第1話「声をあげる日」
窓の外で風が鳴いていた。
教室のカーテンがわずかに揺れ、端の席に座る花瀬千咲の髪をかすめる。
昼休みの終わり、誰も話しかけてこない静かな時間。廊下からは笑い声や足音が流れてくるけれど、その音もどこか遠い。千咲は膝の上に手を置いたまま、ただ目の前の景色をぼんやりと見つめていた。
声を失って、半年が経った。
事故だった。大きなものではなかったけれど、喉に小さな傷を負い、それが想像以上に深く残った。治療は受けた。けれど、声は戻らなかった。医師の言葉も、リハビリも、どれも“可能性”の話ばかりで、確かなものは何ひとつ与えてくれなかった。
最初は心配してくれたクラスメイトも、今ではすっかり「声の出ない子」として距離を置いている。
千咲自身も、もう積極的に関わろうとは思わなくなっていた。笑っているふりの表情に、自分でさえ飽きてしまう。
歌いたかったな。
それがふいに浮かんだ。
声が出ていたころ、自分はもっと自由だった。歌にだけは、自分の気持ちを預けることができた。
母が褒めてくれた、あの日の記憶だけが胸の奥にしがみついている。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、千咲は静かに席を立った。誰も呼ばないし、誰にも待たれていない。校門を出て、誰とも目を合わさずに帰路につく。
自宅に戻ると、鞄を床に置き、制服のままベッドに倒れ込んだ。
声を出す代わりに、スマホでかつて録音した歌を再生する。
──ラララ、わたしのこえが──
その歌声は、間違いなく自分のものだった。
高くもない。うまくもない。けれど、そこには確かに“自分”がいた。
今はもう出せない音だった。
涙がこぼれた。堪えようとしても、勝手に頬を伝って落ちていく。
画面を伏せようとして、ふと画面の隅に見慣れない通知があることに気づく。
──【位置情報:□□社】
──【ナビを開始しますか?】
押した覚えのないナビアプリが開かれていて、地図上には“社”としか書かれていない場所が光っていた。
現在地からはそう遠くない。それなのに、見たことも聞いたこともない地名だった。
千咲はスマホを握りしめたまま、はっと息を呑み、体を起こした。
理由なんて、うまく言えない。ただ――そこへ行かなければならない気がした。
スマホの画面には、あの通知がまだ残っている。まるで、どこかへ導こうとするように。
メッセージを残すこともなく、ただ玄関を出る。
夜の街は、ひときわ静かだった。
歩き慣れたはずの道が、見知らぬ国のように感じられる。
人気のない裏道に入り、スマホのナビを頼りに足を進めていく。
靴音だけが、舗装された道に乾いた音を落とす。
胸の奥にかすかな不安があった。けれど、それ以上に――
なにかに“呼ばれている”ような、不思議な確信があった。
気づけば、住宅街を抜け、古びた石畳の路地に入っていた。
地図の中でしか見たことのないような細い道。誰かの家の隙間を縫うようにして続いている。
外灯は切れていて、月明かりとスマホの画面だけが道を照らしていた。
やがて、霧が出始める。
温かい夜の空気が、いつの間にか冷え始めていた。
──目的地はすぐそこです。
機械的な声が耳元で呟いた瞬間、千咲の視界が開ける。
小さな広場のような空間が、路地の先にぽっかりと口を開けていた。
そこには、ぽつんと一本の赤い鳥居が立っていた。
朱色のはずなのに、月光に照らされて白く見える。
その奥にあるのは、小さな社――
屋根の瓦はところどころ欠けている。狛犬は片方しかおらず、鈴も錆びついて動かない。
けれど、千咲の目にはそれがとても美しく映った。懐かしい、けれど知らないものに出会ったような、胸の奥をそっと撫でられる感覚。
一歩、足を踏み入れる。
空気が変わった。
