1話(前半) 幕開け
久々に小説家になろうにログインしました。
よろしくお願いします。
「…………し……」
前も後ろも、上も下も分からないような暗闇の中を揺蕩っていた。そんなときに、聞き覚えのある声が聞こえた。
「…………して……」
耳に水が入った時かのように音が籠っており、何と言っているのか正確に聞き取れない。
「…………して……」
「…………して……」
声は繰り返されている。そして段々と、大きく明瞭になっていった。
「…………してやる……」
「…………してやる……!」
「殺してやる!!!!!」
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「うわぁっ!!!!!」
耳をつんざくような怒りに満ちた声で、小形日練摩の目は覚めた。どうやら夢の中の声だったらしい。起きたと同時に上体を起こし、荒い呼吸を何度も繰り返す。掛布団を掴んでいる手のみならず、体中からじっとりと冷や汗が沸いて出てきていた。部屋の窓から朝日が差し、練摩の体を照らす。空には雲一つなく、鳥が朝の訪れを告げるがごとくさえずっていた。
「へ……変な夢だったな…………」
汗を腕で拭き取り、布団を畳んで身支度を始める。
今日は平日。普段通りの小学校のある日。小学五年生になったばかりの四月の日だった。勉強の為でなく、遊びや給食の為に学校へ行く代わり映えのしない毎日が続いていた。
しかし、そんな日常と決別してしまった。その日こそ、今日であった。
練摩自身は、そんなこと知る由も無かった。
寝巻きから普段着に着替え、家の二階にある自室から一階の台所へと向かう。テレビの音、朝ご飯を作る音が聞こえたと同時に、食欲をそそる香ばしい香りが漂ってきた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう練摩。今日は自分で起きれたのね」
練摩の母親・小形日真楽。長い黒髪を後ろで一つの太い三つ編みにまとめ、四角く赤いフレームの眼鏡をかけている。その容姿は、子どもをもつ母親とは思えないほど若々しい。人当たりがよく、常に笑顔で周囲の人間を和ませる。それでもって意見をはっきり言う姿に、息子である練摩は尊敬の意を示していた。練摩を一瞥してから、手元のフライパンに目線を戻す。フライパンの上では目玉焼きが焼かれており、二つの卵黄が艶を輝かせていた。コンロの火を止めると、フライ返しで目玉焼きを各々黄身を一つずつ分けるように切り離した。そしてあらかじめカリカリに焼き上げておいたトーストの上に乗せた。その上に、粉末のバジルをふりかける。
「うわ~美味しそう!」
「熱いから気を付けて食べるのよ」
練摩は真楽からトーストを受け取り、台所のすぐ隣の食卓の椅子に座りトーストにかぶりついた。食卓の横にはテレビが置いてあり、ニュース番組が流れている。
≪___続いてのニュースです。本日未明、神奈川県厚木市の旅館に泊まりに来ていた団体客が、大量死した事件が起こりました。警察は殺人事件とみて、調査を続けています≫
「厚木市って、伊勢原の隣だよね?」
「うん。物騒ねぇ」
自分の朝食を準備し終え、練摩の分を含めた飲み物とコップを持ってきた真楽は、そのニュースを聞いて眉をしかめた。
練摩たちが住んでいるのは、神奈川県の伊勢原市という都心からそう遠くない県央に位置する市。JRは通っておらず、私鉄の小田急電鉄が通っている。ほんの一か月前には、新東名高速道路に通ずるインターチェンジも出来たばかりだ。市の西側には丹沢山地と呼ばれる山地が、その奥の秦野市にかけて広がっている。伊勢原市にはその山地の一部である雨降山がそびえ立ち、年中を通して登山客で賑わっている。
そんな雨降山の山沿いに練摩の家はあった。
住民は駅の周りに比べて数が多くなく、子どもより高齢者の数の割合が多い。
練摩の通う小学校も、六学年一クラスずつしかない。
そんな伊勢原市の隣にあるのが、ニュースで現在流れている凄惨な事件があった厚木市である。とは言え、練摩はそれほど深くこの事件に関して関心を抱いていなかった。
「位置についてー、よーいドン!」
時間は過ぎ、練摩は学校に来て体育の授業を受けていた。と言っても本日の体育は授業ではなく、新学年お決まりの体力テストの時間だった。現在は最初の種目の五十メートル走のタイムを計るところだ。その時、練摩は己の体の異変を感じ取っていた。
(なんか変だな…………今日起きてからというもの、すごい体が軽いと言うか動かしやすいと言うか……)
通学しているときに、練摩は初めて気が付いた。足取りが軽い。精神的な意味ではなく、物理的な意味で。ランドセルを背負っているはずなのに、何も背負っていないような軽やかさ。脚の細胞が活き活きと働き、歩幅や歩く速度が心なしか大きく速くなっているような。そんな普段通りでない不自然な状態は、時間が経つにつれ練摩の中に違和感としてひしひしと蓄積していき今に至った。
両の手を閉じたり開いたりを繰り返していると、次にタイムを計ると促され五十メートルのレーンの初期位置に立つ。練摩は今まで、五十メートル走最速記録は八秒前半と学年の中では早い方に位置していた。しかし……。
「位置についてー」
練摩が合図で片脚を後ろに引く。例年通り自分のベストを尽くそうと、思いっきり走ろうと、スタートダッシュのための力を込めた。と同時に、力を込めた足が少し、地面にめり込んだような感触がした。
(あれ、地面ってこんなに柔らかかったっけ?)
