3 自信
今回は、シゲムラくんについてです。
男子高校生にとって、母親とは鬱陶しい生き物だ。
そりゃもちろん、毎日ご飯を作ってもらって、服を洗濯してもらって、お世話になっている自覚はある。絶対本人には言わないけど、ありがたいとも思っている。
とはいえ。
「女の子ってオレンジジュースとサイダーとレモンティーで大丈夫かしら?」
「あー、うん。多分大丈夫なんじゃないの?」
「明日この服着る予定なんだけど、高校生の目から見て変じゃない?」
「……いいんじゃない」
……香里が家に来る前日の母親、めんどくせぇ。
俺や弟の友達が家に遊びに来るときなんて、飲みかけの2Lコーラと特売で買ったビッグサイズのポテチを押し付けるだけじゃないか。
それなのに、「テスト明けの日曜に香里家に呼ぶから」と伝えた翌日にはスーパーでお菓子を数種類調達してきたらしいし、今日なんて大掃除かっていうぐらい隅から隅まで家中の掃除。
そのお陰か今日の夕飯は作る時間がなかったそうで、さっき出前の注文を電話したところだ。
「もし私が出しゃばりすぎたら、航太郎が言ってね。とにかく、嫌われないようにしなくちゃ……」
顎に手を添えながら、同じところを何度もウロウロしている。父親はスマホの野球中継に、弟はテレビ画面の中のゲームに夢中で、母親のことは一切気にしていない。
「てか、別に香里はそんなことで嫌いにならないだろ。ちょっと大袈裟なんじゃないの?」
香里も香里だ。
今日の部活帰りに「大丈夫かな、嫌われないかな」って心配そうにしていたし。お互いそう思ってるのなら大丈夫なんじゃないのか。
弟の操作するゲームのアバターを片目に、母親にそう言ってやると、俺を軽蔑するかのような目で言い捨てた。
「……あんた、フラれるわよ」
「はぁ? 意味分かんねぇ」
今の会話のどこにフラれる要素があったのか、さっぱり分からない。これ以上母親と会話をしてもストレスが溜まるだけだと判断した俺は、夕飯まで2階の自室にこもることを決めた。
■
今日の香里はグレーのデニムの上着に、ボーダーの服と、ピンクか紫かよく分からない色のスカートみたいなズボンを履いている。
部活のある日はポニーテールだけど、休日のデートや一昨日まで続いていたテストの日には髪の毛がおろされている。どっちの髪型も好きだけど、今日みたいにおろされている日は特別感があってちょっと可愛い。クルクルしている日もあるけれど、今日はストレートの日らしい。
母親に促され、普段この家で滅多に登場することのない赤いスリッパを履いた香里は提げていた紙袋を母親に手渡した。
「……あの、この前は手ぶらで来てしまったので。家の近所で買ったケーキなのですが、もし良かったら」
「そんな! わざわざ気を遣ってくれてありがとう。せっかくなのでご馳走になりますね」
ペコペコと頭を下げる彼女と母親のコンビネーションを見届け、リビングに入った俺達はソファへと腰掛けた。「何か手伝いましょうか」とあたふたする香里を静止させ、母親がバタバタとジュースやら菓子類やらを持ってくる。
ウキウキ気分でケーキの箱を開けた母親が、皿へとショートケーキを運んでいたのだが、ここで思わぬハプニングが発生した。
バランスを崩した2つ目のケーキが皿の上で倒れてしまったのだ。
「あら、ごめんなさい。この倒れちゃったのは私がいただくから」
そう言って母親がその皿を引き取ろうとしたのだが、俺の隣に座る香里が腰をあげてそれを静止した。
「いえっ、私がいただきます」
「ダメよ、香里ちゃんはお客様なんだから」
「そんな。あくまで家族の皆さんに買ってきたケーキなんで、私なんかついでなので」
香里と母親の間で、倒れたケーキの引き取り合戦が続く。
お互いに遠慮しているせいか、一歩も引く気配がない。
「……分かった、じゃあ俺がそれ食べるから」
いつ終わるのか分からない押し問答を解決させるには、これが1番手っ取り早い。
そう思って手を差し出したのだが、なぜか2人はキョトンとした顔で俺の方を見てくる。
「……い、良いの?」
俺の方を見る香里は、何かを期待するような目をしていて。
倒れたところでケーキは美味いことには変わりない。「別に良いよ」と答えると、香里は嬉しさを噛みしめるようにはにかんだ。たかがケーキとはいえ、とにかく香里は喜んでいるらしい。
「来週は体育大会があるのよね。香里ちゃんは何に出るのかしら?」
器に盛られたチョコレート菓子の個装を破きながら、上機嫌で母親が香里に話しかける。ペットボトルのレモンティーが注がれたコップを口にした香里はニコニコとそれに応対する。
「1年団体種目の玉入れと、100m走と女子100mリレーです。リレーはアンカーになっちゃって緊張してます」
「まぁ、香里ちゃんたくさん走るのね!」
母親はわぁ、と小さく拍手をしているが、俺だって玉入れと100m走とクラス選抜リレーに出る予定だ。この前聞かれたから教えたはずなんだけど。多分、そんなことすっかり忘れているのだろう。
今日香里が家に来るまでは、お互いあんなに心配していたのに、結局俺のことなんて放ったらかしで盛り上がっている。
