11 初恋
部屋に虫除けスプレーを撒いてから窓を開けると、ジメジメとした温い空気が部屋に入りこんでくる。夜になったら雨は止むとの天気予報どおり、夕方までパラパラと降っていた雨は止んで、家の屋根に溜まった雨粒が雫となってポツリと落ちるのが見えた。
動画アプリを開いて再生ボタンを押してから、スマホリングで横向けたスマホをローテーブルの上に自立させた。
『セッキーです。ララです。セキララちゃんです! トゥインクル〜、イェイ☆』
足の爪にピンクのマニキュアを塗りながら私が観ているのは、女子高生の間で今人気の女性インフルエンサー2人組の動画だ。19歳の読者モデルが赤裸々に語る豊富な恋愛エピソードと、ティーンならではの視点が人気で、友達との会話の中でもちょくちょく彼女達の名前が挙がる。
『セッキー激萎え元カレエピソード 第3位! 生活力のない男!』
『うわ〜それは萎える! だらしない男の人って、こっちにまで悪影響及ぼしてるからマジ疫病神』
可愛いフォントのテロップを目で追いながら、順番に色づいた足の指先をローテーブルの上に置いてあった下敷きで扇ぎ、乾燥を促す。人差し指で軽く表面に触れ、固まったのを確認してから100均のトップコートを重ねていく。
『ララ激萎え元カレエピソード 第2位! 元カノの写真を消してない男!』
『めっちゃ分かる、私もこれすっごく嫌!』
『何で男って彼女の元カレ嫌がるくせに、自分は元カノのこと心のどっかに置きたがるんだろう? 自分に都合良すぎるよね』
パステルカラーの可愛らしいソファの上でヒートアップする画面の中の2人の話を聞きながら、ふと思った。
そういえば、重村は元カノとかいるんだろうか? デートしたのも、ご飯を食べたのも、電話をしたのも私が初めてだと言っていたから多分彼女いたことはないと思うんだけど。
……さすがに初恋ぐらいは経験あるよね?
友達との恋バナで、元カノの話で喧嘩したという話を聞いたことがあった。そのときは彼氏最低だな〜、ぐらいにしか思っていなかったけど、世のカップル達は一体どんなタイミングで元恋人や昔好きだった人の話をするんだろう。
潔く聞くのかな? ふとした瞬間にオンナの勘が働くのかな? それともなにかの拍子にポロって言っちゃうのかな?
除光液を垂らした綿棒ではみ出たネイルポリッシュを拭き取っていると、重村から【今電話していい?】とのLINEが届いた。
通知をタップし、いいよと入力して送信ボタンを押す手を、止めた。なんとなく、今日は自分の方から電話をかけてみたい。ペディキュアがよれないようにそっと立ち上がり、窓を閉めてから妹の部屋からできるだけ離れた場所で長座の体勢になる。
発信ボタンを押すと、木琴の音がワンフレーズ流れきる前に『もしもし』と男の声がイヤホンから直接耳に聞こえてきた。
『今何してた?』
「今はね、動画見ながら足にネイル塗ってた」
『ネイルって爪に絵の具みたいなの塗るやつ? とんがりコーンみたいなの付けるやつ?』
「フフ、絵の具の方だね。それで電話してきたのは何かあったの?」
『いいや、普通に喋りたかっただけ。橘電話嫌い?』
「そんなことない。中学の友達とかたまに電話するよ」
座ったままモゾモゾと移動して、ローテーブルの上に置いていたエアコンのリモコンを手繰り寄せる。稼働年数4年目の電化製品は、起動時は部屋に少し温い風を送りこんでくる。しばらくすると部屋がひんやりしてきたので設定温度を上げた。
「展示いいなー。私のクラスはイベント展示少数派だったの。本当は展示が良かったけれど、多数決のときなんとなくお店の方に手挙げちゃった」
『それ多数決の意味あんのかなぁ。結局橘のところは何すんの?』
「私のクラスはうさ耳のカチューシャ付けてジュース屋さんするよー」
『うさ耳? 橘も付けるの? 絶対見たい。見に行く』
「えー。良いけどちょっと恥ずかしいな」
文化祭の話や、帰り道にあった出来事の話で盛り上がる中、私の中では1つ心に引っかかるものがあった。
それはさっきの動画を見ながら考えていた『重村は以前、どんな女の子のことが好きだったんだろう』ということだ。聞きにくいことほど、好奇心が膨れ上がってしまい、余計に聞いてしまいたくなる。もしかしたら、他のカップル達もこんなことを感じて、恋人に昔の恋愛を聞いてしまうのかもしれない。
