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第7話「名前を呼ぶために」

 静かな朝だった。


 施設の廊下に、清掃ワゴンの車輪が静かに転がる音が響いていた。

 まだ入居者たちは部屋の中で、眠っているか、窓の外を見ている時間だ。


 五十嵐しのぶ(いがらししのぶ)は、名札を胸に止め、朝の巡回記録用のバインダーを抱えてナースステーションを出た。

 今日も、名を呼ぶ日が始まる。


「おはようございます、松田さん。よく眠れましたか?」


 ベッドに横たわる高齢の男性は、まぶたを重く持ち上げ、ぼんやりと彼女を見た。

 けれど返ってくるのは、いつものように、無言。

 代わりに目線が窓へと流れる。それは答えだった。


 しのぶは微笑み、小さくうなずいてカーテンを開ける。


「今日は晴れですね。桜も、咲きそうですよ」


 その言葉に、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

 言葉はなくても、その表情がすべてを語っていた。

 しのぶは、そっと目を細める。

 それだけで、十分だった。


 この場所で、日々、記憶を失っていく人たちと向き合う。

 自分の名前さえ、輪郭さえ、ぼやけていくその人たちに。

 それでも、今日も名を呼ぶことから始める――それが彼女の仕事だった。


 たとえ声が届かなくても、世界のどこかに“その人の名を知る者”がいる限り、

 その人はここに、ちゃんと「生きている」。


 *


 昼休み、スタッフルームで弁当を広げながら、若い同僚が言った。


「五十嵐さんって、どうしてあんなふうに毎回、名前呼ぶんですか?

 相手がもう反応しなくても、ちゃんと」


「……だって、誰も呼ばなくなったら、ほんとにいなくなっちゃうでしょ」


 しのぶは、箸を止めずに答えた。


「名前って、他人の口からこぼれて、はじめて生きてる気がするの。

 誰かの記憶の中に、自分がいたって証になるから」


 その言葉に、同僚は一瞬黙ってから、「そういうものですか……」と頷いた。


 しのぶ自身、家族の名前を何度も呼んできた。

 名前で呼ぶたびに、思い出せなくなる人にしがみつくように。


 ――そして、とうとうその名を、自分だけが覚えているようになったとき、

 彼女ははじめて、無力さを知った。


 (せめて、自分は)


 (誰かの中に、名前として、残れたら)


 そんな願いは、誰にも言えず、ただ小さく胸の中に灯っていた。


 *


 その夜――


 しのぶは、布団の中で目を閉じた。


 まぶたの裏に浮かんだのは、春先とは思えない冷たい空気と、濡れた石の感触だった。

 山間の小道。木々の隙間から差す薄明かり。静かに積もる苔の匂い。

 その先に現れたのは、白く浮かび上がる鳥居と、奥に佇む社だった。


 誰かの記憶だろうか。

 あるいは、自分の中に残っていたはずのない過去。


 不思議と、胸の奥がざわめいた。

 まるで、何かを忘れてはいけないと、夢が告げているようだった。


 目覚めたとき、その映像はもうぼんやりとしていたのに、心だけが妙にざわついていた。

 まるで、自分が“呼ばれた”ような気がしてならなかった。


 翌朝になっても、夢の印象は薄れなかった。


 午前のケアの合間にも、不意にあの鳥居や石段の風景が脳裏をよぎった。

 そして仕事を終えて靴を履くころには、胸の奥にうっすらとした違和感が残っていた。


 (今日は……帰り道を変えてみようか)


 理由はわからなかった。ただ、まっすぐ帰るのが惜しいような気がした。


 夕暮れの道、自転車を押して歩く。

 春先の風がジャケットの裾を揺らし、彼女の歩調もどこか緩やかだった。


 いつのまにか、普段は通らない脇道に足が向いていた。

 そして、林の向こうに見えた低い石段に、しのぶの足は止まった。


 (ここ……知ってる)


 初めて見る場所のはずなのに、既視感があった。

 夢で見た、濡れた石段と、白い鳥居。

 記憶と現実が、静かに重なっていく。


 しのぶは自転車を停め、ゆっくりと石段を登った。

 踏みしめるたび、周囲の音が遠ざかっていくようだった。


 社の前には、ひとりの少女が立っていた。


 白い衣を纏い、足元まで流れるような黒髪。

 その姿はどこか現実離れしていて、まるで風景に“浮いて”見えた。

 顔立ちは幼い。けれど、瞳の奥に宿る光には、年齢では測れない静けさがあった。


 少女は、ゆっくりと微笑むと、まっすぐこちらを見つめた。


「いらっしゃい、五十嵐しのぶさん。ずっと、お待ちしていました」


 その瞬間、しのぶの心に、ぞくりとした感覚が走った。


 ――どうして名前を知っているの?


