表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第4話「境界の庭」

 午後五時、チャイムが鳴り終わった後の教室は、嘘のように静かだった。

 窓から差し込む夕陽が、廊下のガラス戸を朱に染めている。

 季節は春のはじまり。けれど、風にはまだ冷たさが残っていた。


 高槻祐一は、無人の教卓の前に立ち尽くしていた。

 指先で、何度も黒板の縁をなぞる。チョークの粉が、爪の間にこびりついていた。


「……もう、七年も経つのか」


 思い出の中の教室は、時間だけが止まったように、いつもあの春のままだった。

 夕陽の角度も、窓の外の景色も、声をかけてくる生徒の姿も――全てが、昨日のことのように浮かんでくる。

 なのに、自分だけが取り残されている気がして、胸の奥が苦しくなった。


 小さく吐き出した独白は、誰にも届かない。


 七年前、祐一はこの学校に赴任したばかりだった。

 あの年、受け持ったクラスにいた一人の少年のことを、いまだに忘れられずにいる。


 明るく、快活で、でもどこか無理をして笑っていたような少年。

 その少年がある日、自ら命を絶った。


 遺書はなかった。

 いじめの痕跡も、教員間の記録にも、それらしいものは見つからなかった。

 だが、祐一は知っていた。

 “何か”があったことを。

 そして、それを見抜けなかった自分を、赦せずにいた。


 それだけじゃない。

 彼を追い詰めた何か――誰かを、祐一は、いまも強く憎んでいた。


 それが誰だったのかも、実ははっきりしない。

 けれど、彼の死に“無関係だった者など一人もいない”という思いが、祐一の胸を焦がしていた。


「赦したいわけじゃない。忘れたいわけでもない。

 でも、このまま……あの子を怒りの記憶で上書きしたまま、生きていくのか……?」


 言葉に出した途端、その重みが自分に跳ね返ってきた。

 誰のせいでもなく、自分自身が、いちばんその怒りに縛られていたことに気づいてしまった。


 ふと、目に留まったのは、教室の隅に置かれた黒板消しだった。

 よく見ると、それはひび割れていた。

 こんなに欠けていたのに、ずっとそのまま使っていたことに気づかなかった。


 黒板消しを手に取ると、粉が舞った。

 何かが崩れるような、ざらりとした音が耳の奥を叩いた。


 ──その瞬間、祐一の視界が、静かに、ゆがんだ。


 まるで空気の層がめくれたような感覚。

 教室の隅にある掃除用具入れの扉が、いつのまにかわずかに開いている。


 誰も触れていないのに。


 祐一は黒板消しを握ったまま、その扉へと歩いた。

 その先に、“何か”があると、本能が告げていた。


 掃除用具入れの扉は、古い木製だった。

 だが、祐一が手をかけると、まるで新しい障子のように滑らかに開いた。


 中は暗かった。

 雑巾やバケツ、使い古されたモップが並ぶその奥。

 ふと足元を見ると、そこには、ありえないはずの“階段”が続いていた。


 それは、床板の隙間から覗くように現れていた。

 黒く、細く、地面へと溶け込んでいくような木の階段。


「……これは、夢か?」


 祐一はそう呟いたが、心は妙に冴えていた。

 手にした黒板消しの感触が、現実をつなぎとめていた。


 意識が半ば切り離されたような不思議な感覚のまま、彼はゆっくりと階段を降りていった。


 階段を下りるたびに、足音は吸い込まれるように消え、空気が柔らかくなっていく。

 まるで、何もかもが音を立てずに沈んでいく深海のようだった。


 やがて視界が開けた。

 そこは、常夜の庭だった。


 夜なのに冷たさがなく、光源がないのに灯されたような空間。

 苔むした石畳の奥に、小さな社が静かに佇んでいた。

 その前に立つのは――ひとりの少年。


 短い黒髪。制服にも似た衣装。

 その顔立ちは、あまりにも見覚えがありすぎて、祐一の呼吸が止まりかけた。


「……祐介……?」


 輪郭。まなざし。口元の笑み。

 ほんのわずかな違いはあっても、祐一の記憶にある“彼”とあまりに似ていて――

 理屈では説明できない感情が、胸の奥からせり上がってきた。


 思わず名を呼ぶ。けれど、少年は首をかしげた。


「ぼくは、ここに来た人の“願い”を受け取る者です。

 祐介……というのは、あなたの知る誰かの名ですか?」


 その声音には、責めるような色はなかった。

 ただ事実を尋ねるような、静けさがあるだけだった。


 祐一は言葉を失い、しばらく立ち尽くした。

 やがて、少年の瞳がまっすぐに祐一を見つめる。


「あなたは、何を願って、ここに来たのですか?」


 その問いは、まるで黒板に残ったチョークの言葉を、消すように優しかった。


 少年の瞳は、揺れていなかった。

 けれど、それは冷たさではなく、深い湖の底のような静けさだった。

 祐一は、気づかぬうちにその視線から目を逸らしていた。


「願い、か……」


 祐一は手にしていた黒板消しを見つめた。

 それはひび割れて、粉をかぶって、今にも崩れそうだった。


 あの教室の隅で、どれだけの怒りを抱いてきたのか。

 “誰か”にぶつけることもできないまま、自分の中で何度も焼き直して、形を変えて――

