1 1年8組のタチバナさん
6月半ばにもなると、夜7時前となっても随分暑い。
部室のドアをくぐると、ぬるい風と部活終わりに塗りたくった制汗剤が体の体温を冷やしてくれる。
「今日鍵当番誰だっけー?」
「私おとといの月曜日だったから、私の次の次の人!」
「はいはーい、私! 私だから!」
「そっかそっか、香里か。んじゃよろしく!」
10日前のインターハイ予選、私達女子バレー部は3回戦で劣勢の試合をなんとかデュースに持ち込んだものの、結局敗れてしまいベスト16入りを逃してしまった。3年生の先輩方が引退してしまった体育館は、心なしか広くなってしまった気がする。
練習終わりの片付けは先輩後輩関係なく部員全員でするのが女子バレー部の決まりだけど、部室の鍵閉めは基本的に下級生の仕事。
忘れ物がないか確認してから鍵を閉め、どこのお土産なのかよく分からない色褪せたマスコットキーホルダーのついた鍵を手に、1年生の選手とマネージャーの皆で体育教官室へと向かう。当番とはいえ結局1年の女子皆で一緒に帰るため、鍵当番というよりかは鍵返却当番みたいなものだ。
ノックして教官室に立ち入り要件を告げると、体格のいい男の先生が野太い声で「おー、お疲れ様」と片手をひょいと振る。
鍵を手渡してぺこりと頭を下げ、「失礼しました」と告げて扉を開けてからふと異変に気づく。
扉の外で待ってくれてるはずの友達がその場にいない。
たった数分の間に、一緒に帰るはずの集団が校門の方へと向かっているのが、暗がりの中でも確認できる。
混乱状態の中、追いかけようと踏み出したところで背後から声をかけられ、あぁと訳を理解してしまった。
「橘、おつかれ」
恥ずかしそうに短髪の頭を掻きながら「ごめん」と小さく謝るのは男子バレー部1年の重村 航太郎だ。
163cmの私から見ても比較的高いんじゃないかと思われるその身長はまさにバレー向き。衣替えを済ませた半袖のシャツからはゴツゴツとした長い腕が露出している。奥二重の目と薄い唇といういかにも日本人的なパーツのせいで、鷲鼻と少し大きめの口が際立っているけれど、総じて顔の印象は薄め寄りだ。
「お疲れさま。……もしかして、皆先帰っちゃったの重村のせい?」
「あー、うん。……駄目だった?」
「……いいよ別に」
GWの部活終わりに1年生のバレー部男女全員で親睦会をしてからというものの、重村からはよく話しかけられたりLINEがマメに送られてくる。話の内容自体は至って普通で、その日の練習の感想とかクラスの友達の話、前日に見たテレビやアプリの動画について、などなど。
私の中では、重村という人間は男友達の枠組みに入っているのだけど、彼にとってはもしかしたらそうではないのかもしれない。最近では色々と察し始めた女子バレー部の皆に「重村とは最近どうなの?」なんて聞かれたりする。
「明日からテスト前で部活休みだから、最後に橘と話しておきたかったんだよな。それで、女子達も気遣ってくれたみたいなんだけど」
「うん、重村がここにいるの見て何となく察した」
「そっか。じゃあ、駅まで一緒に帰らない?」
「分かった、良いよ」
横に並んで歩きはじめた重村に「他の男子は?」と尋ねると「先に帰った」と短い返事が返ってくる。私の知らぬ間にさっさと外堀は埋められている、……のかもしれない。
「……今日の重村大人しいね」
「そっ、そう? 気のせいだと思うけど」
「ハイハイ、そういうことにしといてあげる」
わざとおどけて腕を軽くグーパンしてみたのに、重村はノーリアクション。なんなら前を向いたままで、一切目が合わない。目線で彼の様子を伺うけれど、雲の被さった夕日の逆光で表情までは読み取れない。
最終下校時刻を知らせる7時のチャイムが鳴り響き、野球部の野太い掛け声が揃う。円陣を組むその様子を眺めながら、ようやく重村は「野球部の練習って長いよな」なんてつまらない世間話を口にした。いつもよりテンポの遅い会話にどこかムズムズとした気分になる。
校門を出てすぐの場所にあるコインパーキングの前で、男子バスケ部のエナメルバッグを提げた生徒達がガードレールに寄りかかっている。どうやら重村と知り合いだったみたいで、「じゃあな重村〜」と声をかけられた彼は「おう」と片手を上げて対応する。
そのタイミングで私達の会話が途切れてしまった。
前方を歩くどこかの部活の集団から聞こえてくる笑い声が、数メートル離れたこっちにまで聞こえてくる。
私から話を振っていいのかも分からず、今すぐこの沈黙から逃げ出したい気分でいっぱいになる。
後方から来た車のライトが足元に私達の伸びた影を作り、通り過ぎてその影が消えてしまうのを数回繰り返したあと、ようやく重村は話を切り出した。
「あのさ」
急に私の方へと振り向いた重村の顔は、薄暗いこの時間でも分かるくらい真っ赤に染まっていて。その真剣な表情にまだ話の内容は分からないけれど、反射的に身構えてしまう。
「多分気づいてると思うんだけど。俺、その……」
「何?」
「橘と付き合いたいって思ってる」
「……うん」
確信まではいかないけれど、うっすらと気づいていた。
彼の取る行動が、雑誌などでよく書かれている『脈アリ』というものであることを。
世間話感覚で私と重村の仲を探ってくる部活の友達の話に「そんなんじゃないよ」なんて言いつつも、どこか心の中では状況を理解している自分がいることを。
