第4話「境界の庭」
午後五時、チャイムが鳴り終わった後の教室は、嘘のように静かだった。
窓から差し込む夕陽が、廊下のガラス戸を朱に染めている。
季節は春のはじまり。けれど、風にはまだ冷たさが残っていた。
高槻祐一は、無人の教卓の前に立ち尽くしていた。
指先で、何度も黒板の縁をなぞる。チョークの粉が、爪の間にこびりついていた。
「……もう、七年も経つのか」
思い出の中の教室は、時間だけが止まったように、いつもあの春のままだった。
夕陽の角度も、窓の外の景色も、声をかけてくる生徒の姿も――全てが、昨日のことのように浮かんでくる。
なのに、自分だけが取り残されている気がして、胸の奥が苦しくなった。
小さく吐き出した独白は、誰にも届かない。
七年前、祐一はこの学校に赴任したばかりだった。
あの年、受け持ったクラスにいた一人の少年のことを、いまだに忘れられずにいる。
明るく、快活で、でもどこか無理をして笑っていたような少年。
その少年がある日、自ら命を絶った。
遺書はなかった。
いじめの痕跡も、教員間の記録にも、それらしいものは見つからなかった。
だが、祐一は知っていた。
“何か”があったことを。
そして、それを見抜けなかった自分を、赦せずにいた。
それだけじゃない。
彼を追い詰めた何か――誰かを、祐一は、いまも強く憎んでいた。
それが誰だったのかも、実ははっきりしない。
けれど、彼の死に“無関係だった者など一人もいない”という思いが、祐一の胸を焦がしていた。
「赦したいわけじゃない。忘れたいわけでもない。
でも、このまま……あの子を怒りの記憶で上書きしたまま、生きていくのか……?」
言葉に出した途端、その重みが自分に跳ね返ってきた。
誰のせいでもなく、自分自身が、いちばんその怒りに縛られていたことに気づいてしまった。
ふと、目に留まったのは、教室の隅に置かれた黒板消しだった。
よく見ると、それはひび割れていた。
こんなに欠けていたのに、ずっとそのまま使っていたことに気づかなかった。
黒板消しを手に取ると、粉が舞った。
何かが崩れるような、ざらりとした音が耳の奥を叩いた。
──その瞬間、祐一の視界が、静かに、ゆがんだ。
まるで空気の層がめくれたような感覚。
教室の隅にある掃除用具入れの扉が、いつのまにかわずかに開いている。
誰も触れていないのに。
祐一は黒板消しを握ったまま、その扉へと歩いた。
その先に、“何か”があると、本能が告げていた。
掃除用具入れの扉は、古い木製だった。
だが、祐一が手をかけると、まるで新しい障子のように滑らかに開いた。
中は暗かった。
雑巾やバケツ、使い古されたモップが並ぶその奥。
ふと足元を見ると、そこには、ありえないはずの“階段”が続いていた。
それは、床板の隙間から覗くように現れていた。
黒く、細く、地面へと溶け込んでいくような木の階段。
「……これは、夢か?」
祐一はそう呟いたが、心は妙に冴えていた。
手にした黒板消しの感触が、現実をつなぎとめていた。
意識が半ば切り離されたような不思議な感覚のまま、彼はゆっくりと階段を降りていった。
階段を下りるたびに、足音は吸い込まれるように消え、空気が柔らかくなっていく。
まるで、何もかもが音を立てずに沈んでいく深海のようだった。
やがて視界が開けた。
そこは、常夜の庭だった。
夜なのに冷たさがなく、光源がないのに灯されたような空間。
苔むした石畳の奥に、小さな社が静かに佇んでいた。
その前に立つのは――ひとりの少年。
短い黒髪。制服にも似た衣装。
その顔立ちは、あまりにも見覚えがありすぎて、祐一の呼吸が止まりかけた。
「……祐介……?」
輪郭。まなざし。口元の笑み。
ほんのわずかな違いはあっても、祐一の記憶にある“彼”とあまりに似ていて――
理屈では説明できない感情が、胸の奥からせり上がってきた。
思わず名を呼ぶ。けれど、少年は首をかしげた。
「ぼくは、ここに来た人の“願い”を受け取る者です。
祐介……というのは、あなたの知る誰かの名ですか?」
その声音には、責めるような色はなかった。
ただ事実を尋ねるような、静けさがあるだけだった。
祐一は言葉を失い、しばらく立ち尽くした。
やがて、少年の瞳がまっすぐに祐一を見つめる。
「あなたは、何を願って、ここに来たのですか?」
その問いは、まるで黒板に残ったチョークの言葉を、消すように優しかった。
少年の瞳は、揺れていなかった。
けれど、それは冷たさではなく、深い湖の底のような静けさだった。
祐一は、気づかぬうちにその視線から目を逸らしていた。
「願い、か……」
祐一は手にしていた黒板消しを見つめた。
それはひび割れて、粉をかぶって、今にも崩れそうだった。
あの教室の隅で、どれだけの怒りを抱いてきたのか。