「よーいドン!」
一瞬考え事をした瞬間に、タイム測定開始の旗が降ろされた。練摩はハッと我に返り、地面を蹴り上げ走り出した。それは、勢いよくという言葉では物足りないようなものであった。練摩が地面を蹴り上げた力で、その地点の地面に大きな亀裂が走った。低い崩落音が聞こえたかと思うと辺りに砂煙が舞い、周りの児童が次々と咳き込む。練摩はそんなことお構いなしに無我夢中で駆け抜けた。五十メートルを走り終えたところで、ストップウォッチを止めるというごく当たり前の行為。しかし、練摩が走り終えた時、その役目をしていた先生は唖然としてストップウォッチを止める手が動かなかった。すぐに冷静になりストップウォッチを止めた。
「ふぅ~……先生! 僕何秒ですか?」
練摩は計測していた先生の元へ向かう。本人は気にしていなかったが、走り終えた後の練摩は汗をかいていないどころか息も全くあがっていなかった。まるで今走ったことがなかったことかのように。
「え……あ…………」
先生は怪訝な顔をストップウォッチに向けている。周りの児童も、ザワザワとただ事ではない話し声を上げている。それでようやく、練摩は異変が起きていることを悟った。
「……先……生…………?」
練摩が恐る恐る話しかけると、先生は練摩の方を向いて微かに動く口から吐息混じりに声を絞り出す。
「タイム……四秒五八…………」
あり得ないタイムに、驚きのあまり声が出なかった。
その後も練摩の体力テストは異次元の記録が出続けた。ハンドボール投げは七十メートルを超え、走り幅跳びは二桁メートルを叩きだし、二十メートルシャトルランはあまりにも終わりが見えず強制的に中断されたりと…………。唯一長座体前屈が八センチだったせいで体力テストオール十点とはならなかったのだが。
「練摩くん凄いね! 急にこんな運動神経良くなって」
そう朗らかに練摩に話しかけてきたのは、幼稚園からの練摩の親友の八百野照稀。黒ぶち眼鏡にオレンジ色に近い短髪の男子だ。練摩は彼の事を[てるくん]とあだ名で呼んでいる。
「先生たちが世界記録だ~とかって大騒ぎしてたよ。なんか運動でも始めたの?」
「いやぁ全く。なんにもしてないけど…………」
最初はスーパーヒーローになったような気持ちで浮かれていた練摩だったが、次第に恐怖へと変わっていった。何がどうしてこんな力を急に得たのか。それが分からないことが臆病な練摩には大層怖かった。
「そういえば、今日の給食きなこパンでるよ」
「きなこパン!? ぃやったぁー!!」
照稀が呟くと、直前まで抱えていた不安が一気に解消され練摩の瞳に輝きが戻った。何を隠そう、練摩は学校の給食で出てくるきなこパンが、今までの人生の中で食べてきたものの中で一番の大好物だからだったのだ。
家に帰り、学校での出来事、そして自分の体の異変を母親の真楽に話す。すると真楽は「スーパーヒーローみたいな力ねぇ~。そうなったら、近々悪の大魔王が練摩を襲いに来るかも~! なんちゃって」と冗談を言う。そんな冗談を聞いて、練摩の気持ちも楽になった気がした。病気とかじゃなさそうだし、気にしなくていいか、と。
そうして夜になり、布団にもぐって就寝。……しようとした。突如練摩を襲ったのは、悪寒だった。
「な……なにか…………いる…………?」
直感的にそう感じた。全身に鳥肌が粟立ち、歯がガチガチと音を立てて震える。しかしそれは一瞬の出来事で、悪寒はあっという間に消え去った。得体のしれない恐怖を感じた練摩は、必死に眠りにつこうと羊を数えた。
次の日。相変わらず昨日と同じように、体の調子が良かった。「おはよー」と照稀と挨拶を交わし、朝の会の号令をする。
「今日は突然ですが、このクラスに新しいお友達が増えます」
先生がそう言うと、クラス中がざわめきだした。先生は「静かに!」と手を叩く。
「それじゃあ、入ってきてください」
教室の黒板に近いドアが開く。クラス中の児童の目線が釘付けになっていた。
入ってきたのは女子だった。暗い黄色の髪色に、一本のアホ毛が頭のてっぺんから伸びている。もみあげを両方おろし、髪を後ろで一つにまとめている。黄色を基調とした肩だしの服に、太ももの中間ぐらいまでの丈の茶色い短パンを履き健康的な脚を露出している。
先生に誘導され、黒板の前に立ち「それじゃあ自己紹介を」と言われ口を開く。
「鎖羅木百良です。和歌山県から来ました。よろしくお願いします」
ハキハキ話す声色は、活気に満ちた小学生を象徴しているかのようなオーラがあった。教室中が拍手に包まれる。例にもれず練摩も拍手を送る。百良は教室を見渡し、練摩を見るや否や目を丸くして口が小さく開いた。練摩は百良と目が合っていることに気づいてはいたが、それが何を意味しているかは分かっていなかった。
朝の会が終わり、五分後に始まる授業の準備をしていると、転校生の百良が足早に練摩に近寄ってきた。
「ねぇ、ちょっとあんた」
百良はそう言うと、練摩の顔を凝視する。
「え? は、はい……?」
突然の急接近に練摩はたじろぐ。ただ無言で見つめ合い、しばらくしてから百良は「話したいことがあるから、中休みにちょっと付き合って」と言い自席に戻って行った。様子を見ていた照稀が、呆然としている練摩に話しかける。
「練摩くん、あの子知ってる子なの?」
「ううん。話ってなんだろう……?」
練摩の中にはただただ疑問が充満するばかりであった。
そしてこれが、悲劇への第一歩なのであった。