幽霊が見えるMさんの話
私は幽霊が見える体質のようです。人によって霊体はまるで普通の人間のようだったり、何処かしら透けていたり、影がなかったり、もしくは人形の茫漠とした霧がかった何かに見える場合があるらしいのですが、私はこの中のどれにも当てはまりません。幽霊の影のみが見えるのです。例えば風が吹くと頬がピリピリと痛む冬の夕染に公園のそばを通りかかった時、ブランコをこいでいる子供の長い影を見て「寒いのに元気だな」と思っていざ影の出所を見てみるとそこに誰も居らず、ただキコキコと鉄がすり合う音をさせながらブランコが揺れていたり。電信柱の無機質で直線的な影の横に、幽かに動く人の影像が寄り添っていたり。さらに子供の頃、やたらと私の影を踏んでくる小さな影法師が居たので、それと一緒に影鬼に興じた事もありました。この影、もしくは陰という言葉には表面に現れない部分とか、死者の霊魂などの意味もあるみたいなので、もしかしたら私のこういう性質も別段珍しくはないのかもしれません。
私には幽霊の姿を見る事が出来ないが故、向こうからも私に触ったり何かを言葉によって伝えてくる事はありません。闊達な小さな影は公園で生きている子供と混じって遊び回ったりしていますが、ただ駅のホームをうろうろあても無く彷徨っていたり、曲がり角の隅っこで動かずじっとしていたり、大人しいのがほとんどでした。ほとんど、というのは言い換えれば例外が存在するということです。私が初めて普通の影とは違うものと出会ったのは中学一年生の、息をすれば鼻腔がつんと痛くなるくらい空気が冷えた一月中旬の夕暮れだったと思います。
当時部活動をしていなかった私は、放課後友人と他愛のない会話をするのが日課でした。帰路につくのは六時頃でしたが辺りは既に暗く、ポツポツと街灯が道を照らしていました。明かりの下を通るたびに影が浮かび上がります。私は学校から家までの道のりで一カ所だけ嫌な所がありました。歩行者用トンネルです。コンクリートが剥き出しの作りになっていて、長さ十五~二十メートル、幅四、五メートルくらいでしょうか。右側にだけ一定間隔でライトが並んでいます、つまり右から左へ影が出来る事になります。
このトンネルというものが私はどうも好きになれません。入口と出口しかなく、昼でも自然光が入り辛く薄暗いからなのか、それとも風通しが悪く空気が澱んでいるからなのかよく分かりません。トンネルを通る時、見えない粘着質のヘドロが足に絡み付くようで気味が悪いのです。それでも帰る為にはこの道しかないのだからしょうがありません。
運悪く私以外の人は見当たりませんでした。頬骨の辺りにライトの明るさと僅かばかりの熱を感じながら、そして左側にうっすらと影を作りながらトンネルを進みます。革靴のコツンコツンという音が響き、冬場なのに空気が滞ってるせいか、トンネル内は今まで通った人間の吐息が残っているかの様な生暖かさがあります。厚着をしているから所々服と肌が汗でくっついて気持ちが悪い。そんな事を思っているうちに出口が近づいてきました。
安堵した刹那、左側に自分以外の影がぬらりとライトに照らされて現れたのです。横目でそれを見つけた私は心臓をわしづかみにされた様な気になり、これはまずいと直感的に分かりました。直感とは言うなれば経験の積み重ねです。私が今まで様々な影を見て来た経験が、今しがた目に入ったそれを拒絶したのです。だからといって急に走り出したり、驚いて声を上げてはいけないと思いました。こちらが向こうに気づいても、向こうにその事を気づかれては駄目なのです。幽霊の声や姿が見える人によれば、彼らの中には行き場の無い憎悪や後悔の念を見える人間にぶつけてくるのが居て、それはクモの糸にしがみつくカンダタの如き執念を見せるそうなのです。なので知らんぷりをして何事もなかったかのようにトンネルを通り抜けました。空っ風が毛細血管のように細い枝をガサガサと鳴らす寂しい並木道を通り、その日はそのまま家に着きました。明日の朝またあそこを通ると思うと憂鬱で仕方ありません。あんな影を見たのだから当然ですね。たった十数メートルの距離ですがそれがどうしても嫌なのです。考えを巡らせれば巡らせる程側頭部が脈打ち、左目の奥がズキズキと不定期に釘を打たれたように痛みます。首の周りも頭痛のせいで筋肉がこわばり、違和感があります。この日は三時間くらいしか眠る事が出来ませんでした。
朝は夕刻と違い、ちらほらとサラリーマンや学生が通勤通学の為にこの歩行者トンネルを使用します。それは私の心を幾分か軽くしてくれました。こうやって他の人を眺めるだけで皆それぞれ考えたり悩んだりしているのだと思え、私自身の心配事もその有象無象の一つに過ぎないと安心出来るのです。そしてあの影が見間違いだったと願いながら足を踏み入れました。今度は学校へ向かうので左側にライト、右側に影が出来ます。澄み切った朝のおかげで昨夕より空気は軽い気もしますが、相変わらず薄暗く気味が悪い。右後方にあの影が現れないか気を配りながら進みます。「大丈夫、大丈夫、きっと昨日は気のせいだったんだ」と言い聞かせながら。もうすぐ出口です。ふうっと安心して息を吐き、前を向きました。あっ!と思い咄嗟に避けます。あの影が私の目の前に現れたのです。勿論影なので浮き上がって私の前に立ちはだかった訳ではありません。左からライトを受け通路中央から右にすうっと伸びていました、丈の長いワンピース、もしくはロングスカートを着ているのか、影で出来た裾が幽かに揺れています。髪の長い女性の影。まるで私を通せんぼしているかのようでした。しかし例え見えない霊体でもそれを通り抜けるのは生理的な嫌悪感をおぼえます。その結果私は反射的に左へ避けたのです。しょうがないとはいえ、この行動は悪手でした。なぜならこの幽霊を認識している事が向こうにバレてしまったからです。しかし一刻も早くここから離れたかったので、問題を先送りにし学校へ向かいました。
