<2. Noway to her>
「どうしたの? もうお疲れ?」
「ぜぇっ……はぁっ……どうしたの……じゃない……!」
僕は立ち止まって必死に息を整えながら、自転車に跨ったままこっちを見下ろしてくる彼女を睨む。
「それは……僕の自転車だろ……返せ……」
「そうはいかないなぁ」
彼女は笑いながら言う。
「たまには自分の足で走ってみなよ。気持ちいいでしょ」
「いいや……疲れるだけだ……」
「やれやれ……わかってないなぁ。それが良いんじゃない」
――エロ本拾いに行こう
彼女がそんな、女の子にあるまじきことを言い出したのが、ちょうど一時間前。
僕がそんなものネットにいくらでもあるじゃないか、と反論すると「拾いにいくことに意味がある」だの「画面越しの画像なんて本物じゃない」だの意味不明なことを言われ、彼女に急き立てられて河川敷に出かけた。
その途中で漕いでいた自転車を彼女に取られ、僕が走ってついていく羽目になり、今に至る。
「エロ本といえば山か川だよね。どっちが良いと思う?」
「知らねえよ、ていうかなんでその二択なんだよ。駅のゴミ箱は?」
「お? いい発想だね。でもロマンがないからパス」
「なんだよそれ……」
まあエロ本のためにゴミ箱を漁ろうなんて本気で思っちゃいないが。
「私は橋の下に隠されたエロ本が見たいんだよね。そういうシチュエーションがエモくない? ということで川に行こう」
「いやさっぱりわからん、その感性……」
僕は息を切らしながら小走りで彼女についていく。
「昭和じゃないんだから、そこにスマホがあるのにどうしてそれで調べようとしないんだ?」
「わかってないねえ」
彼女は肩を竦めた。
「私は経験がしたいんだよ。エロ本を手に入れるのが目的じゃなくて、エロ本を手に入れる経験がしたいの」
「よくわからん、目的を達成してこそ人生だろ」
すると彼女は「違うよ」と断言した。
「違うよ、目的を達成するまでが人生だよ」
***
渋滞する車、飛び交う怒号、右へ左へと行き交う人々。
久々に飛び出した外の世界は混乱し、混沌としている。頭では分かっていたつもりでも、その真っ只中を進むという行為は激しく僕を疲弊させる。
誰も彼もが焦りに駆り立てられながら、行くべき場所もわからずに彷徨っている。ただただ必死さがあって――でも必死なだけだ。そいつらが、僕にとっては邪魔だった。
(でも……世界って本来こんなものかもしれない)
自分の部屋の中は快適だった。それに比べて外の世界は、隣り合う一人一人が好き勝手に動き回るこの世界は、本当にロクでもない。ストレスが多い、不快感が多い、ノイズまみれで考えた通りにうまくはいかず、理不尽な邪魔が入り、自分の努力とは全く関係のない運要素に左右される。全てが秩序立っているようでいなくて混沌で、統一的な制御は何もはたらいていない。
しかし、きっとそれが『現実』というやつなのだ。
それでも僕は、走った。人間の濁流の中を掻き分け、ひたすら走った。
――手がかりはヘッドフォンの声だけだ。
最初は音やノイズの強弱だけだった。とにかく闇雲に動いて、少しでもノイズが減って音が聞こえるような、そんな方向を探した。
しかし、だんだんとノイズが減って声が聞き取れるようになってくると――その声はやはり『彼女』のものだった――その声は、僕を導くように暫定的な地点の場所を示した。僕はただその声に従って、その声に導かれるがままに、ひたすら進んだ。
それは闇雲でがむしゃらだったけれど確かに前に進んでいるという実感があった。その実感は、長い間部屋に籠っていた僕が感じ続けていた、体を覆う透明な鉛を簡単に吹き飛ばした。
本当に不思議なことだったが、全く先が見えないにもかかわらず、僕は身も心も、部屋を出る前よりもずっと軽やかだった。