 警戒心が一瞬膨らむ。

 けれど、それ以上に、今聞こえたその声に引っかかりを覚えた。


 (……この声、母の声に、似てる)


 確かにそうだった。

 けれど目の前の少女は、どう見ても十代にも届かない年齢に見える。


 現実としては矛盾していた。なのに、なぜか疑う気になれなかった。


 (まるで、“母の声を借りて”話しかけられているみたい……)


 足が動かず、しのぶはその場に立ち尽くしていた。


「……ここは、どこ?」

 ようやく絞り出した声は、思っていたよりも震えていた。


 少女は一歩、社のほうへ身を引きながら静かに告げた。


「あなたの“願い”を聞く場所です」


 その声は変わらず、どこまでも優しかった。だが、優しさの奥にあるものが読めない。

 何かを悟られないように包んでいる、そういう種類の柔らかさだった。


「記憶に残したいものと、差し出してもいいものを、あなたが選ぶ。

 この社は、その“契約”のために在る場所です」


 少女が手を伸ばすと、空気がかすかに揺らぎ、そこに名札がふわりと現れた。

 しのぶの胸につけていた、あの名札とまったく同じものだった。

 ただひとつ違うのは――名札の文字が、霞んでいた。


 名前が、読めない。


「あなたが望むのは、“名前”そのものではなく――

 “呼び続けた誰か”の記憶を、どこかに残すことですね」


 しのぶは、小さく息を呑んだ。

 まさに、自分の胸の奥に隠していた想いを、目の前の少女が言い当てたのだった。


「……私が、呼び続けてきた人たちを……誰かが、どこかで覚えていてくれるなら……」


 少女は、目を閉じ、しばし黙考したあとで、ゆっくりと頷いた。


「あなたの声が紡いできた“記憶”は、確かに受け取りました。

 それらを“記録”として残すためには――あなた自身の“記録”を、ひとつ、置いていっていただく必要があります」


「……記録を、置いていく?」

 しのぶは、つぶやいた。

 その言葉の意味を理解するには、一瞬だけ間が必要だった。


「それは……もしかして、私の――名前、ですか?」


 少女は、静かに、しかし否定しなかった。


「あなたが最後まで、他者の名を呼び続けたように。

 その声と引き換えに、あなたの“名”もまた、この場所に刻まれるのです」


 少女が手を差し出すと、空気の中にそっと揺れるように、小さな白い杯が現れた。

 まるで風のない水面にただ浮かんでいるかのようだった。


 杯が、社の中央にそっと置かれる。

 ――あたりの空気が、わずかに凪いだ。


 しのぶは、そっと胸元に手をやり、名札を外した。

 それは、今朝まで身につけていたもの。もうほとんど読めなくなっていた。

 名前の文字は、まるで“名乗る意思”が薄れていくように、静かににじんでいた。


 それでもその名札は、彼女がここに“いた”ことの証だった。


「……私は、たくさんの人の名前を呼び続けてきました」


 その声は、社の静けさの中でかすかに反響し、空間をやさしく満たしていく。


「誰かの記憶の片隅に、私が呼んだ声が残っていてほしかった。

 忘れられていくことよりも……“呼びかけた証”が消えてしまうのが、怖かったんです」


 少女は、何も言わなかった。

 けれどその沈黙には、静かな理解と、深い哀しみが宿っていた。


「だから……お願いです。

 私の名前を、“誰かを呼び続けた声の記録”として、残してください」


 しのぶは杯の中に、名札をそっと落とした。


 名札は音もなく沈み、器の底から、白い光がふわりと立ちのぼる。

 柔らかく、けれど確かにそこに“記憶”があった。

 呼びかけた声たちが、ひとつの光になって、静かに空へと溶けていく。


 そのとき、しのぶの胸元にあった名札も、すうっと姿を消した。

 残されたのは、名前の消えた小さな余白――それだけだった。


「……契約は、結ばれました」


 少女の声は、風がそっと葉をなでるような響きだった。

 その声は、別れというより、祈りのようだった。


「――あなたの名は、もう“名乗るためのもの”ではなくなります。

 けれど、それはたしかに“誰かを呼び続けた声”として、この場所に在り続けます」


 しのぶは、静かに目を閉じた。

 胸の奥に、寂しさと安堵が、ゆっくりと同時に広がっていく。

 名を失っても、失われないものがある。

 ようやく、それを誰かに手渡せた気がした。


 涙は流れなかった。

 けれどそのかわり、胸の奥に淡い光が、かすかに灯っていた。


 *


 翌朝、しのぶはいつものように出勤の支度を整え、玄関を出た。

 まだ薄曇りの空の下、春の空気が微かに頬を撫でる。


 いつものように駅まで歩き、電車に揺られ、職場へと向かう。

 打刻を済ませ、ロッカーを開けたとき――ふと、指先が止まった。


 制服の胸元に、つけていたはずの名札が見当たらなかった。


 (……あれ? 入れ忘れた?)


