<7. _See you again>
「畜生……」
中学最後の夏のある日。
僕は立入禁止になっていた校舎の屋上、その片隅でとめどなく溢れる涙を拭い続けていた。
理由は些細なことだ。
ただ一人の女の子に告白して――女の子に振られただけだった。
たったそれだけのことなのに、辛くてしょうがなかった。振られたことがただ悔しくて、悲しくて、それよりも自分が不甲斐なくて、泣いていた。
冷静に考えて、振られるのは当たり前だった。僕とあの子ではほとんど接点がなかった。ずっと一方的に僕が見ていた関係だった。ろくに関係の構築ができていなかった。
なのに思春期の僕は、全く冷静さを欠き、茹で上がった頭で、勢いだけで告白して、当たり前のように振られた。
理屈では当たり前だとわかっていても、ままならない心は納得を拒絶した。自分の全力の好意を断られたことは、自分自身を完全に否定されたような気分だった。
「畜生……畜生……」
僕は屋上で止まらない涙と戦っていた。あまりにも情けないその姿を誰にも見られたくなかった。
自分がどれだけ一方的に都合の良い期待をしていたのか思い知らされた。そして思い知らされてなお、自分の心が制御できなかった。泣いているその瞬間にも彼女と一緒にいたい、彼女に認められたい自分がいた。自分の感情がどうしようもなかった。
しばらくしてふと顔を上げると、僕の目の前に立ってじっと僕を見ている女子生徒がいた。
僕は慌てて目元を拭おうとして――彼女に腕を掴まれて止められた。
「……は?」
僕は混乱し、反射的に腕を振り払って後ずさる。意味不明な彼女の行動に恐怖すら覚えた。
「あ、ごめん……」
彼女は腕を引っ込めてすまなさそうに謝った。本当についやってしまった、といったような調子で、呆気にとられた。
「君の泣き顔が綺麗だったから、つい……」
「……は??」
僕は再び恐怖を覚え、慌てて顔を拭った。「ああ、もったいない……」彼女の残念そうな声が聞こえる。
「な、なんですか……ここ立ち入り禁止ですけど……」
「だから入ったんだよね」
混乱しながら声をかけた僕に、彼女は悪びれもせずに答える。
「あなたもそうじゃないの?」
「……っ」
思わず言葉に詰まった僕に、
「ねぇ――顔見せてよ」
「なんでだよ、近寄るな」
意味不明な要求に思わず敬語すら忘れて言い返した僕に、
「ああ、いいね。そっちの方が良いよ」彼女は笑う。
彼女の意味不明な言動に僕は敬語を使う気も失せた。
僕はさっきまでの感情さえ忘れ、代わりに投げやりな開き直った気分になる。
「いったい何の用だよ。僕を笑いにきたのか?」
「笑いに? まさか」
彼女は僕の言葉を笑い飛ばし、
「綺麗だと思ったのさ。君の感情が」
そう言って、彼女は僕の目を覗き込んだ。
「どうして君は、そんなにも悲しんだり怒ったりできるんだい? ――ぜひとも、私に教えて欲しいな」
――それが、彼女との出会いだった。
***
意識が途切れたのは一瞬だったかもしれないし、実は長い時間だったのかもしれない。
ともかく僕は、僕の感覚ではすぐに目覚めた。いつの間にか、僕は意識を失って床の上に倒れ伏していた。
起き上がると、頭上から声がする。
『……目が覚めたか』
<創造主>の声と言葉で、僕はすぐに、何があったのかを思いだす。
その時僕は初めて――ここに来てから初めて――自分の心臓が脈打っていることに気がついた。
「心臓が……」
『お前は新しき人間となったのだ』
<創造主>はそれ以上説明しなかった。
そして<創造主>は続ける。
『だが、まだ終わりではない。アダムとなる者は、もう一つ選択しなければならない』
「もう一つの、選択……?」
まだ選ばなければならないのか、僕はそう思うが、
『選択するという行いは、力と意思を持つ者の特権だ』
<創造主>は僕の思考を見透かしたように言う。
『その権利を、得たくても得られない存在がたくさんある。お前は幸運だ』
「そうか……そうだな」
