第2話「名もなき、君へ」
誰かが誰かを呼ぶ声が、街の中に溶けていく。
その音の中に、自分のものはなかった。
駅のホーム。人の波に押されるように、レンは階段を上がった。
名札はない。社員証もぶらさげていない。誰にも名乗ったことはない。
職場では「あの人」「そこの子」と呼ばれる。返事をしても、されなくても、何も変わらない。
名を持たないまま、今日も一日が終わる。
「レン」は仮の名前だ。
高校時代、出席番号が“れ”行に近かったから、呼ばれるようになった。それだけの理由。
それでも、呼ばれれば返事をした。いつしかそれが“自分”として馴染んでいた。けれど、それは名ではなく、識別の音に過ぎなかった。
育った施設では、何度も名前が変わった。
保護者の名、里親の名、苗字だけの呼び名、番号。
書類では“○○”という名前だった気がするが、記憶の中では曖昧だ。
本当の名前――誰かに最初に呼ばれた音が、思い出せない。
携帯の連絡帳に登録された自分の名前は空白だ。
「自分で入力してください」というメッセージだけが、いつまでも残っている。
改札を抜け、レンはひと気のない裏路地へと抜けた。
決まった帰り道ではなかった。けれど、その日、どうしても人混みに混ざる気になれなかった。
人波を避けるように、無意識のうちに足が横道へ逸れていた。
まるで“このまま自分だけ、どこか別の世界に取り残されてしまう”ような気がして、
そんな感覚が、なぜか心地よくすらあった。
「……」
ふいに、誰かが自分を呼んだ気がした。
振り返ると、数メートル先に立っていた初老の女性が、携帯で話しているだけだった。
そうか、と胸の奥が冷めたようになる。
今の声は、自分に向けられたものではなかったのだ。
──本当に、もう“誰にも”呼ばれないのかもしれない。
そう思った瞬間、風がひゅうと横を通り抜けた。
振り向いたときには、道の色が変わっていた。
アスファルトが石畳に変わり、街灯がぽつぽつと和紙の灯籠に置き換わっていた。
立ち並ぶ建物も、よく見れば、見覚えのない屋根の形をしている。
こんな道、あっただろうか。
戸惑いながらも、足は自然に前へと進む。
まるで、ここだけが自分の名前を知っている場所のような気がしたからだ。
道はどこまでも静かだった。
石畳は濡れているわけでもないのに、足音が吸い込まれていく。
空気はひどく澄んでいて、どこか懐かしい土の匂いがした。
レンはゆっくりと歩を進めた。
道の両側に建っている家々には灯りがなく、けれど不思議と怖さはなかった。
むしろ、自分を拒んでいない、という曖昧な安堵があった。
やがて、道が途切れた先に――
ぽつんと、一本の鳥居が現れた。
朱色ではなく、薄墨色。
古びていて、木目は風雨に晒され、節々が剥き出しになっていた。
その奥に、灯籠が二つ。石段。社。
それは、どこにでもあるようで、どこにもないような、
**“社”**だった。
レンは、足を止めた。
何かを思い出しそうな気がした。
でも、それが何かはわからなかった。
胸の奥に、形を持たない焦燥のようなものがじわりと広がる。
それは、たとえば夢の中で誰かに名前を呼ばれているのに、
どうしてもその声が思い出せないような――そんな、喉の奥がひりつく感覚だった。
「……」
鳥居をくぐると、空気が変わった。
背後で音がなくなった。街の気配が断たれた。
代わりに、小さな水音が聞こえる。どこかで泉が湧いているのかもしれない。
社の前には誰もいない。
けれど、たしかに“誰か”がここにいる気配だけがあった。
レンは境内の中央に立ち、辺りを見回した。
そのとき、社の奥からふっと人影が現れた。
それは――
昔、絵本の中で見た「物語の中の王子」にそっくりだった。
長い髪、整った顔立ち、白い衣。
けれど目元にはどこか陰があり、その微笑みには悲しみが滲んでいた。
「ようこそ」
静かな声だった。
やさしく、それでいて、自分の内側にまっすぐ届く音。
レンは言葉を発せなかった。
問いかけるよりも先に、その人物がゆっくりと歩み寄ってくる。
「ここは、“そういう人”だけが来られる場所。
君が来たのも、きっと……名前を、欲しているからだ」
なぜそれを、とレンは思う。けれど、言葉にはならない。
その沈黙すら、彼は受け止めるように微笑んだ。
「君の願いを聞かせてほしい」
彼の声が、まるで名を呼ぶように――
“誰にも呼ばれなかった人生”に、初めて音を与えるように響いた。
王子のような姿をした青年――主は、社の縁側に腰を下ろした。
傍らには、装飾のない白い杯が置かれている。
レンはその前に立ち尽くした。
自分でも整理できていない思いが胸の奥に渦巻いていた。
“名前がほしい”のか、“名前がいらない”のか。
それさえ、もうよくわからなかった。
「名を持たないまま、生きてきたんだね」
主がそう言ったとき、レンの目がかすかに揺れた。
語られなかった過去を、まるで読まれているようで心がざわついた。
「名を与えられたことはあった。けれど、それは“誰かが使いやすいようにつけた音”だった。
君が、自分として名乗ったことは、なかったんだ」