授業は上の空でした。母に不審者が出たからとでも言って車で迎えに来てもらおうか。でも嘘はつきたくないし実際に何かされた訳でもない。当時中学生の私はこれといった解決手段を持ち合わせておらず、放課後の友達とのおしゃべりに精を出し、一時でもこの事を忘れようとするくらいしか出来ませんでした。
話し過ぎていつもより帰るのが遅くなってしまいました。辺りはもう暗く、街灯を頼りに家路につきます。あの影が待ち構えている。そう考えると歩みを進めるたびに胃に鉛が溜まっていくようでした。冷気に満ちた風が緊張でかいた汗と共に体温も奪い去り、陰に染まった骨だけの木々がざわりざわりと騒ぎ立てました。寒さと心地悪さで身震いがします。景色の奥の方にぼんやりと光るトンネル、あそこを通り抜けなければならない。入口の前まで来ると私は深呼吸をしました。凍った空気が体中に行き渡る。鼻がじんじんして耳の奥が痛む、頭が冴える。腹が据わった私は一気にトンネルを駆け抜けました。ただ出口を目指して。
走り終わってみると存外あっけないものだなと思いました。ここで初めて後ろを振り返ります。トンネルの真ん中辺りに蝋燭が風で揺らめくようにゆらゆらと動く黒い影、あの影。よく見ると長い髪が逆立って揺らいでいます。ただならぬ何かを感じ、首の後ろから肩にかけてゾワリと鳥肌が立ちました。これはまずいと思った瞬間、その影が徐々に速度を増しながらすうっとこちらへ向かって来るのです。私は冷えきった風がビュウビュウ鳴るのを聞きながら無我夢中で逃げました。ただ家を目指します。まるで闇を従えたかの様なあの影法師が追って来ているのかは気になるけれど、後ろを振り返る余裕などありません。我が家が見えて来た時には安堵の思いからか、涙腺が緩み、少し鼻先が熱くなって一度ズルッと鼻をすすりました。
家に着くや否やお風呂場に向かいました。逃げる時にかいた嫌な汗を全て洗い流したかったからです。湯船につかると恐怖と寒さで固まった体と心がじんわりと生気を取り戻していく。そう、相手は所詮影なのです。いくら私を追いかけようが危害を加える事は出来ないのだ。そう言い聞かせて気持ちを落ち着かせました。心とは不思議なもので、ちょっとした外からの作用で楽にも苦しくもなります。さっきまで恐怖でうち震えていたのも、少し体を温めたり、お腹を満たしてやればなんとかやっていけそうな気になったのでした。その日の夜は走った疲れのせいか、精神的な疲労のせいか、すぐ眠りについてしまいました。
真夜中、ぱちりと目を覚ましました。右側の窓から青白い月の光が私の部屋全体をぼんやりと照らしています。今夜は満月のようです。ふと左の壁へ目を移した瞬間、私の体は微動だにしなくなりました。金縛りです。息は出来るのですが、声を出そうにもひゅうひゅうと微かな音が喉から漏れるだけ。壁にはベッドと、それに入っている私がモノクロの壁画のように平面的に映し出されています。すると私の足がある方のベッド下からゆっくりとあの女の影が這い出してくるではありませんか。恐れで顔の筋肉が引きつっていくのが分かります。影が全て出終わり、ぬっと立ち上がると私の方をじっと見ました。正確には見られた気がする、です。私には彼女の表情を窺い知る術はありません。彼女の髪の束はのたうつ蛇のようにうねうねと動いています。私はそれをただ見つめる事しか出来ません。すると女はベッドに手をかけ、足を乗せ、四つん這いになってゆっくりゆっくりと私の頭がある方へにじり寄ってきて、遂には私の上半身に覆い被さるまで近づいて来たのです。どれくらい時間が過ぎたのか分かりません。何時間も経ったようにも、ほんの数分の出来事のようにも感じられました。恐怖で感覚が狂ってしまったのでしょう。するとおもむろに彼女は片手を振り上げました。その手には包丁が逆手で握られています。そして勢い良く私の胸へ打ち下ろすのです。何度も何度も何度も。まるで魂だけ飛び出して、外から自分が殺されているのを見ているかの如き不快感。これほどの殺意を向けられた事は未だかつて、そしてこれからも無いでしょう。体に痛みはありません。しかし痛みに耐える必要が無いからこそ、彼女の尋常ならざる敵意、憎悪を鮮明に感じ取る事が出来ました。ふっと血の気が引き、意識が遠のきます。私はそのまま気を失ってしまいました。
翌朝目を覚ますとあの影はどこにも見当たりませんでした。私は今まで起きた事の顛末をすぐ両親に話し、お祓いへ行きました。それ以来あの影には会っていませんし、なぜあれ程の殺意を私に向けて来たのかも分かりません。高校に進学するにあたって引っ越しをしたので、あのトンネルを使う事もなくなりました。
この影にはもう一つ「付き纏って離れないもの」という意味もあります。