僕は頷いた。最初から選択肢が無い――その不自由も、僕は知っていたのだから。
「それで、僕は何を選べばいい?」
『人類が生きて数を増やすなら、番が必要になる。男と対となる女だ。その女に、二つの選択肢がある』
<創造主>は言った。
『一つは我々の手で男に仕える女を作ること。お前の理想の相手を我々が作り、それを新たな人類の母とする。お前が新たな人類の父となるように』
「まるで聖書そのものだな……」
この出来事そのものが神話のようだ。いや、実際<創造主>なんて馬鹿げた存在の前に立っているのだから、神話と言って差し支えないだろう。
『そうだ、しばしば人の書物は物語の名で歴史を記す』
僕の呟きに<創造主>は答えた。
「つまり、過去にも僕と同じように選んだ人間が?」
『いかにも』
<創造主>は頷く気配を見せる。
『これで四度目だ。男が現れることも、女を作ることも』
「四度目……?」
こんなことが、繰り返されきたというのか。いや……確かに聖書や神話には、それを示唆する話はある。聖書の話が過去に起きたことなら、少なくとも一度は過去にあったその出来事が、何らかの要因で現在まで伝えられていた、ということで……
「じゃあ、過去の男たちが選んだのは……」
『お前が知ること以上を、我らから知らせることはない』
<創造主>あっさりと言う。その言葉に持たされた含みに、僕は気づく。つまり、僕は知っている――いや、自明のことだ。聖書にははっきりと、アダムからイブが作られたことが明記されている。
逆に――
「他の選択肢は?」
『二つ目の選択肢……その内容は、教えられない』
「教えられないって……」
『我らから教えられることは、二つ目を選べば、お前はこのまま生き、そして男に仕える女ではない女を得る。それだけだ』
「それだけって……」
『その未来は、お前にとっては未知のものだろう。だが、お前は未知のまま決めなければならない。男に仕える女を選ばぬなら、選ばぬ未来を』
それでは何もわからないのと同じだ。僕は息を吐き、冷静に考える。……分からないなら、わかりそうなところから訊いてみよう。
「なら一つ目の選択肢……イヴについては教えてくれるのか?」
『無論だ。それこそが男に仕える女であるがゆえに』
予想通りの答えを、<創造主>は僕に言う。
「そのイヴ……理想の相手っていうのは、何でも僕の理想に……思い通りになるっていうのか?」
『そなたの思い通りに作ることができる』
「それは、外見も? 性格も、能力も?」
『ああ、全て、そなたのイメージしたとおりに』
「だったら……」
僕の脳裏に、恐ろしい考えが浮かぶ。僕はそれを、言葉にしていいのか少しだけ迷った。こんなことを考えるべきではないかもしれない、そうも思った。だけど僕は――自分の願望に逆らえなかった。
僕はゆっくりと口を開き――禁断の質問をする。
「じゃあ例えば……死んだ人間と同じ人間は作れるのか?」
果たして、<創造主>は……
『同じ人間は作れない。同じような人間は作ることができる』
「何が違う?」
『反映されるのはあくまで、そなたの望みだ。そなたのイメージ、そなたの記憶、そなたの願望、全てが実現される。しかし、そなたの知らぬことしか反映されない。そなたは誰か一人でも、死んだ人間の「全て」を知っているか?』
僕はハッとした。
『だから、同じ人間ではありえない。そなたの知らぬことは反映されぬ』
「そうか――……」
僕の頭の中には「彼女」の存在があった。確かに彼が望めば、彼女にそっくりな、彼が思う彼女と同じような女性ができるのだろう。しかしそれは――彼女そのものではないのだ。
なぜなら彼女は、いつも僕の予想を上回った。僕が想像できないような行動をしでかす、そんな人間だった。僕は彼女の考えていることがわからなかったし、今も分からない。
だから、僕が想像可能な彼女は、それは彼女ではありえないのだ。
(ああ――もう会えないんだな……)
