第5話「沈黙の子守唄」
夕方、家の鍵を開ける音だけが、がらんとした廊下に響いた。
「ただいま」とは、誰にも言わなかった。
言ったところで返事は返ってこないことを、藤咲凛音はもう知っていたから。
けれど、言わなければならない気がしていた――自分がまだ“ここ”にいることを、確かめるために。
リビングの照明は消えたまま。
空っぽの食卓の上に、コンビニの袋が一つ置かれていた。
メモの類はない。冷たい弁当と一緒に置かれていたのは、電子レンジで温めるためのタイマーだけ。
(また今日も……)
凛音はランドセルを壁際に下ろし、無言で中身を出していく。
プリントを机に広げ、宿題のノートを開く。テレビも音楽もつけない。
音がないほうが、気が楽だった。
母はいつも遅い。
「仕事だから仕方ない」と言われれば、それまでだった。
その言葉の向こうで、何度も誰かと電話する声を聞いてきた。
新しいお父さん――継父が家に来るのは週に数回。彼ともほとんど話をしない。
笑ってほしいとか、話したいとか、もう思わなくなった。
「いい子でいれば、それでいい」と、周囲の大人たちは言った。
けれど、その“いい子”は、なぜこんなに孤独なのだろうと、時々考えてしまう。
そんなとき思い出すのが――
幼い頃、たった一度だけ母が寝る前に歌ってくれた、子守唄のことだった。
覚えているのは、断片的な旋律と、母の手のぬくもり。
けれど、最近はもうその歌詞さえ、思い出せなくなってきていた。
(わたし、ほんとに、ここにいるんだろうか)
リビングの隅で膝を抱えて座ったまま、凛音は何度もそう思う。
呼ばれることも、触れられることもない毎日。
見えない壁に囲まれて、自分だけ音を失ってしまったような夜。
小さな喉の奥に、言葉にならないものがつかえている。
泣くほどの涙も、怒るほどの声も、出てこなかった。
ただ、胸の奥で、誰かがそっと問いかけていた。
――わたしは、ほんとうに、ここにいていいの?
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
その日は、春のはじまりにしては風が冷たかった。
学校の帰り道、凛音はいつもと違う道を選んだ。
まっすぐ家に帰っても、誰もいない。
だから、少しだけ遠回りして、小さな住宅街を抜けてみた。
雑草の生い茂った空き地に出たとき、ふと視界の端に何かが見えた。
朽ちかけた木の鳥居と、奥にぽつんと佇む小さな社。
(……こんなところ、あったかな)
まるで絵本の中にあるような、不自然に静かな空間。
でも、怖いとは思わなかった。不思議と、引き寄せられるように足が動いた。
草むらを分けて進むと、風が止み、音が消えた。
蝉の声も、車の音も、何も聞こえない。
ただ、社のまわりだけが別の季節に取り残されたようだった。
鳥居をくぐると、誰かがそこにいた。
背の高い青年だった。
制服のような、でもどこか和服にも似た装束を着ている。
見た目は十代の終わりくらいに見えるが、表情は子どもにも大人にも属していなかった。
けれど凛音は思った。
(お兄ちゃん……みたい)
その人は、まるで昔読んだ絵本の中の“優しい兄”にそっくりだった。
存在しないはずの面影なのに、不思議と懐かしかった。
「ようこそ」
青年――社の主は、静かに微笑んだ。
声はまるで、歌い出す前の音のない旋律のようだった。
「ここは、願いの形を変える場所。
あなたが何かを“渡せる”のなら、私はそれを引き換えに、あなたの“願い”を叶えましょう」
凛音は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
それでも、主は構わず語る。
「あなたの願いは、まだ言葉になっていないだけ。
でも、それはもう……ちゃんと、ここに届いているよ」
主がそっと手を伸ばすと、風に揺れた草の中から、譜面のようなものが浮かび上がる。
それは、凛音だけが知っている“あの子守唄”の形だった。
五線譜の上に、母の声の記憶が描かれている。
それを見た瞬間、凛音の胸に熱い何かがこみあげてきた。
(ああ……これ、忘れたくない)
でも同時に、心の奥で、こうも思った。
迷いは、胸の奥から滲み出るように広がっていく。