少し話が途切れたタイミングで、意を決して「全然関係のない話をしていい?」と尋ねると『いいよ』と返事が返ってきたので、思い切って「重村って初恋いつ?」とスマホのマイクに言葉を乗せた。電話口からゴホッと咽る音が聞こえてから、重村は『本当に関係なかった……』と小さく呟いた。
「で、いつなの?」
『うーん。いつかって聞かれると小4かな』
「へー! どんな子だったの? 可愛かった?」
『……まぁ割と他の男子からも人気あったと思う』
どうやら初恋の相手は同じクラスの女の子だったらしい。
当時クラスの男子達数人で、教室の隅っこでこっそりトカゲを飼っていたのだけど、重村の不手際でそのトカゲが脱走してしまったそうで。放課後たまたま教室に残っていた女の子が、嫌々ながらも、生き物を助けなきゃという正義感で捜索に協力してくれたのがきっかけだと重村は語った。
いかにも小学生な重村少年のエピソードに私は笑いを堪えていたけれど、初恋相手の好きな人が教育実習の男の先生だったと噂で聞いて失恋した、という相手側のマセた理由に、ついに堪えきれなくなってアハハと笑ってしまった。
「私は小2の頃なんだけど、近所にサトイ タケルくんっていう、当時6年生のイケメンのお兄さんがいてね。当時は私の近所に住む女の子、みーんなタケルくんのこと好きだったんだ」
イケメン俳優とよく似た名前のタケルくんは、その名に恥じぬ整った顔立ちとスマートさを合わせ持ち、明らかに他の小学生達とは違うオーラを放っていた。
『へぇ〜。今もその人近所に住んでんの?』
「そうだよ。さすがに周りの子全員初恋なんて終わってるけど、ご近所のおばさん達からは未だに人気でね。おばさん達はタケルくんの話でよく盛り上がってるんだよ。すごいでしょ?」
あまりミーハー要素の少ない私のお母さんですら、タケルくんに関してはアイドルのような扱いをしているのがちょっと面白い。
けれど、重村にとってはあまり面白い話ではなかったようで。
暫しの間が空いてから、『ふーん』とテンションの低い返事が返ってきた。
『……ちなみにタケルくんって人とは今でも仲良いの?』
探りを入れてくるような声色に「えっ」と声が漏れる。
これは友達付き合い(?)の短い私でも分かる。
重村は今、絶対に拗ねている。
「ま、まさか。だってタケルくんって4つも年上だよ? 小さいときからすれ違っても会釈するかしないかぐらいの関係だって。……何それ、もしかして嫉妬でもしてるの?」
最後のは、その場を茶化すように冗談半分で尋ねただけだった。けれど、スマホに接続されたイヤホンからは素直に『うん』とだけ返事が返ってきてしまい、思わず面食らってしまう。
『……その人のことはタケルくんって呼んでるのに、俺は?』
「もしかして名前で呼んで、みたいなこと……?」
『うん、呼びにくかったらいいけど。……イヤだった?』
懇願するようなその声に、思わずひゅっと息を呑んだ。
スマホリングに指を通してはいるものの、手にかいた汗で滑り落ちてしまうんじゃないかと錯乱しそうになり、スマホを強く握り込む。
キュッと息苦しくなった喉から「いいよ」と絞り出すようにか細い声で何とか承諾の意を示した。
『じゃあ俺も香里って呼びたい。てか呼ぶ』
「わ、分かった……。重村のお好きにどうぞ」
『……重村じゃなくて』
「あっ、ごめん。えっと、こ、航太郎……?」
『ワンモア、もう1回』
「……航太郎。ちょ、ちょっと待って! 呼び慣れないからめちゃくちゃ恥ずかしい……!」
空いた左手で顔を覆いながら、悶えるように空中で足をバタつかせる。多分今の私の顔は真っ赤だ。そんな私の様子はお構いなしに、電話の相手は『今の録音したい』とかバカなことを宣っている。絶対に止めてほしい。
『めちゃくちゃヤバい。てかビデオ通話に変えていい?』
「は、はぁっ?! 今? 今は絶対無理! それより、そろそろ充電ないから電話切るね。じゃっ、バイバイ!」
『ちょ、ちょっと――』
これ以上は羞恥心の限界だった。
無理やり通話を終わらせてイヤホンを引っこ抜き、フラフラとさまよいながらベットにボスンと倒れ込み、枕に顔を埋めた。
……何、最後のバカップルみたいな会話。
足の爪のネイルがよれてしまったら、間違いなくそれは重村のせいだ。