一度持ってしまった希望は、とてつもなく甘い誘惑だった。
たとえ彼女そのものでなくとも――僅ばかり、そんな考えも頭をよぎった。
だけど、それは不可能だ。
他人が、誰かの代わりになるなんて。
それは――彼女と、彼女との思い出に対する冒涜なのだから――……
「だったら、もういい――」
僕は、なけなしの意思力で甘い誘惑を断ち切る。
どれだけ僕が望んでも、どれだけそれの再現が精密でも再創造物にそれを求めるなら、それは偽物だ。そして、偽物の代用品を選ぶなら、彼女に会える可能性は万に一つもなくなる。そしてその存在は、存在に対する願望――絶対に実現できない願い――それ自体が矛盾している。
それは誰に対しても不誠実なまやかしにしかならないのだ。僕は、弱気に流され、一時のまやかしに縋ってはならないのだ。そのまやかしで得た束の間の満足がどれほど虚しいか――僕は嫌というほど思い知ったのだから。
だから――
「僕は、一つ目の選択肢を放棄し、二つ目を選ぶ」
二つ目の選択肢は、全く未知。しかしこれが世界、これが生きるということなら――僕は、それを選ぶ。
そう決意して、宣言した。
その途端、
『すばらしい!』
<創造主>たちは手を打った。
『本当にイブを拒み、リリスを選ぶとは』
それまでの粛々とした様子とはまるで異なる、心からの興奮――悦びだった。
『おめでとう、そなたらに、祝福ある旅路を』
その言葉を最後に、<創造主>たちは消えた。まるで、最初からそこに居なかったかのように、唐突に姿を消した。
「いや……この後どうしろっていうんだよ」
一人残された僕は虚空に問うが、もちろん答えは返ってこない。<創造主>が去った後、広大な空間の中に一つ、ポツンと細長い台座だけが置かれている。祭壇のようにも、棺のようにも見えるそれは――
(――まさか……)
僕は、ある予感を持って、その台座に近づく。
台座の上には白い布が掛けられており、その中に誰かが居る。
――そして男に仕える女ではない女を得る
<創造主>の言葉を思い出す。つまり、この中には――……
僕は、一度唾を飲み込むと――意を決して白い布を剥ぎ取った。
「やぁ、おはよう」
聞き覚えのある声だった。決して長いきかんではなかったが、その中で、何度も何度も聞いた声だった。
「嘘――だろ」
彼女が居た。
最後に会った時、姿を消した時のままの姿で。
いつも通りのおどけた笑みを浮かべて、台座の上に寝そべっていた。
「嘘だと思う? 私の姿をしたそっくりさんとか?」
「……そっくりさんを注文することもできたんだ」
僕は、ゆっくりと喋った。声が、震えないように。
「だけど、そうしなかった」
「へぇ、どうして?」
「だって、そっくりさんは――君じゃないだろ」
すると彼女は、驚いたように目を瞬かせた。
「私が相手で、良かったのかな?」
「ああ……生きるのには、退屈しなさそうだ」
すると彼女はにへら、と笑い、
「ところで、ちょっと手を貸してくれないかな? 長く眠ってたせいか、まだ身体に力が――」
彼女が言い終わる前に、僕は両手で彼女の身体を抱え上げた。
「およ?」
彼女は驚いた表情を浮かべ、
「そこまで頼もうと思ってなかったんだけど……」
「いいだろ。たまにはカッコつけさせろよ」
すると、彼女は笑い始めた。
「……驚いた。君にもそんなサプライズができるようになったなんて」
「今できるようになったんだ」
僕は、彼女の顔を見ずに答えた。広大だったはずの空間はいつしか消え、一本の通路になっていた。
「神様と賭けをしたんだ」
彼女は僕の胸元で、そっと呟いた。
「そしてあなたは神様の予想を覆した。私は、賭けに勝った」
「そうか……」
だったら、この奇跡は――必然だ。
「さあ行こうよ、新しい地球にさ」
「ああ、行こう」
僕は、彼女を抱えたまま歩き出す。
長い通路の終端はすぐそこにあった。
僕らは、折り返し地点から再び旅立つ。
長い旅路が、今始まる――
<完>