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イノナカノカワズ

作者: 網笠せい

 四方にそびえるコンクリートの壁が否応なく熱を奪っている。冷たい空間には出入り口がなく、己が一体どこから入ったのかすらわからなかった。天井には空。コンクリートに区切られた四角い空は何処までも青かった。記憶の全てはその空からはじまった。

 なぜこんな場所にいるんだろう?

 嘆息して首を元に戻すと、目の前で蛙人間が笑っていた。


「なんて悪趣味!」


 細身の体は緑色でところどころに模様やイボがあった。太ももはマラソン選手のように引き締まっており、大きな丸い目がせわしなく動く。

 思わず叫んだ声に、蛙人間は肩をすくめてアメリカンなポーズをとって見せた。

 蛙人間は絵本に出てくる服を着た蛙を思い出させたが、愛らしさは微塵もなく、単純に気持ち悪かった。服と言っても蛙人間は黒いローブをまとっているから、怪しげな秘密結社の黒魔術師のようで気味が悪いのは仕方ないかもしれない。水かきのついたてのひらで頭をかく様子は、私にめまいをおこさせた。


「何を言うのだ。これこそ衣の中の蛙だ。悪趣味というのは、こういうことを言うのだよ」


 衣ずれの音が聞こえて、蛙人間は満足そうに高笑いして告げた。


「見たまえ、このファッションセンスを」


 めまいは吐き気に変わった。黒いローブの裏、光沢のある紫のサテン地に、薔薇と蜘蛛の巣が輝いて見えた。なんという柄なのか。さりげなくパンツも同じ柄にそろえているのが憎い。憎たらしくて思わず尻の穴にストローを突っ込んで蛙爆弾をセットしたくなる。セット完了! さあ、今すぐ息を吹き込みたまえ! 顔に迷彩ペイントを施した謎の軍人が親指を立て、白い歯を輝かせて笑った。まぶしい。

 絶対何があっても、悪趣味だと言ってやるものか。

 心の内からあふれた反抗心が確固とした決意に変わる。

 悪趣味なのを自覚している蛙人間に悪趣味だと言っても喜ばせるだけだ。口が裂けても言うものか。


「……素敵な柄ね」


 自分の唇からその声が出たのだと思うと吐き気がした。私はいい大人だからおべっかを言うのにも慣れてしまったのだけれど、それでもこれはキツイものがある。


「今日のコンセプトはイノナカノカワズだ」


 蛙人間は薄く笑う。横幅の広い口の端が少しつりあがってにやりと笑った。

 井の中の蛙という言葉を聞いて思わず空を見上げた。雲ひとつない空は先ほどからちっとも変わっていないように思えた。なるほど、井の中のかわずとはよく言ったものだ。確かに外のことはまったくわからない。


「この空間にいるのは私と君の二人だけだ。つまり趣味の良し悪しを決めるのも私と君なのだ。わかるかね」

「わかりません」


 自己陶酔に浸りつつあった蛙人間に即答した。

 自己愛にあふれた者の目はうっとりとした半眼であり、手は何かやわらかいものを包み込むような形をしており、奇妙だった。目を伏目がちにするとまつ毛が目立っていけない。いや、本来なら蛙にまつげはないはずだ。やはりこいつは蛙人間であって、純粋な蛙でないのに違いない。蛙ならまだかわいいところもあるし。


「私は君を迎える立場の人間だからね。それなりにおもてなしをしなければならん。この部屋だって、君のためのものだ。君を確保するための部屋なんだよ。君はこれからここで飼育されるんだ」


 この部屋が私のために用意された? 飼育?

 思い当たる節もない。なぜ私がこんな目にあわねばならないのだ?


「本当は王子様パンツをはいても良かったんだが……お気に召していただけたようだから、このままでいよう」


 混乱に身をまかせつつある私をよそに、蛙人間は加虐的な微笑みを浮かべて喉を鳴らした。蛙人間とこれからわが身に訪れるであろう出来事を想像すると、暗澹たる思いに駆られる。大きな恐怖を追いやろうとしたのだけれど、目を逸らしたところで現実であることには変わりないのだろう。己の影のように逃げても逃げても追いかけてくるに違いない。

 いっそ、目を閉じてしまえ。

 強く目を閉じた。暗闇に慣れてくると、少しずつ全身から力が抜けていく。そのまま霞んだ世界に落ちて、眠りに誘われた。


◆ ◆ ◆ ◆


 目が覚めたときもまだ恐怖は消えなかった。状況を把握してしまえば現実はかわらずそこに、蛙人間として存在するのだ。部屋の隅で小さくなっていると、突然空から何かがふってきた。ごごう、とすさまじい空気を切る音が聞こえて、何かと口を開けている間に着地した。そこにはまごうことなきちゃぶ台が鎮座していた。