その譜面の一音一音が、過去の自分とつながっていると感じたから。
泣きじゃくって母に抱きついた夜も、何も言えず背を向けられた日も――
その全てが、この歌の一部になっていた。
あれが、わたしの「いた証」だったのだと思った。
たった一度、確かに“愛されていた”記憶。
もしこの旋律を手放したら、自分自身の輪郭さえも曖昧になってしまいそうで、怖かった。
(これがなくなれば……わたしは、もう“愛されたこと”さえわからなくなるのかな)
主は、白い杯を静かに取り出した。
そして、柔らかく、こう言った。
「君がそれでも、“ひとりじゃない”と思えるように、ここで“契約”をしよう」
白い杯は、両手にちょうどおさまるくらいの大きさだった。
陶器のように滑らかで、けれどどこか、光を吸い込むような静けさがあった。
凛音は杯を前にして、言葉を出せずにいた。
渡すものはわかっていた。
目の前に浮かんでいるあの譜面――それが、自分にとって“いちばん大事なもの”なのだと、心が知っていた。
けれど、迷いは消えなかった。
(これを失ったら、もう……わたし、“家族”って言えるものが、なくなっちゃう)
唇が震えた。
涙は出ないのに、目の奥がじんと熱かった。
主は、そんな凛音に向けて、まるで春の陽だまりのような声で言った。
「きみの中に、その歌があったこと。
その音が、確かにきみの胸に響いたこと。
それは、消えてしまっても、“なかったこと”にはならない」
その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がした。
自分が大切にしてきたものが、たとえ失われても――
“あった”ことを、誰かが見ていてくれたというだけで、少し救われたような気がした。
静かに頷いたその声は、兄のように優しく、けれど凛音の決意を試すものでもあった。
凛音は、譜面にそっと指を伸ばした。
触れた瞬間、母の声が、たしかに一瞬だけよみがえった。
優しい声だった。
歌詞もはっきりとは思い出せないけれど、確かにそこに“ぬくもり”があった。
背中を撫でられた夜、そっと頬に触れた「おやすみ」が、確かにそこにあった。
その温度だけが、彼女のすべてだった。
「……わたし……」
初めて、凛音は声を出した。
掠れていたが、それは紛れもなく、彼女自身の意思だった。
「……わたし、“ここにいていい”って……誰かに、言ってほしかった」
それは、彼女が十年間、胸に抱えてきた本当の願いだった。
主は静かに頷く。
「君の願い、確かに聞き届けました。
では、契約を始めましょう」
主が杯を差し出すと、譜面がふわりと浮かび、音符が一つずつ零れ落ちるように杯の中へ注がれていく。
譜面の線が消え、旋律が静かに吸い込まれる。
母の声、歌、手のひらの温もり――
そのすべてが杯に流れ込み、旋律が杯に吸い込まれるたび、胸の奥にひとつずつ小さな空洞ができていくようだった。
悲しいわけではなかった。
けれど、何か大切なものがふわりと風に攫われていくようで、心の中で何度も「さようなら」と呟いた。
凛音の胸から、静かに失われていく。
杯が満ちると、主はそれを両手で受け取り、深く一礼した。
「これで、君の願いは叶いました。
きみは、もう“自分がここにいていいのか”と怯えなくて済む」
凛音は、胸の奥にぽつんと穴が空いたような感覚を抱えながらも、
どこかで、確かに肩の力が抜けたことを感じていた。
ぽっかりと空いたその穴は、いまも冷たい風を通していた。
それでも――どこか、息がしやすくなった気がした。
言葉にはできないけれど、“なにか”を置いてきたという実感が、確かに胸に残っている。
まるで、重たい鞄をやっと降ろせたときのような、そんな解放感があった。
空っぽの杯の中に、それが残っていた。
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
夜の廊下は、いつものように冷たかった。
母の帰宅を知らせる音は、ずっと前に過ぎていた。
リビングにはまだ明かりがついておらず、電子レンジの中に温められたままの弁当が残っている。
凛音は、ランドセルを部屋の隅に置き、そっとキッチンへ歩いた。