レンは無言で頷く。
「人は、自分の名前を通して世界と繋がる。
誰かが呼んでくれること、自分がその名で応えること――
それが“存在を持つ”ということだ」
主の言葉には、断定ではなく、祈りのような優しさがあった。
「君は、名を欲している。
でも本当に望んでいるのは、誰かに“その名で呼ばれること”なんだ」
レンの肩がわずかに落ちた。
たしかに、その通りだった。
音だけの名ではなく、自分という存在を“受け止めてくれる誰か”がほしかった。
主は白い杯をそっと持ち上げた。
「私が、君に名を与えることはできる。
けれどその代わりに――君が“これまでに呼ばれてきたすべての名前”をもらうよ」
レンの眉が動いた。
「ニックネーム、あだ名、書類に記された名前、職場での呼ばれ方……
それらすべて、“君が誰かに存在として扱われた記憶”だ。
それを差し出すことで、君は**“ただ一つの名前”を手に入れる**」
「ただし、それを呼ぶ人は、もう誰もいないかもしれない。
それでも、“君がそれを名乗る”という選択をするかい?」
レンは少しの間、目を閉じた。
心の中に、誰かの声がこだました。
けれど、それが誰の声だったか思い出せない。
もうその記憶も、輪郭さえも曖昧だった。
それでも。
ようやく、自分の声で、答えが出せた。
「……ほしい。……それが、自分なら」
かすれた声だったが、確かに音になった。
主は頷き、杯をレンの前に差し出す。
その瞬間、風が止まった。
空気が、社の中だけで密閉されたように重たくなる。
レンが両手で杯を持ったとき、胸の奥で何かが弾けた。
泡のように浮かび上がった記憶の中には、
どこかで確かに、自分を見つめていた誰かの目があった気がする。
けれど、それすらも霧散していく。
名前とともに、その記憶までもが溶けていく。
忘れていたはずの“呼ばれ方”たちが、次々と泡のように浮かんでは消えていく。
○○ちゃん、××くん、番号、書類名、過去のあだ名――
それらすべてが、霧のように薄れていく。
最後に残ったのは、一枚の紙片だった。
そこには、筆で書かれたようなやわらかな文字で、ひとつの名前が記されていた。
目を覚ますと、朝だった。
レンは、自分の部屋にいた。
薄く光が差し込むカーテン越しに、鳥の声が響いている。
けれどその音も、どこか現実味がなかった。
まるで“夢の中の朝”にいるような感覚だった。
手元に、一枚の紙があった。
何の装飾もない、白い和紙。そこに筆文字で書かれた名前が、静かに存在していた。
──「蓮」
たしかに自分の字ではない。
けれど、その音を口の中で転がしてみると、不思議としっくりと馴染んだ。
“レン”と呼ばれていた自分が、ようやく意味を持った音になったような気がした。
鏡の前に立って、「蓮」と口の中で呟こうとすると声にする前に、一瞬、喉がつまった。
音にすれば、その名が“本物”になってしまうようで――
けれど、それでも、胸の奥がその名を欲していた。
声に出したその響きが、胸の奥に染み込んでいく。
それは、誰かから与えられた音ではない。
誰かが使いやすいようにつけた名でもない。
たしかに、自分が“これでありたい”と感じた音だった。
駅へ向かう途中、顔見知りのコンビニ店員とすれ違った。
「おつかれ」とだけ言われたが、名前は呼ばれなかった。
同僚に会っても、「おー、来てた?」とだけ言われる。
自分が“蓮”であることを、誰も知らない。けれど、今はそれでいいと思えた。
帰宅後、携帯のプロフィール欄を久しぶりに開く。
空白だった名前の欄に、蓮は静かに文字を打ち込んだ。
──蓮
保存ボタンを押すと、画面にふっと明かりが灯った気がした。
画面の中の自分の名。それが初めて、**“自分自身で書いた名”**になった。
社の奥。
静かな帳の中で、主はゆっくりと歩を進めていた。
音のない空間に、灯籠の光がふたつ、ゆらゆらと揺れている。
左右にはずらりと並ぶ棚。そこに収められているのは、名札や瓶、鏡、花、紙片、記録帳……
すべて、“その人がその人であること”を手放した証。
主は一段、棚を見上げる。
目の前には、ひとつの名札が置かれていた。
それは――白紙だった。
けれど、近づいていくうちに、墨がにじむように文字が浮かび上がる。
──「蓮」
たったひとつの音。
記録された瞬間に、消えていった名。
けれどそれは、確かに一度、誰かの中で光った音だった。
主はその名札を手に取り、指先でなぞる。
すでに墨は乾いていて、もう誰にも読めない。
ただ、触れた者だけが、その“名の重さ”を知ることができる。
「君は、ようやく自分で選んだ」
独り言のように、主がつぶやいた。
その声には、どこか安堵の色があった。
名札を棚に戻すと、主は帳面を開く。
筆を取らずとも、文字が自然とにじみ出る。
記録 一千三百二話
『名もなき、君へ』
→ 対価:「過去すべての名付けの記憶」
→ 願い:「名前がほしい」
→ 状態:完了
主は帳面を閉じ、灯籠の下でひとつ、目を閉じる。
蓮という名を、呼ぶ者はまだいない。
けれど、その音はもう、彼の中に根を張っている。
それだけで、きっと、十分なのだ。