 すさまじい速度で落ちてきたちゃぶ台が怖かったのだけれど、それより前に、さらに恐ろしい目にあっていた私は恐怖が飽和状態に達して悲鳴をあげた。


「なんじゃこりゃあ!」


 限界を超えると、人間は恐怖を恐怖とも感じなくなるらしい。

 蛙人間は相変わらず、どこにしまってあったのかわからない手鏡を出して自分の容姿にうっとりしていたが、流石に無視するわけにはいかなくなったらしく、視線をちゃぶ台によこした。


「ふむ。来たか」


 一言つぶやいて、カルメンとも中国拳法ともとれる手の動きをした。一体何なんだ。次は一体何が来る。私が恐怖を超えて好奇心さえ感じていると、蛙人間は「おりませー!」と叫んだ。

 その声に従うように、空からトレイが降ってくる。


「キャッチ!」


 蛙だけにジャンプは上手いのだろう、ばねのように脚を伸ばして跳躍すると、蛙人間は空中で一回転してトレイをキャッチした。おそろしい運動能力だ。着地と同時にトレイを空高く掲げている。ナルシスティックな動きに、私は辟易した。


「何が降ってきたの」

「君のために人間の『クワァラーゲッ』『ピョーンブリ』という食べ物を用意した。食べたまえ」


 ターンを見事に決めてちゃぶ台にトレイを乗せる。トレイには唐揚と丼が鎮座していた。ごく普通の、いや、むしろどちらかというと中華街なんかで出てきそうな、うまそうな唐揚だ。その唐揚が皿の上にてんこ盛りに積まれていた。丼は親子丼だった。


「……いただきます」


 口の中に放り込むと、衣がはがれて中の肉が出てきた。唐揚というから問答無用で鶏肉だと思っていたのだけれど、少し肉質が違う気がする。鳥の割に淡白だ。

 親子丼の方、半熟の卵に包まれた鶏肉も、なんだか妙な歯ごたえだ。魚のような気がする。

 蛙人間に親子丼を分けようとすると、蛙人間は首を横にふった。きっと米が嫌いなのに違いない。


「一体これは何の肉?」

「蛙だな」


 蛙人間は鳥モモの唐揚を食いちぎるように唐揚を食べた。お前が食うと共食いになるんじゃないのかと心底心配になったが、彼は気にしていないらしかった。そうだ、こいつは純粋な蛙ではないのだと、先ほどのまつげの一件を思い出した。


「骨が多いな……」


 中年親爺が食堂で鯖の味噌煮定食を食べ終わったあと、爪楊枝でシーハーするような顔で骨を何本か出す。

 骨が多いとか文句を言ってる場合じゃないだろう。お前の仲間じゃないのか。気にしないように念じてみたものの、やはり脳裏には共食いの文字が、街道沿いにあるラブホテルの電飾のようにベカベカと光っていた。昼間っから過激である。ツッコミを我慢して黙って食べた。腹が空いていたのが私のツッコミ気質を制したのだろう。蛙だろうがワニだろうが、食えるものは食えるときに食う。この次に何が起こるかわからないからだ。こんな井戸の中では次に唐揚が降ってくるのがいつなのかわからない。

 唐揚と丼という取り合わせは妙だったが、なんとか食道におさまってくれたので助かった。胃に落ちればじきに消化されるだろう。ふと、今日のコンセプトはイノナカノカワズだと蛙人間が言っていたことを思い出した。イノナカノカワズ、思わず口に出してつぶやくと、蛙人間は骨についた身を歯でしごきながらこたえた。


「胃の中の蛙、なんちゃって」


 蛙人間が丸い目をぎょろぎょろと回転させる。カメレオンは左右の眼球を違う方向に向けられるのだというが、蛙人間はそんなに器用な真似はできないらしかった。


「……一寸法師の作戦みたいに腹の中から突っつかれるってオチはないでしょうね」

「ないね、残念ながら。蛙にそんな力はないよ。消化される」


◆ ◆ ◆ ◆


「さあ、満腹になったところで接吻をしようじゃないか」


 唐突に蛙人間がそんなことを言った。先ほどの『共食い』の文字に照らし出されるかのように、頬を赤く染めて。照れるくらいなら、そんな提案をしないでいただきたいものだ。


「ふざけんな」


 即答して回し蹴り。絶対に嫌だ。


「まあ、そういわずに熱いベーゼを」

「即時却下! 本国会では否決されました!」


 ふむ、と蛙人間が迫る手を止めた。黒いローブの裾がひらりと舞って、素敵に無敵な紫色のきらびやかな生地が目に入って、私は「ああああ」といい加減に名前をつけられたロールプレイングゲームの主人公のように絶望した。心はいつでも「お願いです。助けてください」と傍観している町のノンプレイヤーキャラクターだ。


「今君の胃にいる蛙たちは、君の唇を通って口に入り、食道を経て胃にいるのだ。わかるかね」

「だからなんなんです」

「彼ら……蛙に接吻して、私に接吻しないというのは、蛙人間に対する礼儀を欠いてはいないかね」

「訳がわかりません。それをいうなら、私にだって拒否権がある。私の意思を無視して接吻せよというのは、セクハラではありませんか」


 変態蛙人間とせまい空間に二人きりのこの状況を考えるともう、いてもたってもいられない。もしも空を飛べたなら、ここから逃げ出すこともできるのに! 英語の授業で習った仮定法過去の和訳文のように心の内で絶叫する。憎い。四角いコンクリートの壁が憎い。どこまでも無機質で、どこまでも冷たくて人間的なものは何一つ感じさせないコンクリートの壁がほくそえんでいるように見えてくる。心の底から憎い。

