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第6話「冬の灯を抱いて」

 白い空の下に、音が消えていた。


 アパートの窓辺に、古びたガラス板が立てかけられている。

 そこには、一面の雪景色が描かれていた。

 薄墨の線と、滲んだ水彩。画材の跡がそのまま残っている。


 それは、雪が描いた最後の絵だった。


 長谷部奏多(はせべかなた)は、その絵を毎朝見る。

 まるで日課のように。

 そして毎日、同じように思う。


 (――あの冬が、まだ終わっていない)


 窓の外では春の気配が滲んでいるのに、部屋の中だけが凍ったままだった。

 季節が進んでも、この部屋だけは時間に取り残されたようだった。


 大学を卒業してからの一年間、奏多は絵を描けなくなっていた。

 スケッチブックは白紙のまま積まれ、筆もほこりをかぶっている。


 雪がいなくなって、世界の色が全部、鈍くなった。

 白と黒の中間――その曖昧な影の中で、日々がただ流れていく。


 彼女のノートも、イーゼルも、あの日のまま置かれていた。

 触れることも、直すこともできず、ただ“保存”するように部屋の一角に祀られている。

 まるで、そこだけが別の時間を抱えていた。


 風も通らない静かな部屋で、声も、音も、感情さえも、少しずつ沈殿していった。

 息をするたびに思い出す。

 彼女と過ごした記憶は、すべて美しくて、すべて痛かった。


 でも――それを忘れることなんて、できるわけがなかった。


 忘れたくなかった。


「……忘れるくらいなら、全部抱えて、このまま止まっていた方がいい」


 そう呟いた声は、もう何色でもなかった。

 音にもならず、ただ、部屋の静けさに吸い込まれていった。



 ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――



 その日、奏多はひとりで墓地へ向かっていた。

 雪の命日だった。


 冷たい風が、春先の空気を撫でていく。

 日差しはやわらかいのに、指先がじんと痺れるほどの冷たさが残っていた。

 まるで、彼女がいた冬の余韻を、世界がまだ忘れずに抱きしめているようだ。


 墓標の前に、白い花を供える。

 その花は、彼女が最後に「きれい」と言っていた花だ。

 それを思い出しただけで、胸の奥がきゅう、と締めつけられる。


 声には出さなかった。

 名前を呼ぶことも、別れを告げることもできなかった。

 言葉にしてしまったら、もう本当に届かないと認めてしまう気がして――それが怖かった。


 (また来る。……きっと、また)


 心の中で、それだけをそっと繰り返す。

 小さな決意が、ひとひらの雪のように胸に積もる。


 帰り道、線路沿いを歩いていると、不意に吹き抜けた風に髪が揺れた。

 その風は、春のにおいに混じって、どこか懐かしい匂いを含んでいた。

 それはほんの一瞬、彼女の気配を思い出させるような、淡くて、切ない香りだった。


 (……今、雪のことを考えていたからだろうか)


 そんなふうに思いながらも、足はふと止まる。

 なにかが背中を押したような感覚だった。


 ふと、視線の先に違和感を覚えた。

 線路脇の柵が、途中で切れている。その向こうに、小道のようなものが続いていた。

 背の高い草に隠れるようにして、細く、山の斜面へと伸びている。


 知らなかった。今まで何度も通ってきたはずなのに、気づいたことがなかった。

 地図にも載っていないような道だったが――なぜだろう、その先に“呼ばれている”ような気がした。


 立ち尽くす奏多の足元を、風が再び撫でた。

 それは、通り過ぎるのではなく、彼をそっと誘うような風だった。


 気づけば、足が自然とそちらへ向かっていた。

 初めてのはずなのに、どこか懐かしい空気が漂っていた。


 心のどこか深いところ――言葉にならない部分で、確かに何かが動いていた。


 誘われるようにして、奏多はその道を辿った。



 ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――



 しばらく歩くと、小さな林の奥に、ぽつんと鳥居が見えた。

 時が止まったような、静かな社。

 石段の上に佇むそれは、誰にも知られていない場所のように、凛としていた。


 (こんなところに、社なんて……)


 初めて見るはずなのに、どこかで見たような、懐かしさが胸をかすめた。

 雪と歩いたどこかの風景と重なるようで――でも、違う。

 それはきっと、“記憶ではない場所”に刻まれた、感情だけの残像。

 戸惑いとともに、無意識に足を踏み入れていた。

 音も消える。

 車の音も、鳥の声も、まるで遠ざかっていった。


 社の前に、一人の青年が立っていた。

 白を基調とした不思議な装束。

 その髪は、まるで雪のように淡く、肌は透けるように白い。


 (……雪……?)