風の音も、遠くの車の音も消えた。
世界が自分とこの社だけになったような、不思議な静寂が訪れる。
そのとき、社の前に「誰か」が立っていることに気づいた。
見覚えのある後ろ姿。背は少し高くて、制服のような服を着ている。
千咲は思わず足を止めた。
それは、声を失う前――心の中で想いを寄せていた、あのクラスメイトの少年に似ている。
その少年が、振り返る。
けれど、その目はどこか異質だった。
やわらかく笑っているのに、まるで“何も見ていない目”だ。
何かを思い出しそうで、でも思い出せない。
「ようこそ」
彼がそう言ったとき、千咲の鼓膜に――本当に久しぶりに、“誰かの声”が深く届いた。
千咲は、少年の前に立った。
けれど言葉は出ない。声が出せないことを、もう何度繰り返し思い知らされた。
しかし少年は、何も問わなかった。
ただ微笑んで、境内の石畳に腰を下ろすように手で示す。
戸惑いながらも、千咲は鞄からノートを取り出した。
何度も医師や教師と筆談してきた、それはもう身体の一部のようになっている。
──「ここは、どこですか?」
そう書くと、少年は「“社”だよ」とだけ答えた。
それが正式な名前なのか、それ以上の意味があるのかはわからない。けれど、その言い方に、どこか儀式めいた響きを感じた。
「願いがあるんでしょう?」
少年が言う。
その声音には、千咲がずっと誰かに欲しかった“肯定”が含まれていた。
“君は願ってもいい”という許しのような声。
千咲は少しだけ、ノートを強く握りしめた。
震える手で、もう一言を書く。
──「もう一度、歌いたいです」
少年はそれを見て、小さく息を吐いた。
どこか安堵したような、あるいは、何度も目にしてきたものに対する静かな感情のようだった。
「その願いは、叶えられる」
千咲の胸が跳ねた。
喉の奥が熱くなり、何かが込み上げてくる。
けれど、少年の声がそれを静かに押しとどめる。
「ただし――代償が必要だ」
一瞬、時間が止まったように思えた。
少年はゆっくりと立ち上がり、社の奥からひとつの器を持ってくる。
それは、装飾も何もない、白く静かな杯だった。
まるで手を触れることさえためらわせるような、透明な冷たさを孕んでいた。
「君の“声”。……もっと正確に言えば、それに宿っていたもの」
千咲は小さく首を傾げる。
少年はその視線をまっすぐに受け止めながら、やさしく続けた。
「君が初めて誰かに歌を聴かせたときの記憶。
母に褒められた日のこと。
歌うことが楽しくて、怖くて、それでも大切で――
君だけの“色”で満たされていた、あの声。
それを、もらうよ。」
胸の奥がきゅっと縮んだ。
それは、“声”が戻ってくる代わりに、自分がそれをどれほど大事にしていたかを、忘れてしまうということだった。
「もう一度、歌えるようにする。けれど、
その声がかつて、誰に向けられていたのか――
なぜ、それが宝物だったのか――君には、もう思い出せないかもしれない。」
迷いが、心の中に霧のように立ち込める。
それでも――
それでも、歌いたい。
もう一度、この胸の奥にある何かを、音にして届けたい。
千咲は、静かに杯を取った。
少年は何も言わずに頷く。
その瞬間、杯の中に淡い光が揺らぎ、
ふっと――何かが、千咲の身体から抜けていった。
温かくて、懐かしくて、胸を締めつけていたもの。
それはきっと、かつての“自分そのもの”だったのかもしれない。
目を開けると、天井があった。
見慣れた部屋。寝具の匂い。薄暗い午後の光がカーテン越しに落ちていた。
千咲は一瞬、夢だったのだろうかと思った。
けれど、喉に残る違和感と、胸の奥にぽっかり空いたような穴が、あれが現実だったことを告げていた。
起き上がって鏡の前に立つ。
自分の顔を見る。いつもと変わらない。
唇を開いてみる。声を出すことを体が恐れていたから。