 憎しみにひきつりかけた私の頬から完全に笑いの要素が消えたのを見て、蛙人間は言った。


「画家がいるんだ」


 唐突な告白だった。


「画家」


 思わず牛の咀嚼のように、口の中で言葉を繰り返した。暗愚な私の返答にも呆れず、蛙人間は気長にこたえてくれた。


「そう。大金持ちの、老いぼれた画家だ。彼は私たちのやりとりを見ている。私と君の接吻を絵にしたいと言うのだ」

「それは以前、投稿所で読んだ話にそっくりだわ」


 切り返すと蛙人間もシチュエーションに覚えがあったようで、すぐにうなずいた。


「うむ。セクシー&バイオレンスのあれだ」

「盗作騒動にならない? サロンが熱狂の渦と化すに違いないわ。私、そんなの見たくない」

「今回はオマージュとかリスペクトとかいう便利な言葉が該当するケースだよ。こうしてきちんと原典があることを示しているからね」

「ねえ、私、この棺桶みたいな場所で『一部性的描写が含まれます』って注意書きがされなきゃいけないような目に遭うのかしら」

「その点は安心してくれたまえ。異種族交配によって、蛙人間人間が生まれるような危険を冒すつもりはない」


 意外と紳士ではないか。

 私が蛙人間を見直して安堵のため息をつくと、彼は頭を抱え込んでうめくように告げた。


「私たちはそれぞれの世界で生きていくのがふさわしい。己の分をわきまえて、余計な干渉をせずにそれぞれ慎ましく生きていくのが本来正しいのだよ。画家によって、既に天秤は傾いてしまったあとだがね……」


 蛙人間の言葉は、人間の私にはとても重く感じられた。操られる側にいる者の苦悩がそこにあった。彼に画家への憎しみはないのだろうか? 人間代表として彼に謝罪をした方がいいのだろうか。否、蛙人間が存在するくらいなのだから、画家が人間である保証もない。蛙人間画家かもしれない。なにより私も捕えられた側である。彼が真に望むのは……。

 私は蛙人間に接吻した。水棲動物特有の、体にしみこんだ、沼の臭いがした。直後に、ごしごしと唇をこする。蛙の皮膚には毒があると聞いたことがある。


「これで画家は満足したかしら。私たちを逃がしてくれる?」

「それは老いぼれだけが知ってる。意の中の蛙、そういうことさ」

「私は蛙じゃないけどね」


 蛙人間は肩をすくめるアメリカンなポーズをとってみせたが、緑の湿った肌がほのかに赤く染まっているのがわかった。そんなに照れられるとこちらまで恥ずかしくなってくるではないか。思わず背を向けた私の耳に、蛙人間がつぶやいた言葉が届いた。


「金持ちの壮大な暇つぶしだよ」

「まったく、嫌な金持ちね。他人の人生をなんだと思っているのかしら」


 重い沈黙の間、私は何度もため息をついた。

 蛙人間と私の双方が拒むのだから、これ以上の接触はない。早く家に帰りたい。今の接吻を見ていただろうか? 頼む、見ていてくれ。それで満足してくれ。

 手持ち無沙汰な時間は、余計なことを思い出させる。顔を上げて蛙人間をふりかえる。その瞬間、私は喉まで出かかった軽口を忘れた。


「ねえ」

「なに」

「あなた、蛙じゃなくなってるわよ」

「何を言うんだ。私は由緒正しい蛙人間だ。人間ではない。人面犬のような蛙面人ではないぞ、れっきとした蛙人間だ。人間サイズの蛙だ。そこは譲れな……」


 くどくどと語る蛙人間の言葉の途中で手鏡を奪い、彼に向けて掲げてみせた。


「あっ……?」


 彼が人間の口をあんぐりとあけた瞬間、急に床がせり上がった。もしかしたなら、逆に四方の壁が下がったのかもしれない。床が激しく揺れたこともあってよくわからないが、とにかく四方を区切っていた壁が消えた。小さな空は広く大きくなって、私たちを出迎えた。開放感でいっぱいだ。


「ねえ」


 私は最高にセンスの悪い黒ローブをまとった元蛙人間に向かって問いかけた。


「これってつまり、人間には用がないってことじゃないの? 井の中の蛙……つまり人間の私ではなく、あなたに用があったんじゃない?」

「いやあ、今日の空も、また一段と青いね!」


 爽やかな笑顔で青空を見て笑う男に、私は回し蹴りを食らわせた。男の薄い胸の中にある肋骨がメチャッと音をたてた。蛙が舌で餌を捕まえるときのような、軽快な音だった。


<おわる>

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