0 1年1組のタチバナさん
今日は本当に散々な日だ。
高校に入学して2週間。新しく出来た友達とのLINEが盛り上がったせいで昨晩は夜更かししてしまい、いつもより20分も寝坊してしまった。
慌てて準備を済ませて家を出たものの、駆け足で駅まで向かったせいでお昼休みに開けたお弁当箱の中身のオムライスはぐちゃぐちゃに。
おまけに体操服を持って来るのを忘れてしまい、慌てて他クラスの友達に体操服を借りて、なんとか憂鬱な体育の時間を乗り切った。
ため息をつきたくなるのを我慢しつつ、今日の一連の出来事は寝坊した私が悪いのだと割り切ることにしたんだけど。
「もしかしてマネージャー志望の子? 初めて来てくれた子だよね?」
蛍光色のウェアを着た上級生達は私と友達を囲っているはずなのに、明らかに目線は私の方だけを見ている。
他にもサッカー部を見学しにきた1年生は大勢いるのに、絡まれているのは私達だけで。明らかに異様なこの風景に、少し離れたところでコーンを運んでいるマネージャーの先輩達からの目線が痛い。
「い、いえ……。ちょっと見に来ただけなので」
「へぇ〜、そうなんだ。絶対サッカー部にしておいた方が良いよ!」
「サッカー楽しいから! マジおすすめ!」
「……あ、ありがとうございます」
友達と一緒に他の部活に入るつもりだけど、本当はずっとサッカー部に興味を抱いていた。運動自体は苦手だけど、マネージャー自体に憧れがあったのだ。
クラスの友達が「サッカー部の見学行ってみない?」と話していたのを聞きつけ、見学について行きたいとお願いしたのは私。テレビの世界大会をちょっと見たぐらいだけど、カッコいいなって思ってサッカー部を見に来たのに。
震える声で頭を下げると、先輩達は気まずそうに互いの顔を見合わせる。私の反応が良くなかったことにマズイと思っているのだろう。
「え〜っと、何かゴメンね? ……とりあえず、練習だけでも見てってよ」
「……はい、ありがとうございます」
「じゃあ、俺達練習戻るから。見学で分かんないことあったら聞いて」
手を振った先輩達はそそくさと退散してしまい、運動場で輪になって集まる集団の方へと戻っていった。他のサッカー部員に紛れ、どこにいるのか分からなくなってしまってから、ふぅとため息をついた。
「……ごめんね。私が一緒に行きたいって言ったのに変な感じになっちゃって」
一緒に見学に来た友達に頭を下げたままでいるのは、彼女達の表情を確認するのが怖いから。それでも親切なクラスメイトは「大丈夫だよ」と軽く私の肩を叩いた。チャラチャラした先輩に絡まれたっていうのに、嫌な顔1つ見せずに大人な対応をしてくれた友達の優しさに胃がキリキリと軋む。「本当は今の嫌じゃなかった?」と聞きたくなる気持ちが喉元まで込み上げてくるのをゴクンと飲み込んだ。
本当はサッカー部、入りたかったのに。
一緒に駅へと向かう友達の話に相槌を打つけれど、話の内容が頭の中に入ってこない。こんなときに限って、履き慣れない新品のローファーが足指の幅を圧迫してくる。痛みを誤魔化すために、こっそりと足元の小さな石の欠片を蹴ると、真っ直ぐに蹴ったはずの小石は斜めにある側溝へと吸い込まれてしまった。
電車を利用する友達と駅のロータリーで別れてすぐに「疲れた」とため息が漏れた。バスを待つベンチに空きがないか無意識に探してしまう。街頭演説のマイクの割れる音が耳の中で入り乱れて、グワングワンと頭を揺らす。
駄目だ、なんかフラフラしてきたかも。
重力に従ってその場にしゃがんで俯くと、熱の引いた頭頂部に少しだけ血の気が戻ってくるような感覚が巡る。警告音のようにガンガンと鳴り響いていた頭痛が少し鳴りを潜める。
ああ、もうこのまま立ち上がりたくないかも。本当、今日って最悪。