 一瞬、目の奥に痛みが走った。

 でもそれは彼女ではなかった。


 どこか似ているだけの、けれどまるで“あの人の影”をまとった誰か。


 ――まるで、記憶が人の形をとって現れたような存在。


 その気配に、奏多の胸がかすかに脈打った。

 怖くはなかった。ただ、現実からほんの少しだけ離れていく感覚があった。


 目の前の景色が、少しずつ音を失っていく。

 風の音も、小枝が擦れる音も、遠ざかるように消えていく。

 まるでこの場所だけが、別の時の流れにあるかのようだった。


「ようこそ、長谷部奏多さん」


 青年――社の主は、まるで旧知の友を迎えるように、やわらかく笑んだ。


 ぞくりと、背筋をなぞる冷たいものが走った。

 名前を名乗った記憶はない。けれど、彼は確かに自分を知っていた。


 その声には、不思議と敵意も圧もなかった。

 ただ静かで、こちらの痛みを知っている人間の声だった。


 ――だからこそ、怖かった。

 心の奥に触れられるようなその響きが。


「あなたは、“記憶を残したい人”ですね。

 では、ここで、その願いを問わせていただきます」


 奏多は、思わず一歩だけ後ずさった。


 ここが何かを決める場所なのだと、本能が告げていた。

 この先に進んだら、もう戻れない。


 でも、それでも、彼は尋ねてしまう。


「……本当に、残せるんですか。

 この記憶を、この感情を――

 失わずに、抱え続ける方法があるのなら……教えてください」


 その問いは、自分でも驚くほど素直な声だった。


 願いを口にするのは、痛みを認めることだった。

 そしてそれは、希望のない場所にまだ光を求めている証だった。


 けれど、もう誰にも縋りたくないと閉じていたはずの心が、

 この白い社の空気の中では、なぜかほんの少しだけ、ほどけていく気がした。


 主は静かに頷き、白い杯を手に取った。

 杯の内側に、透明な雪のような光が揺れている。


 そして、社の奥から、ひときわ冷たい風が吹き抜けた。

 それは、忘れたくない記憶の奥にある、冬の冷たさだった。

 白い杯を前に、奏多は立ち尽くしていた。


 社の奥、床の上には一枚のガラス板が置かれている。

 それは彼が肌身離さず持ち歩いていた、雪が最後に描いた「冬の景色」の絵。


 ガラスの向こうに描かれた淡い線が、光に透けて、揺れていた。

 まるで、今にも零れ落ちそうな、雪の温度。


「……これを渡したら、俺は……」


 奏多の声はかすれていた。


「彼女の記憶は残る。でも、未来を見られなくなる心のままでは、

 その記憶もいずれ、光を失います」


 主はそう告げると、杯をそっと傍らの石台に置いた。

 その白い器は、悲しみと願いの境界を湛えたように、静かに置かれていた。


「君が“未来を信じる心”を渡してくれるなら、

 その記憶は、永遠に“灯”として残せる」


 未来と引き換えに、過去を灯す――それは、“思い出”という名の部屋に自らを閉じ込めるような選択だった。

 永遠に誰かを想い続けることは、時に、今を生きることから遠ざかることでもある。

 けれど、忘れることのほうが、もっと怖かった。

 忘れた瞬間、彼女がこの世界に存在した証が、自分の中から消えてしまう気がして。


 それでも。

 奏多はもう一度、心の奥底に問いかける。


 (……忘れたくない。……あの声も、笑顔も)