“誰か”にぶつけることもできないまま、自分の中で何度も焼き直して、形を変えて――
それでも、怒りと後悔は、消えることがなかった。
「俺は……赦したいんだと思う」
吐き出すように言った。
その言葉を口にした瞬間、何かが音もなく剥がれ落ちたような気がした。
「俺は、ずっと怒ってた。アイツの死を、誰のせいにすることもできなくて。
自分にも腹が立って。……それなのに、時間だけが過ぎていって、
気づいたら、アイツの顔さえ、思い出せなくなってきてて……」
少年は黙って聞いていた。
何も言わず、ただ、受け止めるようにそこにいた。
祐一は、何度か口を開いては、言葉を飲み込んだ。
胸の奥に、まだ名もない感情が引っかかっていた。
それでも、言葉にしなければ前に進めない。
そう思って、ようやく絞り出すように言った。
「だから、願いは……“赦すこと”。
他人も、自分も。……祐介も。……もう、怒りたくないんだ」
その声には、迷いもためらいもあった。
それでも、祐一は、最後まで言い切った。
少年は頷くと、社の奥から白い杯を取り出して差し出した。
「それでは、“契約”を結びましょう。
この杯に、あなたの“怒りと後悔の記憶”を注いでください。
それが私に渡されたとき、あなたの願いは叶います」
祐一は、そっと黒板消しを杯の上にかざした。
すると、粉のようなものが舞い上がり、杯の中にゆっくりと沈んでいく。
その“粉”は、記憶の残滓だった。
怒りと痛み。悔いと罪。赦せなかった時間たちが、静かに杯へと吸い込まれていく。
やがて、杯の中が満ちたとき――
少年はそれを受け取り、深く頭を下げた。
「願い、確かに受け取りました。
これにより、あなたの“怒りと後悔”は、記憶から失われます。
けれど、その手放した想いが、“祈りのかたち”として残りますように」
その言葉に、祐一はそっと目を閉じた。
涙は流れなかった。
ただ、長い冬が静かに終わったような、そんな感覚が胸に広がっていた。
朝の光が、教室の窓を静かに染めていた。
高槻祐一は、黒板の前に立っていた。
出勤してからの流れは、いつもと変わらないはずだった。
けれど、何かが――決定的に、違っていた。
教卓の上に置かれた黒板消しは、いつの間にか新品になっていた。
白く、形も整い、どこにも割れ目がなかった。
(……あれ?)
違和感は、確かにあった。
昨日まで使っていた黒板消しがどうなったのか、思い出せなかった。
それだけではない。
手を止めたとき、自分がなぜこうして朝の教室に立ち尽くしていたのか、
その理由さえも、うまく言葉にならなかった。
何か、大切なことを忘れたような感覚。
けれど、それは決して苦しいものではなかった。
胸の奥が、すうっと静まっていた。
まるで、長年刺さっていた棘が、ふと抜け落ちていたような。
黒板の隅に、誰かが書いた文字があった。
──「春は、まっさらな言葉からはじまる。」
いたずら書きだろうか。
それとも昨日の生徒の残りか。
どちらにせよ、祐一は思わず笑ってしまった。
「まったく……」
どこか懐かしいその言葉に、祐一の胸の奥にぽっと灯りがともる。
何を赦したのか、何に怒っていたのか。
それはもう、思い出せない。
けれど、それでも――
“何かを手放して、前へ進んだ”という実感だけが、確かに残っていた。
まるで、昨日よりも今日の空が広くなったような、そんな朝だった。
社の奥、常夜の灯籠が照らす石棚の前に、主は静かに立っていた。
手には、粉ひとつ残さず白くなった黒板消しがある。
ひび割れも汚れも、すでにそこにはない。
それでも、そこには確かに“何かを消した記憶”が染み込んでいた。
主は、ゆっくりと黒板消しの蓋を開くように、指先でその表面をなぞる。
「怒りも、後悔も。
それらは記憶にとっての重しだったのでしょう。
でも、重しを外しても、その人の軸は、ちゃんと立ち続けるのですね」
呟く声は、誰にも届かない。
けれど、それは決して虚ろではなかった。
棚の奥には、すでにいくつもの“記録”が並んでいる。
空の瓶。名札。ペンダント。
それぞれが、誰かの“本質”だったもの。
主は、白くなった黒板消しを、空いた隙間へそっと置いた。
触れた指先から、かすかに風が抜けた気がした。
まるで、長いあいだ閉じられていた扉が、そっと開かれたようだった。
その風は、誰かの胸の奥に、やさしく春を告げるように吹いていた。
そして、棚の上に置かれた帳面を開く。
墨のような文字が、紙の上をすべるように浮かびあがる。
記録 一千三百四話
『境界の庭』
→ 対価:「怒りと後悔の記憶」
→ 願い:「かつて憎んだ相手を赦したい」
→ 状態:完了
主は目を伏せ、そっと帳面を閉じた。
「これでようやく……新しい言葉が、書ける」
その言葉とともに、棚の奥で、白い黒板消しがふとひときわ静かに光った。