのほとんどは無記名で、記録の痕跡さえ残されていない。


 ただ、最終ページにだけ、たったひとつの言葉が刻まれていた。


 ──どうせ、いずれ忘れるくせに。


 主は静かに目を伏せ、その一文に指を添える。

 そして帳面を棚の一角へ、そっと滑り込ませた。


 記録 一千三百八話

『忘却の標本』

 ・願い:「最後の言葉を、永遠に忘れたくない」

 ・対価:「それ以外、すべての記憶」

 ・記録媒体:標本帳(白化)

 ・状態:完了


 主は手を離しながら、独りごとのように呟いた。


「記憶とは、思い出すためだけのものじゃない。

 守りきるために、他を手放すこともある」


 棚の中で、押し葉がそっと揺れた。

 風は吹いていない。それでも、確かに何かが囁いたようだった。


 忘れられた記憶たちが眠る中で、

 ひとつだけ――あまりにも鋭く、そして真っ直ぐな言葉が、そこにあった。


 主は最後に、そっと目を閉じる。


「すべてを忘れても、君の声は、一言だけを抱いていた。

 その記憶は、もう誰にも壊せない。

 それはいつか、別の誰かの心に、棘のように刺さるだろう」


 記録棚の灯りが、わずかに揺れる。

 やがて静かに、扉が閉じられた。


 それは、失われた記憶の眠る静かな場所に刻まれた、

 たった一つの――強く、美しい証だった。

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