第3話「愛の輪郭」
押し入れの奥から、古い埃と乾いた木の匂いが立ちのぼった。
それは、長いあいだ閉じ込められていた記憶の匂いでもあった。
柴崎初枝は、畳の上に小さなアルバムを広げながら、ゆっくりとページをめくっていた。
写真の角は黄ばんでいて、台紙の粘着力はすっかり失われていた。
それでも、写真たちはまだそこにいて、彼女の人生を静かに証言していた。
「……あら、このときはまだ、髪が真っ黒だったわね」
くす、と笑う。
若いころの自分と、隣に立つ――夫、義夫の姿。
少し照れくさそうな顔で肩を組んでいる写真。
その背景には、小さな喫茶店のカウンターが写っている。ふたりで始めたあの店だ。
義夫が亡くなって、もう七年が経つ。
最初の三年は泣いて過ごした。四年目からは忘れたふりを覚えた。
五年、六年、七年……その間に、写真の中の彼の名前を、思い出すのに時間がかかるようになった。
「ねえ、あなた。私、本当に、あなたのこと、ちゃんと覚えているのかしら」
そうつぶやいたとき、声はかすかに震えていた。
感情ではなく、記憶そのものが揺れている気がした。
あんなに好きだったのに。
ずっと一緒にいたのに。
どうしてこんなにも、人の記憶というのは、薄れていってしまうのだろう。
初枝は、机に置いてあった小さなロケットペンダントを手に取った。
開けば、中には古びた写真がひとつ。若いころの義夫が、穏やかな顔で笑っている。
でも――なぜかその顔が、今の彼女には“別の誰か”に見えた。
指先が、そっとペンダントを閉じる。
けれど、もう何年も前に壊れていたロックがうまく噛み合わず、ふたはわずかに浮いたままだった。
「……愛していたのにねえ」
静かな部屋。時計の針の音が、ぴたりと止まったように思えた。
その瞬間、アルバムから写真が一枚、ひらりと落ちた。
拾おうと身をかがめた初枝は、ふと、押し入れの奥に“見慣れないもの”を見つける。
そこには、小さな、木の扉があった。
まるで昔話の中に出てくるような、素朴で、手作りのような扉。
不思議と恐れはなかった。ただ、「行かなければ」と思った。
ペンダントを首にかけ服の中に戻し、初枝は扉へ手を伸ばす。
扉は、何の抵抗もなく、静かに開いた。
扉を開けた瞬間、押し入れの中にあったはずの空間は消えていた。
その先には、まるで時代の違う景色が広がっていた。
土の匂い。石畳の小道。
古い木の灯籠が、ほのかな明かりをともしている。
遠くで小川のせせらぎのような音がして、夜なのか昼なのかもわからない空の下に、ぽつんと小さな社が佇んでいた。
「……あらまあ」
初枝は驚くというよりも、懐かしいものを見つけたような表情で、すっとその場に立ち尽くした。
不自然なはずなのに、不安はなかった。
夢を見ているときのように、現実との境がふわりと曖昧になっていた。
それに、この静けさが――どこか、義夫と一緒にいた喫茶店の開店前の空気を思い出させた。
一歩、踏み出す。
白い足袋のような感覚で、草履も履いていないはずなのに、足元は冷たくなかった。
鳥居のような木枠をくぐると、音が変わった。
外の空気が閉じて、この社だけが世界のすべてになったような錯覚。
社の前に、ひとりの若者が立っていた。
和装とも洋装ともつかない、淡い色の衣を纏い、黒い髪をすっと背に流している。
その顔立ちには、若き日の義夫の面影があった。
けれど、それは彼ではないと、初枝はすぐにわかった。
目の奥に人間の温度がなかった。
それでも、冷たいわけではない。空のような目をしていた。
「いらっしゃい」
その人が言った。
声は、やわらかく、懐かしい香のように心にしみ込んだ。
初枝は驚かず、ただ笑ってうなずいた。
「……あなたが、“ここの方”なのね」
「はい。私は、“願いを受け取る者”です」
「あなたが、“忘れたくない何か”を抱えている限り、ここへ辿り着くのは自然なことでした」
初枝は胸元に手をやった。
ロケットペンダントが、あたたかくなっていた。
「……そうね。忘れるのが、こわくなったのよ。
忘れてしまったら、私は本当に、あの人と一緒に生きていたのかすら、わからなくなるでしょう?」
主は目を伏せた。
その沈黙が、初枝の言葉を肯定していた。
「だから、ほんの少しでいいの。
私が、あの人を、どれだけ愛していたかだけを、残したいの。
それが残っていれば、もう……あとは、忘れてしまっても、いいのよ」
声は震えていなかった。
まるで“終わり”を、自分の手で整えていくような、静かな決意があった。
主はゆっくりと社の奥へと歩き、やがて、手に何かを携えて戻ってくる。
それは、見慣れた――白い杯だった。
主が差し出した杯は、真珠のような白磁の器だった。
飾り気のない、ただそれだけの形。けれど、それはどんな装飾よりも美しく思えた。
「あなたの願いは、“愛していたことを残す”こと。
そのために、この杯に、あなたの“愛の記憶”を注いでいただきます」
初枝は主の言葉を受け止めながら、そっと頷いた。