 それでも、怒りと後悔は、消えることがなかった。


「俺は……赦したいんだと思う」


 吐き出すように言った。

 その言葉を口にした瞬間、何かが音もなく剥がれ落ちたような気がした。


「俺は、ずっと怒ってた。アイツの死を、誰のせいにすることもできなくて。

 自分にも腹が立って。……それなのに、時間だけが過ぎていって、

 気づいたら、アイツの顔さえ、思い出せなくなってきてて……」


 少年は黙って聞いていた。

 何も言わず、ただ、受け止めるようにそこにいた。

 祐一は、何度か口を開いては、言葉を飲み込んだ。

 胸の奥に、まだ名もない感情が引っかかっていた。

 それでも、言葉にしなければ前に進めない。

 そう思って、ようやく絞り出すように言った。


「だから、願いは……“赦すこと”。

 他人も、自分も。……祐介も。……もう、怒りたくないんだ」


 その声には、迷いもためらいもあった。

 それでも、祐一は、最後まで言い切った。


 少年は頷くと、社の奥から白い杯を取り出して差し出した。


「それでは、“契約”を結びましょう。

 この杯に、あなたの“怒りと後悔の記憶”を注いでください。

 それが私に渡されたとき、あなたの願いは叶います」


 祐一は、そっと黒板消しを杯の上にかざした。

 すると、粉のようなものが舞い上がり、杯の中にゆっくりと沈んでいく。


 その“粉”は、記憶の残滓だった。

 怒りと痛み。悔いと罪。赦せなかった時間たちが、静かに杯へと吸い込まれていく。


 やがて、杯の中が満ちたとき――

 少年はそれを受け取り、深く頭を下げた。


「願い、確かに受け取りました。

 これにより、あなたの“怒りと後悔”は、記憶から失われます。

 けれど、その手放した想いが、“祈りのかたち”として残りますように」


 その言葉に、祐一はそっと目を閉じた。


 涙は流れなかった。

 ただ、長い冬が静かに終わったような、そんな感覚が胸に広がっていた。


 朝の光が、教室の窓を静かに染めていた。

 高槻祐一は、黒板の前に立っていた。


 出勤してからの流れは、いつもと変わらないはずだった。

 けれど、何かが――決定的に、違っていた。


 教卓の上に置かれた黒板消しは、いつの間にか新品になっていた。

 白く、形も整い、どこにも割れ目がなかった。


 (……あれ?)


 違和感は、確かにあった。

 昨日まで使っていた黒板消しがどうなったのか、思い出せなかった。


 それだけではない。


 手を止めたとき、自分がなぜこうして朝の教室に立ち尽くしていたのか、

 その理由さえも、うまく言葉にならなかった。


 何か、大切なことを忘れたような感覚。

 けれど、それは決して苦しいものではなかった。


 胸の奥が、すうっと静まっていた。

 まるで、長年刺さっていた棘が、ふと抜け落ちていたような。


 黒板の隅に、誰かが書いた文字があった。


 ──「春は、まっさらな言葉からはじまる。」


 いたずら書きだろうか。

 それとも昨日の生徒の残りか。

 どちらにせよ、祐一は思わず笑ってしまった。


「まったく……」


 どこか懐かしいその言葉に、祐一の胸の奥にぽっと灯りがともる。


 何を赦したのか、何に怒っていたのか。

 それはもう、思い出せない。

 けれど、それでも――


 “何かを手放して、前へ進んだ”という実感だけが、確かに残っていた。


 まるで、昨日よりも今日の空が広くなったような、そんな朝だった。




 社の奥、常夜の灯籠が照らす石棚の前に、主は静かに立っていた。

 手には、粉ひとつ残さず白くなった黒板消しがある。


 ひび割れも汚れも、すでにそこにはない。

 それでも、そこには確かに“何かを消した記憶”が染み込んでいた。


 主は、ゆっくりと黒板消しの蓋を開くように、指先でその表面をなぞる。


「怒りも、後悔も。

 それらは記憶にとっての重しだったのでしょう。

 でも、重しを外しても、その人の軸は、ちゃんと立ち続けるのですね」


 呟く声は、誰にも届かない。

 けれど、それは決して虚ろではなかった。


 棚の奥には、すでにいくつもの“記録”が並んでいる。

 空の瓶。名札。ペンダント。

 それぞれが、誰かの“本質”だったもの。


 主は、白くなった黒板消しを、空いた隙間へそっと置いた。

 触れた指先から、かすかに風が抜けた気がした。


 まるで、長いあいだ閉じられていた扉が、そっと開かれたようだった。

 その風は、誰かの胸の奥に、やさしく春を告げるように吹いていた。


 そして、棚の上に置かれた帳面を開く。

 墨のような文字が、紙の上をすべるように浮かびあがる。


 記録 一千三百四話

 『境界の庭』

 → 対価:「怒りと後悔の記憶」

 → 願い:「かつて憎んだ相手を赦したい」

 → 状態:完了


 主は目を伏せ、そっと帳面を閉じた。


「これでようやく……新しい言葉が、書ける」


 その言葉とともに、棚の奥で、白い黒板消しがふとひときわ静かに光った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