 彼女と過ごした季節の光、会話のかけら、並んで見た景色。

 全部、もう取り戻せない。けれど、全部、失いたくなかった。


 名前を呼ばれた日。

 手を握ってくれたときの温度。

 最後に見せてくれた笑顔。


 それらを思い出すたびに、胸の奥が軋むほど痛いのに、

 それこそが、自分が生きてきた証だった。


 ……なら、たとえ未来を手放しても――この記憶だけは。


 そう願ったとき、ガラス板の中の雪景色が、淡く光った。


 その瞬間――


 絵の中の雪が、ひとひら、ふわりと浮かんだ。

 音のない、ガラス越しの世界で、舞い落ちる幻。


 それはまるで、彼女が最後にくれた言葉のようだった。


 奏多は、静かに杯を手に取った。

 そして、未来を見つめる目を、そっと閉じた。


「……お願いします」


 その声に応えるように、ガラス板の色がゆっくりと失われていく。

 白の絵具が薄れ、水彩の境界線が溶け、冬の景色は無色の硝子へと変わっていった。


 そして、それらすべてが、杯の中へ吸い込まれる。


 過去は、記録として確かに残り、

 未来は、その場でそっと手放された。


 主は杯を両手で受け取り、深く礼をする。


「――契約、完了です。

 あなたはこの記憶とともに、生き続けることができる。

 色のない未来でも、きっと、道は続いています」


 奏多は何も言わなかった。

 ただ、頬を撫でる春風のやわらかさに、少しだけ目を細めていた。

 それは、涙にも笑顔にもなれない心に、ようやく訪れた小さな静けさだった。

 失ったものを認めたその場所に、確かに“これから”の空気が流れはじめていた。


 それが、彼の新しい始まりだった。


 朝、窓を開けると、春の風が部屋に流れ込んできた。

 窓枠の外で、小さな鳥が鳴いている。

 その声は、どこか遠い記憶をくすぐるようで――けれど、悲しみは連れてこなかった。


 カーテンが揺れ、光が床を滑る。

 そのやわらかさに、奏多は少しだけまぶしそうに目を細めた。


 ――あのガラス板は、もう、そこにはなかった。


 空になったイーゼルの前に、奏多は立っていた。

 昨夜、確かにここにあった絵。

 いつもなら、怖くて近づけなかった場所。


 でも今は違っていた。

 もう、思い出に追い立てられているわけじゃない。

 その静けさの中に、彼はようやく自分の居場所を見つけていた。


 記憶は、確かに失われてはいない。

 けれどそれは、もう彼の足元を縛るものではなかった。

 想い出のすべてを掌で包み、そっと空へ放したとき、初めて胸の奥に風が通った。

 まだ少し痛むけれど――それでも、呼吸ができる。


 手放したことは、忘れたこととは違う。

 それに気づけたことが、彼にとっては何よりの救いだった。


 奏多は、部屋の奥から古いスケッチブックを取り出す。


 表紙にうっすら埃が積もっていたが、それを払う手はもう迷っていなかった。

 ページを開き、鉛筆を手にする。


 最初の一筆は、震えていた。

 けれどその線は、どこか温かかった。

 思い出に似ていながらも、それとは違う、自分のための線だった。


 線は、いつの間にか色を求めていた。

 灰色の中に、小さな青を――春の光を思わせる青を、奏多は指先で選んだ。


 彼は、彼女の絵を真似したわけではなかった。

 ただ、そこから“もう一歩先の色”を描こうとしていた。


 きっと、もう“完全に癒える”ことなんてない。

 だけどそれでも、誰かがくれた色を受け継いで、自分の世界を描き出すことはできる。


 それが“彼女がくれたもの”への、ささやかな応えだった。


 筆が滑る音だけが、部屋に静かに響いていた。

 それは、確かに今、生きている音だった。



 ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――



 社の奥――

 灯の届かぬ薄暗がりに、ひとつの記録がそっと収められていく。


 棚の中央、細く磨かれた木箱の上に置かれたのは、透明なガラスの板だった。

 そこには、もう絵の具の色も、線も残っていない。


 ただ、光にかざすとほんの一瞬、かつてそこに“雪”があったことを感じさせる――

 そんな、かすかな温度だけが漂っていた。


 主はそれを見つめていた。

 静かに、長い時間をかけて。


「……未来の色を手放してまで、記憶を残そうとしたその意志は、

 痛みではなく――祈りだったのですね」


 誰に語るでもない声。

 けれど、それは確かに“記録を託されたもの”への敬意だった。


 記憶とは、ただの過去ではない。

 それは、生きた証であり、誰かを想い続けた時間そのもの。


 主は帳面を開き、筆を取り、記す。


 記録 一千三百六話

 『冬の灯を抱いて』

 → 対価:「未来を信じる心」

 → 願い:「雪の記憶を色褪せずに残したい」

 → 状態:完了


 墨が乾くころ、棚の中に微かな風が通り抜ける。

 冬の名残を運ぶその風は、記録を撫で、光の粒を揺らした。


 主はガラス板の前にそっと手を添え、目を閉じる。


「雪はもう降らない。けれど――

 それでも、その景色を描こうとする心がある限り、

 その想いは、誰かの中で灯となり、絶えることはないでしょう。


 悲しみも、喪失も、願いも、

 すべてを抱いて生きる者の祈りが、

 こうして記録に残ることに、私は深く感謝しています」


 それは、記録者としてのささやかなはなむけの言葉だった。


 やがて主は静かに身を翻し、次の契約者を迎えるため、杯を棚に戻した。


 社の外では、春の光が枝先に滲みはじめていた。

 ひとつの記憶が静かに納まり、また、新たな祈りが世界のどこかで芽吹こうとしている。

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