「愛の……記憶を?」
「はい。想い出、手触り、香り、呼び方、触れた温度……
“あなたが、あの人をどう愛したか”という記憶そのものを。
それを私が受け取ることで、願いは叶います」
主の言葉は穏やかだったが、その響きには一片の迷いもなかった。
それがこの社の“約束”なのだと、初枝には理解できた。
「……それを、あなたに渡してしまったら、私は――」
「はい。あなたの記憶から、“あの人を愛していた”という感情そのものが、静かに失われていきます。
けれど、“愛した記録”は、かたちとして残ります。
あなたの願いのとおり、“忘れても、失われない”ものとして」
初枝はしばし、胸元のペンダントを握りしめた。
中には、夫の写真が入っている。
けれどその顔は、今やぼんやりとしか思い出せない。
名前も、声も、笑い方も、少しずつにじんでいく。
そして、初枝はゆっくりとペンダントを開いた。
写真を取り出し、掌にのせる。
「じゃあ、お願いね」
その言葉は、とても静かで、あたたかかった。
主は杯を差し出す。
初枝が手をかざすと、写真が一陣の風に乗って杯の中へと吸い込まれていく。
同時に、胸の奥に刺さっていた何かが、ふっとほどけていくような感覚があった。
泣きそうにはならなかった。
ただ、“終わり”が整った気がした。
主は、杯を両手で受け取り、深く一礼する。
「願い、確かに受け取りました。
これより、あなたの“愛”は、ひとつのかたちとして保管いたします」
初枝は目を細めて微笑む。
「あなた、不思議な人ね。……でも、ありがとう」
主は何も答えず、ただその笑みに静かに目を伏せた。
朝、ゆっくりと目を覚ますと、障子の隙間から陽の光が差し込んでいた。
柴崎初枝は、枕元で時計の音が静かに刻まれていることに、どこか懐かしさのようなものを感じていた。
昨日と変わらぬ朝。けれど、どこかが少し、違っていた。
押し入れの前には、散らばっていたアルバムがきちんと積み重ねられていた。
ひとつだけ、開かれたままのページに、ペンダントの写真が貼られている。
「あら……」
初枝は、そっとペンダントを手に取った。
何十年も肌身離さず持っていたそれ。けれど――
開いてみても、中身は空だった。
ロケットの蓋は、もう完全に壊れていた。
写真はどこにもなかった。
それがどうしてなのか、初枝には思い出せなかった。
けれど、不思議と、何の不安もなかった。
胸の奥に、ぽっかりと空いたような感覚。
けれど、それは“喪失”ではなく、むしろ静かな“終わり”に似ていた。
台所でお湯を沸かし、湯飲みに茶葉を落とす。
湯気のたつ音。いつも通りの朝。
初枝は、ふと、テーブルの上に置いてあった一枚の名刺に目を留めた。
名前の欄が、にじんで読めなくなっている。
けれど裏返してみると、そこには手書きの文字があった。
──「お元気でいてください。お店のお茶、また飲みたいです」
それを見た瞬間、初枝の口元がふっと綻んだ。
それが誰からだったかは思い出せない。
けれど、自分が誰かに“何かを残せていた”ことが、嬉しかった。
名前も顔も忘れてしまった誰かが、
たしかに、自分の淹れた一杯に微笑んでくれたこと。
それだけが、心にふわりと残っていた。
「……そうね。あの人も、そうだったのかもしれないわね」
自分で誰のことを言ったのかも、わからなかった。
けれど、口にした瞬間だけ、胸の奥にあたたかい火が灯ったようだった。
棚のあいだを、主が静かに歩いていた。
その足取りは風も立てず、ゆっくりだった。
手には、ひとつのペンダントがある。
古びていて、ロックはもう壊れている。
開けば中は空。けれど、そこには確かに“何か”が宿っていた。
主は、そっとペンダントの蓋を開ける。
音はしない。けれど、どこかで指輪の重なり合うような微かな金属音が、空気の底に響いた。
それは、忘れられた“記憶の音”。
愛し、愛された者が交わした、小さな約束の余韻。
主は指先で、空の中をなぞる。
写真も言葉も残されていないその空間に、かすかにあたたかな気配があった。
「……忘れるということは、捨てることじゃない。
記憶の形を手放しても、想いは、こうして残るんだね」
その声は、自分に言い聞かせるようでもあり、どこか遠くに届く祈りのようでもあった。
主はペンダントを閉じる。
その蓋がぴたりと重なった瞬間、小さな音が鳴った。
カチリ
それは、終わりではなく、想いが“形”として留まったことを告げる音だった。
主はペンダントを、棚のひとつにそっと置く。
隣には、空の瓶や白紙の名札たちが並んでいた。
それぞれが、誰かの“本質”だったもの。
そして、主は帳面を開く。
墨のような文字が、紙の上に静かににじむ。
記録 一千三百三話
『愛の輪郭』
→ 対価:「愛した記憶そのもの」
→ 願い:「その想いだけは、確かな形で残したい」
→ 状態:完了
主はゆっくりと帳面を閉じると、灯籠の明かりを見上げた。
その光は、微かに揺れていた。
けれど、決して消えることはなかった。