4 放課後の教室
人気の少ない校舎内で歩きスマホをしながら、ふぅと思わずため息が出てしまった。
返事が、来ない。
委員会が終わってすぐ『重村航太郎』と表示されたトークルームをタップしてLINEを送ったものの既読すらついてない。
昨日は図書館で静かに黙々と勉強したので、次は教室内で喋りながら勉強しよう、という重村の提案で、今日は重村のクラスの1組で居残り勉強することになっている。
放課後で人が少ないとはいえ、足を踏み入れたことのない他クラスに飛び込むのはなかなか勇気のいる話だ。
入りづらいな、なんて考えながらも足を進めていたら、気づけば1年1組の扉は目の前。廊下からは教室内の話が聞こえてくる気配はなく、かといって不審者みたいに窓から様子を覗き込むのも恥ずかしい。
えぇい、女は度胸だ。
思わずギュッと目を瞑りながら引き戸を開けると、扉の近くに座る真面目そうな女子生徒2人組が小声で話していたのを止め、揃って私の方へと視線を向けてくる。「誰ですか?」と言いたげなその視線に小さく頭を下げ、お目当ての人物を探すために教室内を見渡す。
後ろの方で引っ付けられた6、7つぐらいの席は、机の上に教科書が乗っているものの、生徒は不在のようで。もしかしたらその中のメンバーに重村がいて、今は席を外しているのかもしれない。
なんて考えながら、奥の窓際の前から3列目に机に覆いかぶさる山みたいなのが、いた。
あれ、絶対重村じゃん。
私を含めて4人しかいない静かな教室内をすり足で進みながら重村だと思われる何かに近づく。
机の脇に置かれたリュックが男子バレー部のものであり、そしてダラリと伸びた腕に追いやられ机から落ちそうになっている筆箱が昨日図書室で見たものと同じであることから、私の勘が間違っていなかったことを確信する。
机に突っ伏した状態の重村は多分眠っているのだろう。LINEの返事が来なかった理由がやっと分かった。
音を立てないように前の席の椅子を引いて腰掛け、おやすみモードの重村を眺めながら思考を巡らせる。
彼を起こすべきか、起こさないべきか。
とりあえず落下目前の筆箱を私の座る席へと移動させ、再び彼の方へと体を向ける。
骨太な腕はうっすらと日焼けしていて、肌の表面には血管が浮き出ている。自分の腕とは違うそれに何かいけないものを見てしまったような気分になり、こくりと小さく唾を飲み込む。頭を振って思考を逸し、慌てて頭の方へと視線を逃がす。
右向きのつむじを眺めながら、ふとおばあちゃんの家で飼っていたペットのダックスフンドのことを思い出す。最近は歳をとったせいで私が小学生だった頃と比べてかなり腰が弱ってしまった。けれど黒い毛並みを撫でると嬉しそうに目を閉じてリラックスするその姿は昔と変わらないなぁ、なんて思い出しながら。
犬を撫でるように、右手をそっと重村の頭頂部に乗せた。
真っ黒な短髪は、思っていたとおりノーセットの状態だったようで、ワックス特有のパリパリ感や指にかかるベタつきがない。頭の形に沿わせゆっくりと手を動かすと、固い髪質のせいか指に撫でられた髪の毛はすぐに元の状態へと戻ろうとピンと立つ。
「ん……?」
もぞり、と目の前のものが動いて、気づいてしまう。
自分でも無自覚のまま、重村の頭に手を伸ばしていたことに。
サーッと顔色が青ざめていくのを感じながら、身体も思考も固まってしまう。
地殻変動のように重村がゆっくりと上体を起こすのに、はっと慌てて自分の手を引っ込めようとするものの、眠たそうに私の方を見る重村と目が合い、右手が宙ぶらりんの状態で固まってしまった。
「……お、オハヨー」
「……橘?」
「ハイ、タチバナデス……」
ぱちぱちと瞬きを繰り返した重村は「何でカタコト……」と小さくツッコミを入れてくるものの、宙に浮いたままの私の手を一瞥したのを私は見逃さなかった。
……絶対バレてる。
「あの、何ていうか、そのっ、ちょっと魔が差しただけで……。おばあちゃんの家の犬ね、あずきって名前なんだけど。ちょうど黒い毛で似てるなーとか思ってたら、思わず……」
「……それは全然良いんだけど。委員会は?」
「ちょっと前に終わったから連絡したけど、重村寝てたっぽいから気づいてなかったみたい」
「はっ?!」
慌ててシャツの胸ポケットからスマホを取り出した重村は画面を確認したと思ったら「うわー」と手で顔を覆いながら唸りだす。
「本当ごめん! 学校だからマナーモードにしてて気づいてなかった」
「いいよ別に。それよりそろそろ勉強始めない? 私、家だとすぐやる気なくしてだらけちゃうんだよね。学校にいる内に片付けたいな」
「俺も家だと、気づいたらスマホ見たりマンガ読んでたりするんだよな。だから昨日課題進みすぎてびっくりした」
私の席をひっくり返して後ろの席とくっつけ、避難させてた筆箱を重村に返す。
私が苦手な物理基礎を、重村の身振り手振りフィーリング満載の解説に笑いをこらえながら問題を解いたり。英語の課題が全く進んでいない重村に、必要最低限覚えなきゃいけないポイントを叩きこんだり。
途中どこかへ出かけていた1組の男女数人が戻ってきたときはジロジロ見られたような気がしたけれど、まぁこればっかりは仕方ない。
「テストダルいな〜。さっさと終わらせて練習したい」
「分かる。日曜以外ずっと部活なのも疲れるけど、いざテスト前で練習なくなると寂しくなんない?」
「アレじゃない? 野球部の奴らが練習キツいとかサボりたいとか言いながらも、部活辞めないのと同じヤツ。つまり俺らも野球部」
「アハハ、何それ。意味わかんない」
家で1人で勉強するより、無駄話をしながらの方が捗るのは何でだろう。
ノートに文字を走らせるシャーペンを握る右手には、重村に触れた熱の感覚が僅かに残っていた。