第2話 ひなた
十年前…二十五歳の頃。
一人暮らしを始めようとし、猫を飼う時のためだけにペット可の広いマンションに引っ越した。
猫が走り回れた方がいいかな、仕事に行ってる間ケージに入れるより、部屋で自由に過ごせた方がいいだろうし、一部屋を猫用にしてしまおう。などと考えていたら、独り身なのに部屋が三つも有るペット可のマンションに決まってしまった。
不安と期待で始まった一人暮らしだが、それから数年、仕事が忙しく結局猫を飼う事はなかった。
ひなたは元々捨て猫だった。
今から二年前の冬、寒さが本格的になってきた頃に出会った。
残業で遅くなった仕事帰り、自宅近くの公園から聞こえた「ミー…」という甲高く、細く弱々しい声。
その声が気になり、一人暮らしを始めてから一度も入った事のない公園に足を踏み入れた。
「どこ……?」
公園内、見渡す限り「それ」らしき姿は無い。
「ミ〜……」
冬の寒空の下、今にも消えてしまいそうな、か細い鳴き声。
助けて…と、そう聞こえた。
助けたいと、そう思った。
最後に聞こえたその声を頼りに、公園の隅にある草むらを掻き分けるように必死に探す。
スーツが汚れようが手に擦り傷が増えようが構わず。
彼の膝程もある高さの草の合間。
そこに、いた。
衰弱しているのか、何かの病気なのか、苦しそうに横たわる、お日様の様に暖かそうな明るく茶色いトラ柄の仔猫。
スマホで調べると、ここから三キロメートル程の位置に夜間も診療している動物病院があるらしい。
すぐに抱き抱え、走った。
普段、碌に運動もせず体力の衰えたこの身体がこんなに走れるんだなと初めて知った。
いや…火事場の馬鹿力ってやつだったのか。
とにかく必死に走った。冬の寒さの中、汗が滴る。呼吸がしにくい、冷たい空気に喉が痛む、苦しい。
抱えてる仔猫の様子が気になり胸元を覗き込むと、ぐったりとしてはいるが、ゆっくり少しずつ呼吸をしている動きは確認出来た。
善隆は走り続けた。
死なせてたまるかと。
そうして辿り着いた動物病院に駆け込む。
待合室で呼吸を整えながら暫く待っていると、診療を終えた獣医さんが奥から出てくる。
「もう、大丈夫ですよ。衰弱はしていますが、命に別状は有りません」
良かった……。
獣医さんからの一言に、善隆の目からは自然と涙が流れた。
「……ありがとうございます」
入院までしなくても大丈夫なようなので、注意点だけ聞いてそのまま帰宅し家で飼う事にした。
そんな出会い。
今思い出しても、あの時必死に探し必死に走った善隆を彼自身が褒めたいと思った出来事。
善隆が翌日あの公園に行くと、仔猫が倒れていた草むらの奥の樹の下にはひっくり返った段ボールと、その中に「どなたかよろしくお願いします」と書かれた紙が見つかった。
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名前の由来は身体からするお日様の匂い、日向のような暖かな色をしているから「ひなた」と名付けた。愛称は「ひな」。
ひなたはおもちゃにあまり興味が無い。遊ばない。
丸くなって寝ているか、だらしなく仰向けで寝ているか、
ボーッと善隆の顔を見つめてたり、おっとりとした甘えん坊な女の子だ。
他の猫と比べても、何となく大人しすぎる、物分りが良すぎるなと不思議に感じる時がある。
病気が心配だったが、定期的に連れていっていた動物病院の獣医さんからも健康だと言われる。
心配は無いようだった。
そんな大人しいひなたも全力疾走する事がある。
わかる人はわかると思う。そう、ウ◯コした後のウ◯コハイである。
あれだけは何度見ても笑ってしまう。
ひなたは元気に、健康に育っていった。
この二年でひなたはとても懐いてくれた。
基本的には善隆の膝の上、彼が横になって本を読んでいると、彼の頭の横に来て丸くなる。
体勢を変えても、動いた彼の頭の横に移動してきて丸くなる。
仕事から帰れば出迎えてくれるし、夜寝る時は同じ布団に潜ってくる。
他の家の猫でよく聞く、夜中の運動会はひなたはしない。
善隆がトイレやお風呂、キッチンに移動すると必ず着いていく。何をする訳でもなく…ただ着いていく。近くにいないと寂しいようだ。
ひなたは甘えたい時、甘えてる時、おやつ等を食べて満足した時だけ
ゆっくりと目を閉じながら「ミー」と、いつもより甲高く、仔猫の時のように鳴く。
「ひな〜」
名前を呼ぶ。
「ニャア〜」
喉をゴロゴロ鳴らしながらひなたが応える。
頭を撫でると、
「ミ〜……」
甘えてくる。
幸せだ…と。生きててくれてよかった、と。二年経った今でも善隆は心からそう思う。
とにかく、善隆の生活はひなたといつも一緒。
嬉しい時も、悲しい時も、いつもそばに居てくれる。
仕事して、帰宅して、アニメや漫画を楽しみながらひなたと過ごす。
平凡な日常だけど、そんな平凡に善隆は満足していた。
だけど、そんな平凡は突然の白い光によって崩された。
マンションの一室から、一人と一匹が、消えた。