けれど、そのとき――
「……ぁ……」
かすかな音が、喉の奥から生まれた。
それはほんの小さな、掠れた呼吸のような声だったけれど、確かに“音”だった。
千咲の心臓がどくんと跳ねた。
恐る恐るもう一度、口を開く。
「……あ……あ……」
声が、出る。
震えるように、こわれそうに、それでも確かに、音は自分の内から流れ出ていた。
涙がこぼれた。驚きと、安堵と、喜びと――言葉にならないものが胸を満たしていく。
もう一度、歌えるかもしれない。
まだ不確かで、頼りないけれど、確かに“始まり”の音がそこにあった。
千咲は、そっと窓辺に歩み寄る。
傾いた陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を静かに染めていた。
心の奥に残るざらつきと、微かな空白。
それでも、何かが少しだけ変わった気がする。
千咲は静かに息を吐いて、制服に着替えた。
外に出たいと思った。あの場所に――もう一度、立ちたくなった。
自転車にまたがり、放課後の空気の中へと漕ぎ出していく。
やがて、学校の裏庭――音楽室の外壁に沿った花壇のそばに、千咲は立っていた。
この時間になると、部活の生徒たちも帰りはじめ、校舎は静寂に包まれている。
周囲を見回す。誰もいないことを確かめて、ゆっくりと息を吸う。
胸の奥が、懐かしい熱で満たされていく。
そして、千咲は歌った。
言葉ではない。
ただのハミング。
けれどそれは、今の千咲にできる、たったひとつの“贈り物”だった。
声が風に溶けていく。
ささやかだけれど、凛とした旋律が、校舎の壁に跳ね返って空に昇っていく。
すると、向こうの茂みの陰から、小さな拍手が聴こえた。
驚いて顔を上げる。誰かが、そこにいたような気がする。
けれど次の瞬間には、もうその気配は消えていた。
拍手の主は、わからない。
けれど、その音は確かに“届いた”気がした。
千咲はふっと口元を緩めた。
風の中に、自分の声がまだ漂っているような気がした。
何かを忘れている気がした。
けれど、それが何だったのか、もう思い出せなかった。
そのとき、彼女の願いと引き換えに渡された“声”は、静かに記録へと還っていく――。
社の奥には、風の通らない部屋がある。
そこには、終わることのない“棚”が静かに並んでいた。
天井まで届くその棚には、様々な形をした“もの”がひとつずつ収められている。
小さな瓶。名のない名札。鏡。花束。ノート。蝋封された箱。――どれも、願いと引き換えに渡された、“その人をその人たらしめる”何かだ。
主は、音もなく棚の間を進んでいく。
やがて、あるひとつの棚の前で立ち止まった。
そこには、透明な瓶が置かれていた。
何も入っていない。光を反射するだけの、空っぽの瓶。
けれど主は、それをとても丁寧に両手で包み込み、ふっと指先で撫でた。
瓶の中で、一瞬だけ光が揺れる。
そして――
──「ありがとう、だいすき……」
かすかな、けれど確かに存在した“声”が漏れた。
少女の、優しい歌声。
誰かに伝えたくて、誰かのために歌った、小さなひとひらの祈り。
主は、目を細めた。
それが誰の声だったかは、もう記録の中にしか残っていない。
けれど、主の耳には、確かに届いていた。
「……きみは、きっと忘れてしまう。
それでも。……それでも、願ったんだね」
その声に、寂しさも慈しみもない。
ただ、ひとつの記録を静かに見届ける者の声。
主は瓶を棚に戻すと、懐から帳面を取り出した。
墨のような文字が、音もなく紙の上ににじんでゆく。
記録 第一千三百一話
『歌をあげる者』
→ 対価:「声に宿っていた感情」
→ 願い:「もう一度、歌いたい」
→ 状態:完了
主は、帳面を静かに閉じた。
それは、またひとつの終わりであり――
そして、次の誰かの、始まりでもあった。