1週間後の期末テストに備え、明日から部活動が休みとなるこのタイミングで重村が行動を起こした理由を。
やっぱり告白された。
されるかもって分かっていたのに、それでも告白されたという事実に思わず動揺してしまった自分がいて、バレないように唾を飲み込む。
「別に今すぐ返事してほしいって訳じゃない。とにかく好きだってのを知ってほしかっただけ」
「わ、分かった」
さっきまで重村が顔をそらしていたのに、今はここぞとばかりに私の方をガン見してくる。顔の火照りまで移ってしまったみたいで、思わず足元へと目線をそらしてしまう。
両頬に手を当てても、十分に熱い指は一向に顔の熱を逃がしてくれない。
「……実際、橘的に俺ってどうなの?」
「どうなのって……。友達としてはアリだけど、恋愛とか、そういうのは、どうなんだろ……」
「……そっか」
そうなのだ。
たしかに重村とは最近よく話すし、連絡もとる。
けれど私にとって重村は友達の延長線上にいる存在で、それが恋愛へと結びついているのかはよく分からない。
それに重村と接点が増えたのもここ1か月の間。私は彼のことを知っているようで、実際はあんまり知らないのだ。
駅前の交差点に架かる歩道橋の上を、自転車を押すサラリーマンに道を譲るように前後に並んで歩く。横に並んで歩いていたときより少し速く進む彼の足についていきながら、見慣れない彼の背中をぼんやりと眺めていた。
「てか、重村は気まずくなるかも、みたいなこと考えなかったの?」
車道の騒音に声が掻き消されるのを期待して、聞こえるか聞こえないか微妙な声の大きさで呟く。私の方を一瞬だけ振り向いた重村は少し動揺したのか、その場で軽く躓いてしまう。
「もしかして今の聞こえてた?」
「うん、まぁ一応」
「ごめん、やっぱ今のナシ。忘れて」
よくよく考えてみると失礼な発言だったかもしれない。
告白してくれた相手に対して『気まずくなるんじゃない?』なんて。
聞くんじゃなかった、と後悔しながら歩道橋の階段を降りる。友達と帰るときは普通に降りていたはずの階段なのに、なんだか急にぎこちなくなってしまう。足元に視線を向けたまま、段差に貼られた反射板を頼りに一歩一歩確実に階段を降りていく。
一足先に降りていた重村はノロノロと階段を降りる私をじっと眺めていて、その様子に思わず手すりを握る手に力がこもる。私の足がようやく地上にたどり着いたところで、その場に立ち尽くしたまま重村が「さっきの質問だけど」と口を開いた。
「正直思ったよ、テスト明けから気まずくなるかなって」
私の目をまっすぐと見たまま重村は「ここだと邪魔になるから」と歩道の脇へと私を誘導する。歩かないのかな、なんて口にしようとした声は音にならずに消えてしまった。
立ち止まってしまうと、恥ずかしさからも、相手からも、もう逃げられない。
「本当は今日告るか迷ってたけど、言わなきゃ始まんないし。さっきも言ったけど今すぐ付き合ってほしいとは思ってない。徐々に意識してくれたらな、とは思ってる」
ナニコレ。
目の前にいる私を見つめるこの人は、いつものヘラヘラとした重村のようでいて、どこか知らない人みたいだ。
急に心臓がバクバクと音を立て始め、酸素を求めて脳みその血液がグルグルと頭の中を巡る。
「それに橘だったらもし振られても、しばらくしたら普通に接してくれるんじゃないかなーって。少なくとも俺の悪口とか言わなさそうだから」
「……そっか」
横断歩道の電子音がどこか遠くで聞こえる。
気づいたときには既に夕日は完全に沈んでいて、暗い夜の中、私と重村の2人だけがここに立ち尽くしているかのような感覚に陥る。
理由はよく分からない。
もしかしたら、早まったのかもしれない。
でも、なぜか私の中で1つの答えが生まれてしまった。
「分かった。私、重村と付き合う」
目を合わせたまま大きく首を縦に振ると、途端に重村は口をポカンと開けて数秒固まった。
「……は?」
眉間にギュッとシワを寄せてから、怪訝な表情のまま重村は両手をアワアワと動かし始める。
「ちょ、ちょっとストップ! いや、告ったの俺だけどさ! そんな急いで答え出してくれなくていいって!」
「はぁ、何それ?」
さっきまでの真剣な様子とは一変、慌てるその様はどこか滑稽で。大体告白してきたのはそっちじゃん、と言い出したくなるのをギュッと飲み込む。
「その、あわよくばとは思ってたけど! 別に俺のこと好きじゃないんだったら無理に付き合ってくれなくていいから!」
「何で? 付き合ってみたら案外何か始まるかもしれないじゃん」
「いや、そうかもしれないけどさぁ?」
「よく言うじゃん、付き合ってから好きになったって。私今まで付き合ったことないから、どうなるか分かんないけどさぁ」
「付き合ったことない? いや、今はその話は置いといて。えっと……」
「それとも何? やっぱり付き合うの止めといた方が良かった?」
目を細めて重村を見上げると、狼狽えた彼は言葉を詰まらせて頭を抱え込む。
そのままスーハーと小さく深呼吸をしてから、小さな声でボソリと呟いた。
「……本当にいいの? 俺が初めての彼氏で?」
「告白しておいて今更?」
「いや、是非ともヨロシクオネガイシマス」
「いーえ、こちらこそ」
プッと小さい笑い声が漏れてしまった私を見て、重村はプイッとそっぽを向いてしまった。「早く帰ろう」と照れ隠しのように早口で喋りだした私の初めての彼氏は、そそくさと駅へと歩き始めた。