 カバンの中を探しても、ポケットの中にも見当たらない。

 昨日の帰宅時、確かに外した記憶はある。けれど、それをどこへ置いたかが思い出せなかった。


 ひとまずロッカーを閉じ、制服に袖を通してナースステーションへ向かう。

 仕事は始まっていく――名札がなくても、いつものように。


 ナースステーションの向こうから、小柄な看護師が手を振ってくる。

 数週間前、しのぶに問いを投げかけた若い同僚だった。


「おはようございます、先輩」


 呼びかけられた声に、胸の奥がかすかに揺れる。

 しのぶは、小さく笑みを返した。名を持たなくても、想いは届く――そう信じた。


「おはよう」


 名前を添えずとも、その挨拶には“わたし”が込められていた。


 名札がない――その事実に、すぐには不安を感じなかった。

 むしろ、胸元がふっと軽くなったような、不思議な感覚が残っていた。


 (……そうだ。置いてきたんだった)


 名を名乗ることができなくても、自分がここにいることを、行動で示せばいい。

 そう思ったとき、胸の奥に、淡い光がふっと灯った。


 *


 施設の朝は、いつもと同じ静けさの中で始まった。

 けれど、しのぶの胸の奥には、昨日までと少しだけ違う灯りがともっていた。


 記録ノートをめくりながら、彼女は一人ひとりの部屋を訪ねていく。

 足音は柔らかく、声はそっと、けれど確かに名前を呼ぶ。


「おはようございます、佐々木さん」

「お薬の時間ですよ、荒川さん」


 呼びかけるたびに、相手が微かに表情を動かす。

 反応が返ってこなくても、彼女は同じように声をかけた。

 まるで、その名が風に溶けてどこかへ届くことを信じるように。


 名前を呼ぶ声は、以前と変わらない。

 けれどその響きの奥には、ひとつの願いが静かに宿っていた。


 ――どうか、この人の名が、誰かの記憶にとどまりますように。

 ――いつか、呼びかけた誰かの声に、ふと応えてくれますように。


 しのぶが呼ぶ名前は、ただの業務ではなかった。

 一つひとつが、大切な記録であり、やさしい想いだった。


 そしてその声の奥には、かつて自分の名を手放した者だけが知る、

 **“名が持つ重さ”と“呼びかけることの意味”**が、確かに息づいていた。


 ふと、同僚が言った。


「先輩、最近……なんだか、声がやさしくなった気がします。前より、もっと届いてるっていうか」


 しのぶは、少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように笑った。


 でも、否定はしなかった。


 (もう、私の名前は“呼ばれるため”にはない)

 (けれど、私は今も、誰かの名前を呼ぶためにここにいる)


 名を持たなくなっても、声は生きている。

 ひとつひとつの呼びかけが、確かに、ここにいる証になる。


 *


 社の奥――

 白く差し込む光のなか、静寂をまとう棚の前に、主は一人立っていた。


 手にしているのは、小さな名札。

 かつて胸元に掲げられていたその名札は、今はもう、名前の文字を失っている。

 けれど、主はそれを見つめながら、静かに目を伏せた。


「――名前とは、呼ばれたときにだけ、命を持つもの」


 小さく呟いたその声は、空気に溶けていくのではなく、社の空間全体に滲むように響いた。


 記録帳が音もなく開かれる。

 主は墨を含ませた筆を取り、しずしずと記し始めた。


 記録 一千三百七話

『名前を呼ぶために』

 ・願い:「名前を呼び続けた想いが、消えずに残るように」

 ・対価:「名乗るための自分の名」

 ・記録媒体:名札(白化)

 ・状態:完了


 書き終えた筆先が止まると、棚の中央に名札が静かに置かれた。

 その瞬間、名札がふっと柔らかな光を帯び、一瞬だけ、かつての名前が浮かび上がったように見えた。


 そして――

 名札の奥から、微かなさざ波のように、声たちが囁きはじめる。


「佐々木さん、おはよう」

「荒川さん、また明日ね」

「戸田さん、お薬の時間ですよ」

「……しのぶ、ありがとう」


 それは、彼女が記録の中で紡いできた声たち。

 名を呼ぶという行為が、確かに誰かをこの世界に繋いでいた証。


 主は名札にそっと指を添える。

 指先から伝う想いは、静かな祈りのようでもあった。


「あなたが手放した“名”は、

 これからも、誰かの記憶の中で、声として息づくでしょう」


 その言葉に応えるかのように、棚の中の名札が、かすかに震えた。

 風が、社を抜けていく。


 木々の隙間から差し込む陽光は、どこか懐かしく、優しい。

 名を失った声にさえ、そのあたたかさが、やさしく届いていた。

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