何をそんなに過敏に心配していたのだろうか。
男の俺にはさっぱり分からない。
■
俺は何とかタイミングを見計らって香里を母親から引き剥がし、自室に連れ込んだ。
香里とは部活やデートの帰り際に、周囲を確認してから軽くキスするだけの関係止まりで、それ以上の進展はない。
1階には相変わらず母親がいるし、しばらくしたら弟も帰ってくる予定だ。それでも2人っきりの空間で多少のイチャイチャが出来ることに、俺の心は浮足立っていた。
それなのに、香里の脳内は俺の母親で埋め尽くされているらしい。
「はぁー、良かったぁ。おばさんとっても良い人で話しやすかったな」
俺が隣にいるというのに、香里は母親の話ばっかりだ。
そもそも、香里だったら俺の母親と上手くやれることなんて、既に分かりきっていたことだし。
いい加減飽きた俺は「何でそんなに俺の親のことばっかり気にする訳?」と蓄積されたものを香里にぶつけた。すると、彼女はジトッとした目で「鈍すぎ」と軽く俺を睨みつけた。
「航太郎にとっては同じ家に住んでる家族だけど、私にとっては違うんだからね? 初めて会った夏休みのときはバタバタしてたし、文化祭で一緒に回ってるときだって軽く挨拶しただけで落ち着いて話せなかったもん。そりゃあ緊張するに決まってるでしょ」
「……そうかもしれないけど。でも香里だったら大丈夫に決まってるし、結果仲良くやってたじゃんか」
「それは結果論でしょ? 信頼してくれてるのかも知らないけど、ちょっと雑すぎ! 『大丈夫っしょ!』みたいな丸投げな感じじゃなくって、『大丈夫ダヨ〜』って寄り添ってほしいの!」
「……はぁ。……これから気をつけマス」
おそらく、ここで何かしら意見を述べたら香里は怒る。俺の配慮が足りなくて文句、……じゃなくてリクエストを言われている訳だから、黙って頷いておこう。
香里は三角座りの膝の上に顎を乗せ、「面倒くさい言い方してごめんね」とばつの悪そうな顔をしながら小さく謝る。このように彼女は、時折俺に対する不満をぶつけては、その後しばらく黙り込んだまま後ろめたい表情を浮かべるのだ。
面倒くさくないと言えばさすがに嘘になる。けれど付き合ったからこそ見られるようになった、彼女のこういう一面は案外嫌いじゃない。
あぐらをかいていた膝を伸ばした俺は、しゅんと俯いていた香里を太ももの上に座るよう促す。「重くない?」と腰を上げて躊躇する彼女の腰に腕を回すと、観念したのか香里は向かい合わせの状態で腰を下ろし、俺の肩に抱きついてきた。
数週間前に電池を入れ換えたばかりの壁掛け時計の針の音が、チク、タク、と静まり返った部屋に響く。柔らかい彼女の身体から体温と鼓動が伝わり、『生きているな』なんてことを実感してしまう。
「付き合うのって、こんなにカロリー消費するものだって知らなかったな」
俺の首筋に頭を埋めながらポツリと漏らした香里の一言に、思わず冷や汗が流れる。もしかしたら、香里は付き合うことに疲れてしまったのだろうか。『別れ』の2文字が脳内をよぎり、青ざめてしまった俺の顔を見た彼女は「あっ」と小さく声を漏らした。
「悪い意味に捉えないでね? 勿論航太郎のことは好きだし楽しいから付き合ってるんだよ。それでも、イライラしたり不安になったりすることってあるじゃん? 1個解決したと思ったら、また新しいモヤモヤが生まれてきてさぁ」
伏し目がちの香里の睫毛にはマスカラとやらが塗られている、と思う。多分。
以前ショッピングデート中に彼女が化粧品を眺めていたときに『化粧なんて意味あんのかな』と言って怒られたことを思い出す。想いが通じ合ったとしても、100%の意思疎通と相互理解が出来るなんてことはあり得ない。日々手探り状態で続く関係は、トライアンドエラーを繰り返して少しずつ進んでいくものだと、この数ヶ月で少しずつ気づきつつある。
「たしかに。てか、そんなややこしい言い方してくるから、もしかして今からフラれんのかなって軽く焦った」
「大袈裟だなぁ」
安堵のため息を吐く俺に、香里は「浮気とかしたら秒でフッてやるけどね」と鼻で笑う。浮気なんてする余裕は毛頭なかったが、その冷酷さに背筋が凍る。
何だか悔しくなったので、「しないから」と否定してから数回啄むようなキスをしてやると、香里は「信じてるよ」とニヤリと笑った。
「そうそう。さっきのケーキ、嬉しかったな。気遣ってもらえてキュンと来ちゃった」
……なるほど、そういうことだったのか。
気遣いが出来る男はモテる、なんて話は聞くけれど『何それ?』というのが俺の正直な感想だった。
とりあえず、倒れたケーキを選んだことで香里の中の気遣いポイントが加算されたらしい。
女心の分からない俺には、香里のことを理解するのに必死で、他の人に目を向ける暇なんてないのだ。自信のない俺は、こうして彼女に翻弄され続けることに心地よさすら感じている。
何度かキスを重ね、息継ぎで薄っすらと隙間の空いた彼女の口内に、俺は恐る恐る許しを乞うように、自分の舌を差し入れた。