でも、人に囲まれてしまった気配がする。正直今は誰とも話をしたくないのに。
「……あの、大丈夫ですか?」
顔を上げて目に入ったスカートとかけられた声に、女の人で良かったと少し安堵した。声をかけてくれた女子高生は私と同じ高校の制服を身にまとっている。
「ありがとうございます……。ちょっと貧血なだけで、すぐ良くなりますから」
膝を抱えながらペコリと頭を下げると、ポニーテールの女子生徒は眉を下げて私の顔色を確認した。
「と、とにかく! 水とかお茶持ってますか? 水分取ったらちょっとはスッキリするかも」
「……はい。カバンの中に水筒入ってるので、それ飲みます」
「あと、こんなところじゃなくてイスに座りましょ! 歩けますか?」
彼女はフラフラと立ち上がる私の左側に寄り添いながら、少し離れたところにあるベンチへと誘導してくれた。運良く空いていたベンチの真ん中に腰掛け、リュックから水筒を取り出す。保冷の効いたほうじ茶がひんやりと喉を潤してくれる。鏡がないから確認出来ないけれど、真っ青だったはずの顔色もちょっとは良くなっただろう。
「ありがとうございます。お茶飲んで座ったら、気分もマシになってきました」
「ホントですか? 良かったぁ」
中腰で目線を合わせる彼女はホッとした表情を見せる。私だけベンチに座って申し訳ない気分になるけれど、こればかりはどうしようもない。
「どうですか? 念のため家の人に連絡して迎えに来てもらった方が良いかも」
「……いや、大丈夫だと思います。お母さん忙しいから連絡はちょっと……。だから次のバスで帰ります」
「……そっか、分かりました。あんまり無茶しないでください」
時間を確認するために彼女がスマホを取り出した胸ポケットに視線を送り、付けられたローマ数字のピンバッジを確認する。
私が通う高校には名札はなく、代わりに付けられているのは、学年ごとに色分けがされたクラスバッジだ。赤色のⅧのそれを見るに、どうやら同じ1年生の人らしい。とはいえ、1組である私にとって8組は1番遠いところにある教室なのであまり接点はなさそうだけど。
「……あの、お名前聞いていいですか?」
スマホから顔を上げた女子生徒はきょとんと不思議そうにしたあと、アハハと小さく笑った。スマホリングの付いたクリアケースには、6人ぐらいの女子生徒が中学時代のものと思われるセーラー服姿で写るプリクラが入れられている。
「名前言うタイミング忘れてましたね。ごめんなさい」
いえ全然、と口を開こうとしたタイミングで私の言葉を被せるように彼女が顔を上げ、片手で日差しを遮りながらロータリーの方を確認する。
「ちょうど今バス来ましたよ。立てそうですか?」
「は、はい」
少し立ちくらみはするもののさっきよりは随分マシ。これならきっと家まで大丈夫だろう。
座ってたときはあんまり分からなかったけれど、ポニーテールの彼女は少し背が高い。紺色のブレザーに、青いチェックのスカートと胸元の紐リボンの制服がスラッとした姿に良く似合っている。……150cmにギリギリ届くくらいの私にとっては、誰だって背が高いんだけど。
プシューと音を立てながら定位置にバスが止まり、私がペコリと頭を下げると「そうそう」と彼女が取ってつけたように背後から声をかける。
「名前言うの忘れてた。私の名前は橘 香里です」
「タチバナ カオリちゃん……」
「はい、橘香里です。あ、引き止めちゃってごめんなさい。そろそろバス出発するかも!」
「本当だ……。じゃあこれ乗りますね。ありがとうございました」
間もなくドアが閉まりますとのアナウンスに、会釈をしてから急いでバスに乗り込む。周囲を確認してから偶然空いていた座席に腰掛ける。窓の方を振り向いてタチバナ カオリちゃんの方に再度頭を下げると、ゆっくりとバスは動きだした。
次話から本編です。