静けさは変わらない。
テレビもつけなかった。いつもと、何も変わっていないはずだった。
でも、どこかが違っていた。
机の上にプリントを広げていても、宿題のページをめくっていても、
胸の奥にあった“重さ”が、ふっと軽くなっていた。
“何か”を手放したことは、確かに感じていた。
記憶は霞み、感情の芯がぽっかり抜けたような空虚があった。
でも、それが何だったのか、もう思い出せなかった。
それでも、“誰かに見つけてもらえた”ような安心だけが、胸に残っていた。
子守唄の旋律は、すでに思い出の形をとどめていなかった。
歌詞も、音も、消えていた。
けれど、どうしてだろう――
凛音は、その静けさの中で、なぜか“安心していた”。
ひとりきりのはずなのに、まるで遠くから誰かに「おかえり」と言ってもらえたような気がした。
誰にも聞こえなくても、誰にも届かなくても――
この場所に、自分の声が在る。それだけで、少しだけ世界とつながれた気がした。
「……ただいま」
思わず口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど自然だった。
言葉にすることで、自分がここにいることを確かめたかったのかもしれない。
誰も応えてくれなくても、言葉を出すことは“わたし”という存在を、この家の空気に刻むことだった。
返事はなかったけれどその言葉を口にしただけで、なぜか心がふわりとあたたかくなった。
そうだ。
たとえ誰にも届かなくても、“言葉にしていい”んだ。
それを、今日初めて知った気がした。
その夜、凛音ははじめて自分のベッドで眠った。
ぬいぐるみを抱いて、誰かに見守られているような気がしていた。
目を閉じると、静寂のなかで微かに風の音が聞こえた気がした。
それはもう歌ではなかった。
でも――たしかに、優しさの形をしていた。
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
静かな夜だった。
けれどその静けさは、決して孤独ではなかった。
社の奥、灯籠のほのかな明かりに照らされながら、主は一枚の譜面を手にしていた。
それは、もう音を失っていた。
五線譜に刻まれていた旋律は、すべて消えていた。
ただ、紙の上にわずかに残る凹みだけが、かつて音があったことを物語っている。
「優しい音だったね」
誰に語りかけるでもなく、主はぽつりと呟く。
“願い”というものは、どれも儚くて、どれも重い。
声にならない願いほど、誰にも気づかれずに、静かに沈んでいく。
だからこそ、手放すときの痛みは深い。
その重さを、主だけが知っている。
けれど、それはきっと――生きるということの、かたちそのものなのだ。
主は、白くなった譜面を手に、石棚へと向かう。
そこには、いくつもの“記録”が並んでいた。
空の瓶。名札。壊れたペンダント。そして、黒板消し。
どれもが、誰かが差し出した“かけがえのない何か”。
主は、空白の譜面を静かに棚に収めた。
その手つきは、何度も繰り返してきた動作のはずだった。
けれど、それぞれの願いには、決して同じ重さはなかった。
受け取るたびに、主の胸の奥にも、ひとひらの余韻が残る。
そして帳面を開き、ゆっくりと筆を走らせる。
記すということは、忘れないということ。
誰かの声にならなかった願いが、この帳面の中で“形”になる。
主にとって、それは“祈り”に等しい作業だった。
記録 一千三百五話
『沈黙の子守唄』
→ 対価:「子守唄の記憶」
→ 願い:「自分の存在を認めてほしい」
→ 状態:完了
墨が乾く前に、そよ風が帳面の上を通り過ぎた。
まるで、風そのものが、かつての子守唄を口ずさんでいるかのように。
主は帳面を閉じ、譜面の方にもう一度目をやる。
「音は消えても、静けさの中に残るものがある。
きみがそれを忘れても……それは、ちゃんとここにあるから」
そして主は、ふっと目を細めた。
「次は、誰が来るのかな」
社の外で、風が草を揺らした。
季節が、ほんの少しだけ先へ進んだ音がした。
その音に導かれるように、どこかでまた、誰かの“願い”が芽吹こうとしている。
まだ言葉にならない想いが、そっと目を覚ましかけていた。